鎌倉幕府の成立

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鎌倉幕府の成立では、鎌倉幕府の成立時期をめぐる論争について述べる。

概要[編集]

「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」誰もが知っているこの語呂合わせのように、かつては、鎌倉幕府が成立した時期といえば、源頼朝征夷大将軍に任命された1192年であると教えられてきた。しかし、近年の歴史学の世界では、このような考え方に対し「あまりにいい加減すぎる」という声が高まっており、より詳細な成立時期を検討しようという機運が生まれ、現代の高校日本史の教科書では、有力説の内容とその根拠をすべて暗記することが必須となっている。本当に余計なことをしてくれたものである。

成立時期をめぐる諸説[編集]

鎌倉幕府がいつ成立したのか、数ある説のうち特に有力なものを以下に記す。

頼朝が「征夷大将軍になりたいなあ」と思った時[編集]

人は何事を行うにも、まず頭で考える。「征夷大将軍になりたい」と頼朝が強く思った時、いわば頼朝の脳内で、鎌倉幕府が誕生したと言っても過言ではない。人間の意思が歴史を動かすのだと考える論者は、この説を採用する。

頼朝が「征夷大将軍になりたい」という意思を外部に表示した時[編集]

しかし脳内で思っていたとしても、言葉、あるいは仕草から、その意思が外部に示されなければ、世人は誰もその意思を知ることは出来ない。人の意思は外部に表示されて初めて、客観的な「歴史」として世に残るのである。世の中に示された行動こそが歴史的事実であると考える論者は、この説を採用する。

頼朝の「征夷大将軍になりたい」という意思が朝廷に伝わった時[編集]

だが、よく考えてみると、頼朝の意思は肝心の朝廷に伝わらなければ、なんの意味も成さない。頼朝を征夷大将軍にするのは朝廷であり、天皇である。ただ、後白河法皇亡き後の朝廷は、幼い後鳥羽天皇に代わって関白九条兼実が牛耳っており、頼朝の任官を決定したのも彼であった。よって、彼の耳に頼朝の意思が伝わった時が幕府成立の時と言える。当時の朝廷は頼朝に逆らうことなど出来るはずがなかった、と考える論者は、この説を採用する。[1]

朝廷が「頼朝を征夷大将軍にしよう」と決断した時[編集]

そうは言っても、当時は未だ朝廷の権威は高く、頼朝がいかに日本の覇者となったといえども、朝廷が一方的に頼朝の要求に屈する存在であったとは考えにくい。関白をはじめとする廷臣によって頼朝の任官が決定されて始めて、頼朝の征夷大将軍補任という事実が生まれるのである。当時の朝廷の権威を高く評価する論者は、この説を採用する。

朝廷が「頼朝を征夷大将軍にしよう」という意思を外部に表示した時[編集]

当時、征夷大将軍の補任は除目という儀式によって伝達されており、この儀式を経てはじめて頼朝は征夷大将軍と認められる。朝廷の内部で行われた決定だけでは、正式には頼朝が征夷大将軍になったとは言えまい。法や慣習に則った手続きの存在を重視する論者は、この説を採用する。

朝廷の「頼朝を征夷大将軍にしよう」という意思が頼朝に伝わった時[編集]

もっとも、いくら正規の手続きを取ったとしても、それが頼朝の耳に届いていなければ、頼朝はその事実を知ることが出来ない。頼朝の耳に補任の事実が到達して初めて、彼は自分が征夷大将軍になったことを知ることが出来るのである。何事も最期までやり遂げることが大切である、中途半端は良くないと考える論者は、この説を採用する。

「俺は征夷大将軍だ」と頼朝が理解した時[編集]

だがちょっと待って欲しい。いくら耳に届いたとしても、脳がそれを判断しなければ、真に理解したとは言えないのではなかろうか。もしかしたら頼朝がボケていて、耳から脳に情報が伝わるまでにラグが生じている可能性がある。後に馬から落っこちて死んでしまう頼朝は、この頃から既に判断力が低下していたと考える論者は、この説を採用する。

脚注[編集]

  1. ^ なお、頼朝は後白河法皇の時代に任官を要求したが断られている。要求自体はこの時に伝わっているので、この時点を指すという説もある。

関連項目[編集]