鑑真

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唐招提寺に残る鑑真像

鑑真(がんじん)とは、出身のエクストリーム・密航及びサバイバルパイオニア。各種スキル習得のため、少林寺をはじめとする各地ので修行を重ね、最終的には日本に渡ってきたことでも知られる。

尚、鑑真は本来僧名であるが、混乱を回避する為、本文中では個人名の表記を全て鑑真で統一する。

概要[編集]

唐にて、幼少期より冒険に勤しみ、後に各地の寺をまわり修行を積み重ねて、現在のエクストリーム・密航及びサバイバルに関する技術やルールの基礎を作り上げたと言われる人物。その逸話は数知れないが、その名を唐だけに限らず世界に知らしめたのが、日本への密航だった。

密航という概念そのものがまだ未完成だった当時、ただでさえ危険の伴う渡航、さらに小さな船の中に隠れ潜むこと自体極めて困難としかいいようがないが、それを可能としたのも、鑑真の卓越した技術と体力という卓越した能力、そして決して挫ける事のない意欲と闘志があってこそである。その体力、技術力、知力、精神力、それらの総合的能力は、当時としても突出していたことはもちろん、現代のアルピニスト達と比べても遜色がないとさえ言われている。

生い立ち[編集]

鑑真は、688年、唐の揚州にて地方の役人の子供として生を受けた。幼少時から好奇心旺盛で恐いもの知らず、冒険好きだった鑑真は、野山を駆けめぐる少年期を過ごすが、14歳の時、家の事情と勉学のため寺に預けられることになる。

寺での薪集めや薪割り、水汲みなどの厳しい修行、質素な食事といった環境の中、鑑真は将来本格的な冒険に出る為には、これらの体験や技術が不可欠である事を悟り、より一層の鍛錬に励む事になる。しかし、3年後、寺での修行に物足りなさを感じ始めた鑑真は、より厳しい修行の場を求めて寺を後にした。次に鑑真が向かったのは、当時、既に名前の知られていた少林寺だった。ここで拳法をはじめとする各種体術を学ぶ一方で、水練、登山技術、薬草学などを習得し、冒険に必要とされる様々な技術を身につけていった。その後、寒冷地や砂漠地帯での生存術を学ぶ為、各地の寺を点々と回った鑑真は、30歳の時、最初の冒険で、それまで想像上の動物とされてきていた大熊猫の捕獲に成功。その後も、金絲猴の発見、始皇帝の墳墓の調査などを次々に成功させ、皇帝の庇護を受けるほど名誉と名声を得るに至った。

しかし鑑真本人は国内の国内の冒険に物足りなさを覚えており、早くもその目は海外へと向けられていた。それを見計らったかのように、鑑真の耳に、日本からやってきた遣唐使の話が飛び込んでくる。倭国の時代から付き合いがあるとはいえ、唐国内では、日本はまだまだ謎の国であり、鑑真が興味を持たないはずがなかった。

日本への誘い[編集]

日本へ渡るという渇望に取り憑かれた鑑真だったが、その道程は平坦どころか、鑑真でさえ挑んだ事がないほどの切り立った岩壁だった。

当時、造船技術、航海技術、天気予報、そのいずれもが現代より遙かに劣っていたことはいうまでもなく、それ故に船舶の沈没率は非常に高かったことから、舟に乗って外国にいくということ自体が自殺行為、死亡フラグも同然だった。そして、何より、鑑真の名声が海外渡航という目的に対する最大の難関となって立ち塞がっていたのだ。

玄奘三蔵が天竺に向かう事を禁じられたことから分かるように、唐は自国の人間の出国に関して厳しい制限を設けていた。これは、国内の情勢などが諸外国に漏れることを防ぐ一方で、自国の優秀な人災が海外に流出することを恐れての措置だったわけだが、当然、偉業を成し遂げて皇帝の庇護を受けるほどの人物である鑑真が日本に向かうどころか、出国の許可をもらえるはずすらない。

だが、それくらいのことで諦めるような鑑真ではなかった。正規に日本に渡る事は不可能と判断した彼は、帰り便の遣唐船に隠れ潜むことで日本へ渡る事を決意する。無論、狭い船内に隠れることの困難さに加え、途中、嵐に襲われ船が沈没したり潮の流れや風向きの悪さによって漂流する危険の高さは全て承知していたわけだが、だとしても、その決意こそが無謀としかいいようがなかった。しかし、どれだけ危険があろうともその決意が揺らぐような彼ではない。入念の下調べと準備の元、遂に彼は日本への密航計画を実行に移す。

鑑真、55歳の春だった。

来日成功までの道程[編集]

  • 743年
記念すべき初の密航に挑戦。しかし元より有名人である事に加え、その鍛えられた肉体は人目につきやすく、乗船前に港で役人に海賊ではないかと疑われてしまい未遂に終わる。
  • 744年
周到な準備の上でリベンジ。怪しんだ役人を素早く締めおとすなどの実力行使で乗船には成功するものの、出航後、激しい嵐で船が引き返してしまい失敗に終わる。
  • 745年
再々度、密航を企てたが、前の2回の失敗により役人や船舶関係者に顔が知られていたこともあり、警備が厳重化したことで3回目も失敗に終わる。
  • 746年(747年という説もあり)
密航のチャンスが訪れるが、協力者の1人が出航直前に嵐の予兆に気づく。だが制止をふりきり鑑真はこれを強攻。彼を救う為、協力者はやむなく役人へ密告、案の定、船は嵐で沈没し結果的に鑑真は一命を取り留めることになるが4回目も失敗となる。
  • 748年
ほとぼりが冷めた頃を見計らって、鑑真は5回目の密航計画を実行に移す。しかし出航した船は、嵐に遭遇し14日も漂流したあげく南方の孤島「海南島」へ漂着してしまう。だが、少林寺などでの厳しい修行によって鍛えられた肉体に加え粗食にも慣れていた上、食べられる野草などにも詳しかった鑑真は、3年近くに及ぶ孤島の厳しいサバイバル生活をそれなりにエンジョイし、751年、偶然島に立ち寄った船で、どうにか唐に帰還することとなった。現在でも海南島には鑑真の居住地跡が世界遺産として残されている。
  • 752年
日本側に強力な協力者がいないことには成功は難しいと悟った鑑真は、遣唐使の藤原清河を脅迫し協力を約束させた。しかし清河は、これが国際的な問題に発展する事を恐れ、土壇場で鑑真の乗船をキャンセル。だが、このことを見越していた鑑真は、既に副使を手懐けており、別の船に乗る事に成功する。出航した船は、暴風が見舞われ、藤原清河の船は沈没(鑑真は関与を否定)するが、鑑真の乗った船はどうにか持ちこたえて薩摩に到着、実に計画開始から10年余の歳月を経て鑑真はようやく日本に辿り着いた。

来日後の鑑真[編集]

富士山冬期単独登頂に挑む鑑真

ようやく来日を果たした鑑真は、霊峰富士の冬期単独登頂や立山連峰の制覇など次々と偉業を達成すると同時に、後進の育成にも力を注いだ。かつて修行の為、一方ならぬ恩義を受けた仏門への礼として、各地の寺をまわり、薬草学の伝授の一方で、山地での修行に関するアドバイスを行い、厳しい中でも最低限の安全を確保できるなど、その功績もまた大きなものとなった。この時、鑑真から受けた教育によって山地での修行に励んだ僧侶達が、山伏に代表される山岳地帯での修験者の原型となったといわれている。

しかし、無数の山々を制覇してきた鑑真も人間の寿命を乗り越えることだけはできない。763年、当時はしては驚異的といってもよい76歳という高齢で亡くなることとなる。死後、彼の偉業を称える弟子達によって木彫りの彫像、すなわち日本初の実在した人物の実寸大フィギュアが製作されることになった。これが仏教関係者や貴族はもちろん、庶民からも非常に好評を得た事から、以降、有力な貴族や高名な僧侶の間で自分の実寸大フィギュアを作ることが流行することとなる。

おまけ[編集]

鑑真は失明したのではなかったか、という方がいるかもしれないが、最近の研究で失明説は否定されている。もしも失明していればこれだけ強靭な身体能力を発揮することは出来なかっただろう。

関連項目[編集]

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