足利義晴

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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足利 義晴(あしかが よしはる)は室町幕府12代将軍。失墜していた幕府の権威の回復と、払底状態であった財政の建て直しを図るために、自分の名前を辺りの大名に手当たり次第に売却したことで有名なことから「売名将軍」と呼ばれている。辛うじて信長の野望に登場できる程度の時代を生きた。

ちなみに、とある歴史学者が義晴が日本の幕府の将軍の中で唯一病気を苦に自殺したことに気付いて発表したのであるが、世間的にこの時代の将軍なんてどうでも良いと思っている人がほとんどなので、世紀の発見が世間に知られる可能性が限りなく低いと言わざるを得ない。

人物[編集]

11代将軍足利義澄の子として生まれる。父義澄は足利義稙大内義興細川高国らの侵攻によって京都を追放され近江に逃亡、帰京を果たせぬまま死去した。義晴は義澄の逃亡先である近江で誕生した。

近江は、後に近江商人と呼ばれる卓越した手腕の商人を多く輩出したことからも判るとおり、流通が円滑であり、経理の才能に精通しているものが多く生まれる風土を持っていた。そのような環境で育った義晴は、金の管理、工面には人一倍気を遣い、どうやって金を懐に溜め込むか日々試行錯誤していた。

義晴は金を蓄えるため、自分の一文字である「晴」を、地方の大名に売り飛ばすという手法を考案した。幕府の力は失墜していたが、いまだその権威を大義名分として求め、将軍の「お墨付き」を欲しがって渡りをつけようとする大名が多かった。義晴はそんな地方大名達の人心を察知し、自分の名前という形で「権威を売却」しようとしたのである。

この義晴の売名に対し、周囲の反応は冷たかった。実を採るためには如何なる名をも捨てる、武士の棟梁にあるまじき下郎と義晴は弾劾された。そういった一部の義晴に反感を抱く勢力が、義晴の弟足利義維を擁立、今まで義晴を支持していた管領細川晴元までもが鞍替えし、義維の勢力は肥大化、義晴は六角定頼の後ろ盾を得て、この弟と23年に渡り骨肉の争いをすることになった。

義晴の売名の恩恵により、幕府の財政は潤沢になったが、織田信長包囲網の際、義晴の息子の足利義昭が各地の大名を幕府の味方につける際に蓄えた金を殆どばら撒いてしまった。

義晴が名前を与えた人物[編集]

前述の通り、彼は自分の一文字である「晴」の字を多くの大名に売り捌いた事で知られている。その対象となったのは、武田信玄こと武田晴信、上杉謙信の兄長尾晴景、奥州伊達氏の当主伊達晴宗、山陰の大名尼子晴久など、枚挙に暇がない。挙句の果てには黒川晴氏のような田舎の豪族や山本勘助(晴幸)のような得体の知れない浪人上がり風情にまで晴の字を与え、サイヤ人の王子から「売名のバーゲンセール」と揶揄されるほどであった。

関連項目[編集]

Wikipedia
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