かまくら幕府
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かまくら幕府とは、かつてあったかまくら製の王朝(幕府)である。棟梁の姓から、源北条王朝(みなもとほうじょうおうちょう)ともいう。
キャッチコピーは「いざ、かまくら」。
概要[編集]
雪やかまくらが大好きな源頼朝は、皇族に変わって政権を手に入れたのを機に「かまくらで政治を行いたい!」という強い願望を持つ。そこで頼朝は、日本中の雪を持ってくるよう全国に指令、雪は北陸、東北を中心に大量に頼朝のもとに集まり、その後地元の住民を総動員してかまくら100棟を建設させた。こちらは1192年「いい国作ろう」の年に竣工。
その後三代にわたって源氏が管理人を勤めるが、かまくらが夏に融けてしまうなどの不祥事が続き、直系は断絶する。以降、摂関家ないし皇族から名目上の管理人を招聘し、北条氏が代行を務める体制が続いた。
歴史[編集]
- 1185年 - 源頼朝が平家を殲滅し、新国家の成立を宣言。
- 1192年 - 源頼朝がかまくら100棟を完成させ、ここに入る。
- 1203年 - かまくらの管理に疲れた当時の管理人・源頼家が過労で倒れ、源実朝が管理人を継ぐ。後に病が癒えた頼家は管理人の地位を返すように要求するが、そのゴタゴタのせいでかまくらのほとんどが融けてしまうという始末になったため、北条氏によって暗殺される。
- 1219年 - 源実朝が暗殺され、7年の間かまくらの管理人不在となる。
- 1221年 - 大の雪嫌いで有名な後鳥羽上皇は「かまくら撲滅計画」というとんでもない発表をする。結果、この頃のかまくらの管理人代行であった北条義時と雪合戦を行うが、雪嫌いの上皇が勝てるわけなく、あっさり敗退。結果、京都に「六波羅探題」というかまくらが出来てしまった。
- 1232年 - 北条泰時、かまくらの管理方法についてまとめた「御成敗式目」を発表。
- 1243年- かまくら大仏が完成する。当時は大仏を覆うかまくらも建設されていたのだが、当然の事だが既に融けてしまい現物は存在しない。ちなみに大仏自体は雪像ではなくて銅像だったので、今でも存在する。
- 1274年 - おとなりの国が「日本の天皇の威厳が下がったのはかまくらのせい」というトンデモない言いがかりをつけて幕府軍と雪合戦を展開。おとなりの国側は巨大な雪玉「てつはう」を使って幕府軍を苦しめたが、途中で猛吹雪になり幕府側が有利なまま中止。1281年にも同様な雪合戦が展開された。
- 1297年 - かまくらの建設で生じたローンを帳消しにするサービス「徳政令」を発表。
- 1333年 - 後醍醐天皇らプロジェクトチームの捜査の「幕府が使用しているかまくらは、夏場は融けないように業者を使ってかまくらを保全していた。だから夏でも解けて崩壊しなかった」との発表に基づき、この年に熱い戦いをかまくらで展開。結果、夏場だと言う事もあり業者の対応が間に合わない全てのかまくらは解けてしまい。政治が不可能に(事実上の崩壊)。
その他[編集]
北条政子 - かまくら大好きな尼。かまくらの中で発表した「皆のものよく聞け、これが最後の言葉である。頼朝公がかまくら建設に掛けた金は、かまくらの気温より高く、かまくらの数よりも多い」という愚痴言葉はあまりにも有名。「この言葉に涙した」ともよく書かれるが、この涙は政子の愚痴言葉に共感出来すぎたが為に、感極まり涙したのである。
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この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。 後は適当に頑張って下さい。(Portal:スタブ) |
後世の評価[編集]
作家の海音寺潮五郎は、「かまくらで政治をやるなんて面倒な事をするくらいなら、幕府なんか作らなくても良かったのに」と、批判している。
歴代管理人[編集]
代 | 氏名 | 院号 | 官位 | 在職期間 | 出身家 | 享年 | 墓所 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 源頼朝 みなもとのよりとも |
- | 正二位権大納言 | 建久3年(1192年)7月12日 - 建久10年(1199年)1月13日 |
河内源氏 | 53 | 大倉法華堂 白旗神社 |
2 | 源頼家 みなもとのよりいえ |
法華院 | 正二位左衛門督 | 建仁2年(1202年)7月22日 - 建仁3年(1203年)9月7日 |
河内源氏 | 23 | 修禅寺 |
3 | 源実朝 みなもとのさねとも |
大慈寺 | 正二位右大臣 | 建仁3年(1203年)9月7日 - 建保7年(1219年)1月27日 |
河内源氏 | 28 | 寿福寺 白旗神社 |
4 | 藤原頼経 ふじわらのよりつね |
- | 正二位権大納言 | 嘉禄元年(1226年)1月27日 - 寛元2年(1244年)4月28日 |
藤原氏(九条家) | 39 | - |
5 | 藤原頼嗣 ふじわらのよりつぐ |
- | 従三位左近衛中将 | 寛元2年(1244年)4月28日 - 建長4年(1252年)2月20日 |
藤原氏(九条家) | 18 | - |
6 | 宗尊親王 むねたかしんのう |
- | 一品中務卿 | 建長4年(1252年)4月1日 - 文永3年(1266年)7月20日 |
皇族 | 33 | - |
7 | 惟康親王 これやすしんのう |
- | 正二位左近衛大将 →二品 |
文永3年(1266年)7月24日 - 正応2年(1289年)9月14日 |
皇族 | 63 | - |
8 | 久明親王 ひさあきらしんのう |
- | 一品式部卿 | 正応2年(1289年)10月9日 - 延慶元年(1308年)8月4日 |
皇族 | 53 | - |
9 | 守邦親王 もりくにしんのう |
- | 二品 | 延慶元年(1308年)8月10日 - 元弘3年(1333年)5月22日 |
皇族 | 33 | - |
歴代管理人代行[編集]
代 | 氏名 | 官位 | 在職期間 | 享年 | 出身家 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 北条時政 ほうじょう ときまさ |
従五位下 遠江守 |
建仁3年(1203年) - 元久2年(1205年) | 78 | 北条氏 |
2 | 北条義時 ほうじょう よしとき |
従四位下 陸奥守 |
元久2年(1205年) - 貞応3年(1224年) | 62 | 得宗家 |
3 | 北条泰時 ほうじょう やすとき |
正四位下 左京権大夫 |
貞応3年(1224年) - 仁治3年(1242年) | 60 | 得宗家 |
4 | 北条経時 ほうじょう つねとき |
正五位下 武蔵守 |
仁治3年(1242年) - 寛元4年(1246年) | 23 | 得宗家 |
5 | 北条時頼 ほうじょう ときより |
正五位下 相模守 |
寛元4年(1246年) - 康元元年(1256年) | 37 | 得宗家 |
6 | 北条長時 ほうじょう ながとき |
従五位上 武蔵守 |
康元元年(1256年) - 文永元年(1264年) | 36 | 極楽寺流 |
7 | 北条政村 ほうじょう まさむら |
正四位下 左京権大夫 |
文永元年(1264年) - 文永5年(1268年) | 69 | 政村流 |
8 | 北条時宗 ほうじょう ときむね |
正五位下 相模守 |
文永5年(1268年) - 弘安7年(1284年) | 34 | 得宗家 |
9 | 北条貞時 ほうじょう さだとき |
従四位上 相模守 |
弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年) | 40 | 得宗家 |
10 | 北条師時 ほうじょう もろとき |
従五位下 相模守 |
正安3年(1301年) - 応長元年(1311年) | 37 | 宗政流 |
11 | 北条宗宣 ほうじょう むねのぶ |
従四位下 陸奥守 |
応長元年(1311年) - 応長2年(1312年) | 54 | 大仏流 |
12 | 北条煕時 ほうじょう ひろとき |
相模守 | 応長2年(1312年) - 正和4年(1315年) | 37 | 政村流 |
13 | 北条基時 ほうじょう もととき |
従五位下 相模守 |
正和4年(1315年) - 正和5年(1316年) | 48 | 極楽寺流 |
14 | 北条高時 ほうじょう たかとき |
従四位下 修理権大夫 |
正和5年(1316年) - 正中3年(1326年) | 31 | 得宗家 |
15 | 北条貞顕 ほうじょう さだあき |
正五位上 修理権大夫 |
正中3年(1326年) | 56 | 金沢流 |
16 | 北条守時 ほうじょう もりとき |
従四位下 相模守 |
嘉暦元年(1326年) - 元弘3年(1333年) | 39 | 赤橋流 |
関連記事[編集]
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