通潤橋

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通潤橋(つうじゅんきょう)とは、江戸時代に熊本県上益城郡山都町に架橋された。奇抜な意匠と機構によって知られており、外国人からは日本人が作った狂気の産物の一つに数えられている。

概要[編集]

本来、橋は人間の通行の為に架橋される「人を渡す道」である。しかし、通潤橋は人ではなく、水を渡す水路として建造、架橋された。

何よりも特筆すべきはその奇抜な外観だろう。橋の上に156人の小便小僧が直立し、一定時間おきに股間から放水し、渓谷に潤いの水を撒き散らす。156人の小便小僧が一糸乱れず股間から勢い良く弧を描いて水を噴出させる様は荘厳にして典麗であり、見るものにまるで幻想世界に紛れ込んだかのような錯覚を惹起する。観光客の九割が、これを見て感動の余落涙するという。通潤橋の小便小僧たちは、いつしか人々から畏敬の念をこめて、世界一美しい小便小僧と呼ばれるようになった。

経緯[編集]

何故このような奇抜な橋が架橋されたのか、そのルーツを辿ると、通潤橋が建造された江戸時代まで遡る。通潤橋が架橋される前の渓谷一帯は、水が流れ込まない不毛の地であり、潤いを求める住民達は灌漑用水を誘致できないか試行錯誤を繰り返していた。庄屋の布田保之助は、どのようにして水路を開削するか、日々アイデアを練っていたが、なかなか妙案が思い浮かばない。悶々としていた保之助だが、ある日、渓谷に視察に行った時、渓谷の真上から、坊主狩りにした5歳児が、立小便をして谷底へ尿を「放水」している現場に遭遇した。その時、保之助の脳裏に電光石火の閃きが走った。高所に水を誘導し、そこから一気に放水させることで、潤いをもたらす手段が、一瞬にして閃いたのだ。

切欠を掴んだ保之助の行動は迅速であった。彼は地元の住民達と一丸となり、高所に水を誘導するための設備の建造に取り組んだ。そしてあれこれ勘案した結果、橋を架橋し、その中に水道管を通し、橋から放水することで灌漑用水を引く案を立案し、工事に取り組んだ。

複雑な機構を要するため、着工は一筋縄ではいかず、なかなか進捗しなかったが、保之助達の血の滲む努力の結果、1854年、ついに完成した。そしてここから灌漑用水が放水されるに至り、恵みの水に浴した大地は大いに肥沃化したのであった。

保之助は、自分にアイデアを提供してくれた5歳児への恩返しとして、橋の構造に意匠を凝らした。それが橋の上に立ち並ぶ156人の小便小僧である。低地からくみ上げられた水が、小便小僧の股間から噴出する仕組みとなっている。これは日本で最初の小便小僧だと言われている。当時、日本は鎖国下にあり外国との接触が少なく、小便小僧を作る技術が提供されたとは考え難い。つまり、保之助達は独自で、5歳児に啓発されたアイデアを元に小便小僧を作り上げたことになる。肥後の民草の熱意と技術力は、驚嘆に値する。

なお、通潤橋架橋の濫觴となった、渓谷の上から立ち小便をしていた5歳児についてだが、どのような人物だったのかは良く判っていない。保之助も、必死になって彼を探したようだが、ついに見つからなかったようだ。ただ、今も残る文献の一つに、その少年の名前が記載されている。それによれば、彼の名は野原慎之介といい、武蔵国の旗本の長男で、綺麗な遊女の後を追っかけている内に迷ってしまい肥後まで辿り着いたのだという。

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