道祖神

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道祖神(どうそしん)とは、などによってロードキルされてしまった道端の動物達を供養し、怨念として化けて出て人間にたたりをなさないために鎮魂する目的で作られるモニュメントである。

概要[編集]

文明の発展にともない、交通手段も飛躍的に増加していったが、その裏で、人間の交通により殺されてゆく動物達がいた。古くは無残にも牛車に轢殺されたカエル、人間の足に潰された、電車に轢かれた鹿など、枚挙に暇が無い。こうした、交通事故の犠牲者となった動物達は、そのまま放っておくと、自分を殺した人間を恨んで化け物となり、人里に遅いかかるのである。主な祟りの一環として、通行人に呪いをかけたり、襲い掛かるなどして、道を通らせない。そのため、動物の怨念達は、道を阻害する邪悪な神、「道神」と呼ばれるようになったのだ。

そうした祟りを起こすような怨念にならないために、犠牲になった彼らを神と崇めて、怨念を払拭させようという考えから、彼らのを沈めるために木や石で人形を作ったり、供物を供えたりする習俗が生まれた。そして、鎮魂が成功した暁には、道を阻害する動物の怨念は、鎮魂の儀式を行い、自分の魂を崇めてくれた人間に感謝するようになって、道を妨げる道神から、道の安全を守る「道神」になると考えられるようになった。動物を轢き殺しておきながら、鎮魂した程度でその怨念が収まり、交通安全の神様になってくれるなど、虫が良すぎるにもほどがある考えである。ただ供養するだけならまだしも、御霊を交通安全に利用しようなど、厚顔無恥も甚だしい。全ては、人間の自分勝手な思い込みなのだが、習俗として定着してしまったのだから、しょうがないっちゃしょうがない。

形態[編集]

主に、殺してしまった動物の形に彫った、石や木で作られた彫刻を、道の半ばに安置する。だが、一部の地域では、どう見ても男性器としか思えない石造りの彫像を安置したりすることもある。交通事故で死んだ動物の遺体は損壊が著しく、もはやどんな動物なのかも特定できないことがある。そうなっては、その動物の形をした木偶人形や石人形を彫ることなど不可能である。そこで、せめて何らかの生命が生きた証として、生き物の象徴とも言える、屹立した男性器のモニュメントを作って鎮魂しようという意図がある。決して、鎮魂とチ○コの語感が似てるからとか、そういう下ネタでは断じてない。

もちろん、死んだ動物にはメスも相当の個体数が含まれていることが推察できるわけで、遺体の損傷が激しく性別が判別できないからという理由だけで、十把一絡げにオスの象徴である男性器を象った石碑を作るのは女性差別ではないかとフェミニスト達から反発があがっている。しかし、一部の喪女達からは、リアルの男の肉棒がしゃぶれないブサイクな自分もこの道祖神のおかげで石造りの偽物とはいえ男の肉棒がしゃぶれるようになったと感謝されている。

双体道祖神[編集]

長野群馬の街道、山道には、双体道祖神と呼ばれる特徴的な道祖神が設置されていることがある。双体道祖神とは、抱擁したり肩を並べたりした男女の形が彫られた石柱のことである。これは、昔人柱として生贄に捧げられた双子を供養するためのものである。

長野や群馬では、長らく男と女が一人ずつの一卵性双生児は不吉をもたらすとして、生まれてすぐに殺され、土に埋められるという野蛮な風習があった。隣県の栃木県の人間が、自分達の野蛮さを棚に上げて、この風習を根拠に群馬人は蛮族だと罵倒していることで有名である。

男女の双子は不吉であるという伝承が迷信であると判明した後、犠牲となった数え切れない双子を供養するために、男女の双子を象った石柱が各地に造られて行った。しかし、時代が下るとともにそうした過去の悲しい出来事は風化し、とりあえず男女の双子の石柱を道のあちこちに造って置けば旅人の安全が保障されるというおめでたい言い伝えが波及、結果、長野と群馬の山道街道は双体道祖神で埋め尽くされてしまった。

さらに時代が下って昭和の頃になると、双体道祖神は実は双子ではなくセックスしている男女であるという風聞がいずこから流布し、しまいには、セックスしている男女が街道に神として祭られているということは、群馬や長野では道端でセックスすることはむしろ推奨されているというとんでもない意見が溢れ、よそからきた観光客が碓氷峠の路上で乱交するなどして両県に多大な迷惑をかけた。