長崎市

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先祖の墓場から撮影。画面中央から、商業地→マンション→住宅→墓場

長崎市(ながさきし)は上海の東岸に位置する都市で、中国衛星都市である。 日本の都市という主張も存在する。「平和・国際・文化都市」を自称するが実際は軍事拠点であり軍港である。

古くは外国への玄関口であったが今は単なる田舎である。江戸時代から交易で栄えた影響で国内の他の都市とは違った景観があると住民は思っているが、それは自意識過剰鎌倉横浜のほうがもっとオシャレである。尚、長崎県の中央都市は大村市である。

市街地の交通が便利な所に人口が集中している。最近はマンションが建ち並び著しく景観を悪化させている。坂の町と言われるが坂の上はゴーストタウンと化している。

概要[編集]

実は小汚い街である。
尾曲がり猫.

江戸時代から現代に至るまで政府公認のヘンタイ文化が開花している。

古くはヘンタイの総本山のオランダとの交易があった影響である。教会にかぎらず寺や神社が多数有りコンビニの数より多い。キリスト教徒創価学会より多い。

住民は変人が多くギャンブルが大好きで学校の数よりパチンコ屋が多い。なお人口と数倍の猫が生息し独自の形態をしている。(尾曲がり猫)住宅にはデフォルトで漏れなくが付属している 。 気質はおおらかと言うか快楽主義で事あるごとに寄り集まって宴会をしている。趣味のサークルとか文化活動は殆どがを飲む口実である。人は急ぐ事をせずに時間にルーズで集合時間は必ず守られない。明治に開かれた初の長﨑市議会は午後一時開会に関わらず人が集まり始めたのは午後三時で夕方になっても全員揃うことがなかったのでそのままお流れとなり宴会が始まり痛飲したの事である。それから現在に至るまで全く進歩は見られない。

そういう気質なので「よかやかね、よかよか。」(だりー、どーでもいいや。の意)とたいした産業も発展せずに凋落の一途である。

市民運動が盛んで普通に保守政治家と左翼市民活動家が飲んでいたりする。頻繁に平和運動の集会が行われ自民党の市会議員と共産党の県会議員と坊さんとシスターさん(高齢)がならんで座っているのも特徴である。全市民は市と日教組が徒党を組んで小学校から洗脳教育をされるので成長すれば左翼になる。

長崎市では実際、国民保護計画案に書かれている「攻撃されたときの対処」を策定していない。近所の老人達は鼻でせせら笑いながら、「(核が)落ちたときは皆死ぬったい。運の良か奴だけ生き残っと。どがんして(どのようにして)対処とか決めるので、馬鹿らしか。」と話している。

地理[編集]

位置は中国の最東端にある。東京に行くより上海の方が近く、大阪に行くより釜山の方が近い。

長﨑は本来は現在の県庁から中島川の流域と銅座川の流域の500メートル四方の狭い区域の77ヶ町の事である。現在の長崎市は界王10倍拳である。港にすり鉢状に住宅が立ち並び人口が密集している。下からリア充のマンション、貧民のアパート、地元民の老人の一軒家、そして最上部が墓場である。

水増しで併合した市域を繋ぐために最近やたらと道路ができた。その集大成が「女神大橋」だが地元三菱様専用の専用連絡通路であり一般の人の通行は禁止されている。 坂道が多く道幅は狭い。平均的な斜度は17度(31%)くらいでスキーの上級者コース並である。狭い為に一方通行が多く迂闊に入り込むと目的地にたどりつかないばかりか車を電柱やガードレールで削る事になる。 階段や路地が大半をしめ徒歩でしか侵入できない。下水道が整備されてない家も多くドブが垂れ流しで小島のあたりなど独特な臭気がする。

地名[編集]

天正年間は平戸や福田、口之津が貿易港だが港にするには小規模すぎてポルトガルは不満をもっていた。そこで福田の奥の天然の良港を開放するのを領主の大村純忠にせまったが面倒がって名前すらつけようとしなかった。そこで「せめて名が先につけてくれ、名が先に」と言われすぎて「じゃー、”ながさき”でいいや。」と言って長﨑となった。ただ西洋への窓口の港にも関わらず、「ながさき」の発音が西洋人には聞き取りずらかったようで、世界的探検家ガリバー氏の旅行記では「nangasac(ナンガサク)」と表記されていた。

なお、市内北部には「女の都」なる地名が存在する。住民の98.765%が女性である。小学校まである。

気候[編集]

古い流行歌のせいか常に雨が降っているイメージがあるが著者の休日やお出かけの時は常に降っている。温暖で雪は殆ど降らない。東シナ海の影響で海洋性気候である。常春の国で冬でも15℃を下回る事は無い。だが夏の暑さは凄まじく蒸し暑い。40℃を超え、湿度は100%近い。灼熱の太陽が照りつけるので注意が必要である。

人口[編集]

なんどか虐殺で人口が激減しているが何れもアンサイクロペディアで言及するには相応しくない事件による。福山雅治が全市民を招待して無料ライブを行ったが稲佐山の野外ステージと県立球場で収容可能だったから、その程度らしい。

歴史[編集]

長崎開港[編集]

何処の馬の骨とも解らない長崎小太郎なる人物が何も無い寒村だった現在の長崎市に流れ着いたのが西暦1200年の初頭である。平家の落人を自称したが当然ながら大嘘である。

1570年、大村ボートで有り金を擂った大村純忠は借金を穴埋めして貰う代価に貿易商人イエスズ会に「深江の浦」と呼ばれた長崎港一帯を特別区として市場開放し開港する。突然に外資が乗り込んで来たのに危機感を持った守旧派の民族資本竜蔵寺一派は平戸の海賊と結託し長崎を武力で奪い取ろうとするがポルトガル船の圧倒的火力で撃退されてしまう。外圧をテコにボートの負けも何とか取り戻しやっと取り戻した大村純忠であったが実家の大村藩は旧守勢力との抗争に資金を使い果たしすっかり外資借金まみれであった。

1579年、遂に長崎をイエスズ会に寄進という形で借金のカタに取られる。 多くのクリスチャンを抱える長崎はおっちょこちょいの新しい物好きの信長の後押しもあり、オシャレな教会だのカフェだの総合商社だの立ち並ぶ国内での一大トレンディースポットになる。

ショタコン天国[編集]

(天正遣欧少年使節) 腐男子ショタ趣味を隠さない有馬晴信は童貞無垢の美少年を領内よりかき集めてセミナリヨ(神学校)を1580年に設ける。 活動資金に窮していたイエスズ会はこのセミナリヨの東洋のショタ達を母国にお持ち帰りしてアイドルとして売り出すと資金を稼げるのではと言う思惑で美少年達の欧州視察を有馬に持ちかける。有馬は4人の美少年達を選抜しこれが後のフォーリーブス(天正遣欧少年使節)となる。

キラキラネームの元祖 かくして遙かヨーロッパドナドナされる事になった天正遣欧少年使節4人の名前がふるっている。現在のキラキラネームの始まりはここからである。 伊東鈍満所(いとうどんまんしょ)千々和鈍弥劒留(ちじわどんみげる)中浦鈍寿理安(なかうらどんじゅりあん)原鈍丸知野(はらどんまるちの)と、とても読めない名前である。

いづれも13歳か14歳の美少年である。付き添いの神父にあぁ〜され、熱帯病で死にかかるという病弱属性を発揮しながらもリスボンからローマで韓流スター以上の国賓級歓迎をうけながら各国の国王から「あぁ〜な」夜の歓迎を受ける事になる。バチカンではローマ法王のあぁ〜な祝福を受ける。すっかり×の穴が緩くなりつつ帰国の途につく。 帰国途中に秀吉の禁教令を聞き決死の覚悟で帰国するもあっさり受け入れられる。長崎のポルトガル商人から彼らの美少年ぶりを聞き及んでいたからである。あぁ〜。

ブラック企業[編集]

(島原の乱) 選挙で大敗北(転封)した有馬氏にかわり橋下徹が島原市長に就任する。幕府と藩の二重行政の解消を旗印に圧倒的な支持を受るかにみえたが、教育経済顧問にワタミ渡邉美樹会長を招聘するや財政難を口実にこのコンビは武士や役人をバサバサ解雇し多くの反感を持つ在野の武士を生み出す。さも財政再建が出来たかに装う為に実質の領内にそれまでの倍以上の税金を設定する。領内の課税の元になる金額を実際の収入の数倍に設定した、つまり年収300万なら600万かそれ以上の重い税金を課したのである。

そのためにワーキングプアの農民から水産業者からの徴税は過酷を極め多くの餓死者を出すに至った。リストラされた武士を核として抵抗勢力を生む。

1637年(寛永14年)市役所から市税滞納の差し押さえにきた市役所職員を農民達が暴徒化し吊してしまう。こうなったらだれにも勢いを止める事ができず3万5千人が武装して原城に立てこもる。これが島原の乱である。

ウォール街を占拠せよ
「我々は99%である。殿様橋下徹とその取り巻きの1%は不当に富みを独占している。」

イケメン切支丹のカリスマ的リーダ天草四郎TwitterFacebookで九州一帯の信者に呼びかけると3万5000の婦女子を中心にリストラされた教師やバスの運転手まで集まった。

篤い信仰で結集した反乱勢力は徹底抗戦の籠城選を構える。攻める側の幕府側は「所詮は反日左翼の女子供とプロ市民の集団、恐れるに当たらない。」なめてかかる。 鎮圧部隊には徹底した成果主義を導入し、自己責任で戦果だけを要求する。 そのために召集された各藩の武将たちは自分だけ戦果をあげようとし鎮圧部隊は全く統率が取れていない烏合の衆となる。各藩の自分だけが目立とう、結果を出そうと抜け駆けの突発的な攻撃で反乱軍に各個撃破されてしまう。鎮圧部隊は無駄に戦死者を出すことになる。

結局、鎮圧部隊は屈辱の方針転換を迫られ、農民主体の反乱軍にプロの誇りをかなぐり捨てる兵糧攻めを取ることになる。反乱軍は兵糧が尽きる翌年の2月28日まで持ちこたえることが出来た。

結局惨憺たるありさまでのべ12万5千人で攻め込んで死者は幕府側5700人反乱側は途中参加者も含め死者3万7千人、女子供も例外なくほぼ皆殺しである。 これをもって完全に鎖国体制が確立される。長崎の出島という例外を除いて。

ひきこもり[編集]

(出島) というわけで長崎には出島が設けられる。通商と宗教文化の侵入を食い止めるという矛盾した目的からだ。よって厳重に隔離される。中のオランダ人はひきこもり状態に置かれるが現代のひきこもりは女はモニターの中だけであるが丸山の遊女は特別に出入りを許された。羨ましい限りである。

日本のロリの色香に迷ったオランダのカピタン、ヘンドリック・ドウフは日本に引きこもりを輸入して定着させた人物である。日本に留学中だったドウフに親からの仕送りが途絶えたのは1794年である。自営業の親の商店の隣にナポレオン・ドナパルト経営の大規模チェーン店のウォルマートが進出1810年にはあっさりと吸収されてしまう。 そこにつけ込もうと英国イオングループが「出島にジャスコを出店するからそこを明け渡せ。」とやってくるがさすがに義憤に感じ同情した日本勢に強い態度で追い払われてしまう。それから10余年、今日は仕送りが来ないか、明日はとおもいあぐねるうちにすっかり引きこもり鬱病になってしまう。

結局、強欲が過ぎて寝返りをうたれナポレオン=ウォルマートが自滅してやっと仕送りの船が来る1817年までひきこもり続けた。

ベーシックインカム[編集]

(竈銀) その独占貿易からもたされる膨大な利益は長崎市民の皆知るところだが不平不満も出るのは火を見るよりも明らかなので幕府は先手を打つことになる。ベーシックインカムの導入である。 すなわち竈銀である。

「地下配分」と称し長崎の各町単位に各世帯に金銭を配分した。今で言えば東京都が区役所を通じて配分したような物である。 その総額は年7万両、今の貨幣価値で言えば10億円程である。 その制度もよそ者だからあげないとか反日勢力であるからあげないとか言う物でもなく全員に行きわった。

もっとも箇所銀とかまど銀に分かれ前者は不動産を基準に地主に与え土着者に多く、後者は世帯を標準している。それぞれ銀130匁と30匁(50万円と10万円)ほどであった。もっとも自治組織が持ち回りその慰労の意味もあった。しかし無税であり消費税を抜かれている現代からは夢の様な話ではある。

憲法九条[編集]

フェートン号事件

平和ボケ

憲法九条の精神がいかんなく発揮され国難を救ったのが1808年のフェートン号事件である。当時の世界情勢はイギリスフランスが世界の覇権を争いアフリカアジアを収奪しまくっていた。専守防衛で平和ぼけの日本は領土的野心を持たないオランダとのみ交易していた。

このオランダと言う国はヨーロッパ負け組チキンの虐められキャラであった。よって海上に世界最悪のDQNであるイギリスに見つかるとカツあげされるのでこそこそ逃げ回っていた。

1808年のおりしも8月15日の終戦記念日であった。正午の黙祷を終え不戦の誓いを新たにした長崎奉行の松平康英は英国船が長崎港内に侵入した知らせに色めき立つ。 アジア近海ではDQNのチーマーであるイギリスが楽なカツあげのネタであるオランダ船を探しに出没していた。 オランダの国旗を掲げて入港してきたイギリス船フェートン号に日本側の税関職員とオランダ商社マンが乗り込んだ入港手続きの小舟が不用意に近づいた。刀しか持参していなかった日本の税関職員2名はなすすべもなくオランダ商社マンを人質に取られてしまう。

日本側のメンツを徹底的にたたきつぶすべくやりたい放題で今の稲佐橋の奥くまで船を接岸しボートで岸に乗り上げては記念写真を写メする。脅迫状を投げてよこし「肉に酒にタバコよこせ水を積んで船よこせ言うこときかないなら街中焼きはらうぞ。」とウエメセどころか殆ど強盗である。

そのフェートン号だが当時の最強のフリゲート艦である。北朝鮮が戦艦大和をリメイクしてテポドン積んで羽田沖に停泊している様なもので一瞬に長崎全体が火の海になる火力を有している。

さて長崎市街中が大騒ぎになる。精霊流しは急遽中止、長崎駅は封鎖、夢彩都はシャッターを下ろしてしまった。縁日の屋台のテキ屋は速攻で撤収にかかっている。逃げる人と市内に残した家族の元に返る車で長崎バイパスも日見峠も大渋滞である。

ここで驚いた事に当時は重要な防衛拠点であった長崎なのに警備の鍋島藩は連隊規模の警備があるはずなのに一個小隊の警備しか置いていなかったのである。この平和ぼけ非武装ぶりに長崎奉行も市民もひっくり返る。

民間の船を100隻ほどかき集めてかがり火でライトアップし非常警戒態勢に突入する。

無能な政府

あわてふためいた幕府は無能の限りで決定を先送りしている。幕府内でも意見が分かれ「憲法九条の精神をいかして外交努力と話し合いで解決すべきだ。」という一派と「かといって自衛権は否定されておらず明らかな侵略行為には自衛権を行使できる。」一派が激しく対立する。「そもそも戦闘行為が行われていない以上先制攻撃は出来ない。」という意見と「もうすでに侵略行為は為されており戦闘状態である。」と言う意見で議論が紛糾するありさまである。

ここでにわかにしびれを切らした強硬派が不穏な動きを始める。中止になった精霊流しで使われる筈だった爆竹を長崎中からかき集めて爆弾船を大波止の県立美術館の堀に隠して特攻をしかけようと準備を始める。 「長崎港に船を自沈させて封鎖、対岸から件の特製精霊船で特攻する。」というものだったがこれはオランダ側が「DQNの挑発にのったら最後だ。」と諫める。 もっとも一個小隊の自衛力しか無い長崎は要求をのみつつ援軍を待つことになる。

だがここで本当の意味で日本を救ったのは件の鍋島藩だった。手勢が整わなく攻めあぐんでいる長崎を尻目に援軍の本隊を長崎の手前のペンギン水族館で待機させて日和見を決め込む。 フェートン号は散々カツアゲしまくりで、長崎の婦女子にちょっかいまでだしてやり放題たかり放題の末やっと人質を解放したかと思いきや8月17日に急に出て行ってしまう。鍋島藩の部隊はその直後に「やっと着いたよ。」とのこのこ表れる。

結果的に鍋島藩がサボったお陰で馬関焼きはらいや薩英戦争のような国際紛争に発展せずに金だけの被害で人的物的被害を出さずにすんだ。

狂喜乱舞した反戦平和プロ市民のあいだでは日本平和憲法平和主義の勝利として長い間語り継がれる事になる。

現場の冷静な対応

一番気の毒なのは松平康英で責任を取る形で切腹する。その後鍋島藩の藩主は無期の禁固刑、重役達はそろって切腹させられる。それ以来、長崎の人間と佐賀の人間が仲が悪いのは伝統となる。 長崎町民は「松平が一部の暴発を押さえ一身に責任をとって街を灰燼の危機から救った冷静で優秀な指揮官で英雄。」と称え、葬儀を盛大にあげ見送る。ここに憲法九条と非戦平和主義が我が国が根付く事になる。

虹裏流出事件[編集]

和ロリ絵師伯川原慶賀と洋ロリ絵師シーボルト

日本初のロリコンであり美少女絵師が川原慶賀である。ドイツスパイシーボルトの求めに応じて日本の最高国家機密であるロリ絵を描いては海外に流出させていた。1826年幕府に表敬訪問に向かうシーボルトに同行し、日本各地の美少女達の姿を庶民から公家や武家に至るまで詳細にデッサンした。

その際江戸では折しもコミケが開催中であった。高橋真琴、蔦谷喜一、中原純一など伝説の絵師と交流を得た。国土交通省職員の高橋作左右衛門はシーボルトに何の気無しで前田敦子のあられもない裏虹創作を渡してしまう。それが後に悲劇を生む。

1828年、日本の薄い本の文化にすっかり魅了されたシーボルトは凱旋帰国することになる。

6月24日、帰途につく船「サウザンドサニー号」は折りしの台風で長崎港に足止めをくらうまでは良かったが係留していたロープが切れて対岸まで流されて座礁して大破積み荷が海岸に漂着してしまう。

当時の日本の税関は輸入に関しては厳格であったが輸出に関しては殆どザルであった。本業の医師で絶大な信頼を得ていたシーボルトは長崎税関の職員も積み荷はインボイスの確認のみであった。 それでも出国手続きを終えた荷物が国内に流れ着くと輸入品扱いで調べないわけにもいかない。 更に悪いことに当時は重大な国家機密であったAKB48裏虹を持ちだそうとしていると幕府に密告した人物がいる。大島優子派の間宮林蔵であった。前田敦子派を貶める為である。かくして禁制品の裏虹薄い本が発覚する。 問題になるが件の虹裏が普通にとらのあなメッサンオーで売られていたさして機密性の高い物でもない事が解る。それでも一応禁制品は禁制品と言うことで国外退去処分という出来るだけ穏便な処分に落ち着く。

後30年後ドミニク・アングルとしてその昇華された画風で再来日する。代表作は「泉」「トルコ風呂」 川原慶賀は長崎と江戸の追放処分となり、後に「田口トモロヲ」名乗る事になる。田口は数々のエロ漫画を発表、俳優映画監督として活躍する。

おとろしあ・プーチン来襲[編集]

1853年にぺーリーが浦賀に来航と時を同じくしてロシア提督のプーチンの戦艦がやってくる。通商と国境線画定の為にである。江戸では守旧派ばかりで話にならんので、まだ海外と接点がある長崎の方が話が早かろうとの思惑からである。

長崎奉行の馬場は長崎港内に停泊したロシア船艦内部で妖精の様なロシアロリの強烈な動画を見せられショックで寝込んでしまう。 かといって幕府は浦賀で足下に火が付いているので先延ばしにしてらちがあかない。結局真夏に入港して幕府の返事があったのは年末も押し迫ってからだった。 で肝心の幕府の返事はというと

「けーれ、いま忙しいんで。w」

の一言であった。激怒したプーチンであったが「今幕府は維新の会が政権勢力を脅かし排外主義者が政権を握っているのでどもならん。」との必死の説得で引き上げる事になる。

この時形だけの平和条約を結ぶ。この時の平和条約は今後の条約のテンプレになる。

宇宙戦艦夕顔丸[編集]

時代が安政に入ると日本はガミラス帝国の侵略によりヤバい状況に陥る。日本中にテロが頻発しコレラが発生し大地震は来るは津波は来は原子力発電所のシリアスな事故まで発生して放射能汚染が深刻になる。 コスモクリーナーをイスカンダルに取りに行くべく宇宙戦艦の建造を幕府から岩崎弥太郎に下命される。後の三菱重工業長崎造船所となる工場で日本独自で宇宙戦艦「夕顔丸」が竣工する。艦長として近藤長次郎は一人宇宙に旅立つ。

岩崎弥太郎は丸山芸者と遊ぶ金が欲しくて後藤象次郎とインサイダー取引で武器や藩札を売り抜け買い抜けして大もうけする。その資金力と実力を買われた岩崎は武器の国産化するインフラ導入を任せれることになる。坂本龍馬は困ったちゃんだったがさっくり暗殺される。

近藤は宇宙から帰らなかったが夕顔丸は無事に帰投、その後は戦後まで市民の足として長崎港内の渡し船として活躍する。

明治以降[編集]

シャレにならないので書きたくない。

事始め[編集]

「長﨑が日本で初めて。」と地元民が主張する事象は次の通り。

  • デパートの屋上遊園地(岡正デパート)
  • 防災無線の時報(岡政デパート)

解説すると昔は「ドンの山」と言って江戸時代の通信手段がなかった頃長﨑外港の見張り台から外国船の入港を知らせるのに大砲を撃て音で知らせたが、予行演習の為に定時の通報訓練に大砲を撃ったのに始まる。 長﨑の岡正デパートはそれを引き継ぎ午後3時に消防署のサイレンの様なスピーカーで長﨑中に聞こえる音量で「主人は冷たい土の下に」のメロディーのチャイムを鳴らしたのである。音の公害とも言われたが屋上の10円の遊具に乗りながらアイスを食べるのが小学生の自分には得がたい幸せと休日が終わる一抹の寂寥感でない交ぜであった。 尚岡正デパートの社歌は北原白秋の作詞である。

  • 上野彦馬(日本初のニコ動P)
  • 活版印刷の本木昌造(日本初のコミケ参加者で最初に薄い本を作った人)
  • ロリ本 和英痛淫炉理波便覧、川原慶賀による。 慶応4年(1868) 

行政[編集]

国の機関[編集]

現在の長﨑の行政はここで統括して行う。

国の諸官庁、長﨑市役所、長﨑県庁の機能を全て統括する国の出先機関として「長﨑奉行所」が設置されている。

所在地は長崎市立山1丁目1番1号

そもそもイエズス会の領地だったが豊臣秀吉が文禄元年(1592年)に設置されたのが始めとされる。裁判所の機能もありそこの裁判記録「長﨑犯科帳」は全ての時代劇の元ネタである。長﨑奉行の報酬や市内の貿易事業からの事実上の政治献金で通常の官僚の生涯年収を遙かに超える収入がある。 但し運が悪いと切腹させられるリスクも伴う。(フェートン号事件を参照)

行政区域[編集]

行政区域はおくんちの踊り町とそれ以外で区分けされている。 赤迫電停以北、戸町トンネル以南、三菱本社以西、蛍茶屋以東は人外魔境である。

長﨑市役所[編集]

このソリに乗せて路地や階段の奥からゴミを収集する。

長﨑市役所の最も重要な機能は地下の食堂で市内で最も安くて美味しい食事ができコスパは最高であるが恐ろしい込みようなので一見の観光客は近隣の県庁の食堂を使うと良い。

長﨑の行政で特筆すべきなのはゴミ収集と屎尿収集である。 長﨑でのゴミ収集はすべてソリである。このソリに乗せて人間が回収して廻る。当然手押しである。

長﨑では屎尿収集はバキュームカーである。水洗便所は普及していなく殆どの家がぽっとん便所である。屎尿くみ取りはバキュームカーで行う。ホースを何十メートルと繋げて路地を屎尿のホースが伸びていく。このホースの敷設と撤去だけでも大変な手間であるので一部の路地裏には道沿いにそのままホースをくくり付けて放置してある。皆様も長﨑にこられた折は路上に放置してあるホースには手を触れない方が良いかもしれない。

産業[編集]

工業、造船業[編集]

平和文化都市の筈だが兵器を作っている。

実は軍需産業で喰っている。

捕鯨[編集]

を捕まえて食べている。長﨑は昔捕鯨基地で大洋漁業の本拠地であり大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)の名前はここから来ている。その縁で今でも年に一度は必ずベイスターズの公式戦が開催される。グリーンピースなどの環境保護団体は入域を規制される。市民の殆どは鍋いっぱいの鯨肉を食べて育っているのでアフガニスタンアメリカ人の様に無事に帰れる保証はないと市もホームページ上で警告を出している。

町中には鯨を扱う飲食店が其処此処に見られる。鯨の専門店が町の一番良い場所を占拠している一。市内の殆どのスーパーの店頭ではイルカの解体ショーが行われ、年に一度はの解体ショーが全市を挙げて行われる。鯨と言えば一般的な日本在住者は竜田揚げや大和煮を想い浮かべるが長﨑では刺身で食べるのが圧倒的である。昔はタダのような安い値段で肉が流通していたので子供が大鍋で煮た肉を山盛り食べていた。

市の祭礼であるおくんちでは鯨をリスペクトした出し物が奉納される。

文明堂[編集]

カステラやお菓子の製造を行っている。なお全然別物なのに日本各地に複数の文明堂が存在するのは一度文明堂本社が攻撃で消滅してしまい各地で各個独自の判断で存続を続けたからである。 長﨑の文明堂は戦後に生存者が復興したものであり実は本家が一番歴史が浅いという不可思議な話が実在するのである。

パチンコまるみつ[編集]

実は長崎の裏の支配者の顔の一つでもある。 パチンコで吸い上げたお金を本社へ回しそれを元手に不動産業、金融業に勤しみ長崎の経済を回しているのだ(搾取してるのに経済廻してるとかこれもうわかんねぇな)

交通[編集]

「長﨑など地方で大都市圏と比べれば不便極まりなく自家用車が無いと生活出来ない。」と思われるだろうが実際は逆で自家用車は極めて不便である。 駐車場は無く道狭い。

狭い反面、コンパクトシティであり極めて効率良くバス路面電車が運用されてる。

長﨑での交通の優先順位は

救急車>>路面電車>>>>>>>まるにタクシー>>バス>>>>>>>ラッキータクシー>>>原チャ>乗用車>>>>パトカーである。

ちなみに自転車は5分で県営バスに踏みつぶされるので市内では乗らないに超した事は無い。

エレベーター[編集]

長﨑市立山町にある歩行者用リフト

長崎市の中心部を結ぶとても重要な交通手段である。自動車はもとよりバイクですら侵入できない地域が市域の90%を占める。歩行が困難な高齢者が増えた為に設置された。

  • 初号機 グラバースカイロード
  • 1号機  てんじんくん   
  • 2号機  さくら号  
  • 3号機  水鳥号  
  • 零号機 (名称無し)グラバー園
  • 5号機 稲佐山ロープウエイ
  • 6号機 稲佐山スカイロード(閉鎖中)
  • 量産型 東長崎山中の蜜柑や枇杷畑(多数確認)

路線バス[編集]

ここをバスが離合する。
ここをバスが離合する。

君は長﨑に来て親戚や友人の家を訪ねる。そこでメールで教えられたバスに乗り込むが君はそこで奇跡を見る。

関東圏から来た人には、見た目はガサツで乱暴そうには見えるそうだ。排気ガスが特に臭く黒煙を上げている。ノンステップバスを自称していても結構な段差がある。それには必然があり長﨑は坂道が多くて狭い道なので東京の様なお上品なバスだと非力で坂を登らないし腹をこするからである。長﨑の街はとても狭く道幅も狭い。離合は奇跡的である。(”離合”とは「車や列車がすれ違う事。」九州の方言)普通自動車ですら狭い道をフルサイズのバスが離合するのである。

バスとバス、バスと電柱の間は30センチもあいていない。

自家用車で県外の人を案内すると非常に怖がられる。道は狭く曲がりくねっている。そこにフルサイズのバスが突入するのはちょっとした見物である。長﨑のバスドライバーはおそらく世界有数の腕を持つのではないかと思われる。路面電車と違う所は停留所に止まるまで席を立つと怒られる所である。

運転手の性格はおおらかで交差点でクラクションを鳴らして中指を起てる様な人は最初から採用されないらしい。

路面電車[編集]

﨑の路面電車「カールおじさん号」です。ファンシーの外観と裏腹に凶暴です。 撮影地点。西浜町電停付近。

君が長﨑に来てスリルを味わいたければ路面電車に乗るべきである。長崎市内を縦横に網羅する便利な乗り物であるが、その温厚そうな顔とは裏腹の恐ろしい乗り物である。

警笛を連打しながら猛スピードで停留所に滑り込んでくる。もし君が二日酔いなら引き込まれる事請け合いである。

ほぼ何時も満員の車内に乗り込むと同時に運転手はマスコンを全開にして加速する。市内で混雑しているにもかかわらずF1マシンのようなスピードで市内をかっ飛ばしていく。車体に「藤原とうふ店」とは書かれていないが、カールおじさんだのチキンラーメンのぴよちゃんだのファンシーな外観とは裏腹である。

ついうっかり右折し損ねた一般車両が軌道敷内にいようものなら警笛を連打されて追い出されてしまう。タクシーやバスをて例外で無い。

スピードがマックスまで乗ったと思うと次の電停が近づいてくるがギリギリまで決してブレーキをかけない。「もうヤバいだろ?」という直前で車体がロックする限界点までブレーキをかけて急減速する。なおドアは車体が停止する前には開いている。

混雑で降りる電停の手前で出口(前ドア)に移動していないと降り損ねるので注意が必要である。

たまに乗り鉄の人が赤迫電停まで来るが注意すべき点がある。赤迫電停では一旦電停に止まり立ち上がると再始動して奥までつける。知らないとうっかり転んでしまう。実際にお年寄りが転びそうになる所を見かけた事がある。

運転手に問いただしたところ

「お客さんも運転手も皆が危険だと思っていて運転手組合も要望をいれたが会社の方針と言う事で聞き入れられない。」の事だった。

幸運を祈る。

徒歩[編集]

徒歩とは何たることだ?と怒られるかも知れないが長﨑で最も便利で有効な交通手段は徒歩である。隘路や階段が殆どをしめる長﨑の交通で一番有効な手段は徒歩である。長﨑の国道は実際に徒歩しか許されていない。(国道324号線)

歩行者専用道路
視認性に富む

階段に白いペイントがしてあるが特に夜間に距離を目測しやすくためである。

「さるく博」なるイベントまで常時開催されている。訓練された観光ガイドが長崎市内の歴史的建造物や遺構、観光スポットを徒歩で案内してまわるものである。解説付きで歩けばテーマパークの様な都市である。うっかり観光バスで行くと、いそがされた挙げ句にボッタクリの土産物屋につれていくより遙かにマシである。詳細は市のホームページを見ると良いであろう。

長﨑さるく博

人力[編集]

長﨑の公共交通機関で最もエクセレントな乗り物は「人」である。人が人を負ぶって歩くのである。人力車は一応車輪があるがこれはそれすらない。もっともエコで最先端の交通手段として世界に先駆けている。

「移送支援サービス『いこーで』」

観光[編集]

旅行者に対する雑多な注意点[編集]

歩き廻っていて現在位置が解らなくなったら取りあえず下を目指せ。路面電車がある通りに必ず出る。

  • 服装と靴に対する注意点

必ず軽装で歩きやすい靴を履くこと。ハイヒールなどもってのほかである。階段が多く舗装は悪く観光地など行くと石畳だから必ず転ぶ。

  • 中央橋に関する注意点

もし長﨑の人と待ち合わせをしていて「中央橋で待ち合わせ」と言われてスマホなどで地図検索して待っていても永遠に巡り会わない。長崎人に「中央橋」と言われたらそれは「鐵橋(くろがねばし)」の事である。よく見ればとなりに人通りが多い歩行者専用の橋があるがそこである。

ちなみにそこは国道324号線で続いていてアーケードのショッピング街を含めて車の通行ができない。歩行者専用国道と言えば酷道とか階段国道だろうが幅員が充分ある町中で舗装も充分でなおかつ通行出来ないのは珍しい。なお早朝は通行可能になるが商店の搬入の邪魔になるので注意が必要だ。

お勧め観光スポット[編集]

長﨑市内は神社教会、石橋群など観光名所は多いが実を言うとどれもこれも退屈極まりない。Lonely Planetを見ると外国人には長﨑は博物館と中華料理店の町に見えるそうだが、あまたある博物館資料館のなかで、ここは一つ「行くと必ずトラウマになる」一風かわった場所を尋ねてみてはいかがか。 トラウマ博物館オンパレードである。

浦上天主堂[編集]

トラウマ度 ☆

なんと1889年に設立された。1914年には大聖堂として完成した。現在に至るまでそこの信徒達は5回ほど虐殺されている。そのうち4回が日本政府によるもので最後の一発がアメリカによる虐殺である。1945年の8月にアメリカによる攻撃で東洋一を誇った大聖堂が瓦礫と化してしまう。

その「人類に対する犯罪の証拠」を保存しようと市は動いたが信徒達の「神の家(つまり教会)を一刻も早く復活させたい。」という切実な声(および、自分らのしでかした悪逆非道な行いの隠蔽を図ったアメリカ政府の意図とCIAを通じての当時の長崎市長他への圧力・賄賂攻勢)はいかんともしがたく、1959年にほぼ元の形に再建されてしまう。 その際に核による熱線で焼けただれたマリア像が現在でも保存されているので見学されてはいかがだろうか。

なおコンサートホールとしも活用されておりあそこのパイプオルガンは結構きかせる。クリスマスシーズンはユーロの室内管弦楽団が必ずくるので要チェックである。

長﨑市立図書館[編集]

トラウマ度 ☆☆

田舎の割には実に立派な図書館がある。

近代的な建築物で蔵書も九州随一を誇る。まったく陰すらも見せないような外観であるが県外からの観光客にはかなりショッキングな施設が油断したあなたを狙っている。「救護所メモリアル」である。

昔ここは「新興善小学校」といい原爆の直撃は免れてせいで野戦病院になる。 多数の原爆で生きたままミディアムレアに焼かれた人達が担ぎ込まれて凄惨な地獄絵図になる。その当時の惨状を再現した資料館が設けてある。当時の実際に使用された医療器具や資料映像が展示され「その手のもの」には慣れている市民はそうでもないが県外の人にはかなりショッキングらしい。

このような「何気ない建造物や柿の木が実は被爆遺構」ていうのが市域そこらに存在しているので是非とも地雷を踏んでトラウマを植えつけられて長﨑旅行の土産にして欲しい。

三菱兵器住吉トンネル工場跡[編集]

トラウマ度 ☆☆

三菱の兵器工場跡地・被爆遺構

長﨑市街地の岡に意味不明に掘られたトンネルがある。そのトンネルは道路と繋がっていない。入り口は民家の庭先だったり資材置き場だったりする。地元の小学生男子は必ず「探検」にそのトンネルに出かけてトンネル横の民家のおばちゃんに

「危ないから入ってはだめでしょ。」

と叱られるのが定番であった。

小学生であるからなんの屈託も無く

「このトンネルなんでここにあるの?」

と尋ねるとおばちゃんは言葉を濁した。

地元民が言葉を濁すこの場所は第二次世界大戦中に兵器工場として掘られたトンネルである。三菱の長﨑市内の兵器工場は執拗に空襲をうけて満足に生産できなかった。そこで防空壕をかねてトンネルを掘ってそこに魚雷の工場を設けたのである。

日本人工員や男女の学生がかり出されていた。そこで触れられないのは多くの朝鮮人労務者が居たことである。正確な統計資料は残っていないが(あの原爆の下で残っている訳が無い)800人程、著者の近所の年寄りの目撃だけで数十家族の朝鮮人労務者がいた。敗戦直前の話で無論劣悪な環境で無理矢理連れてこられた人達である。

劣悪な環境は近所の年寄り達が鮮明に覚えている。ただ、彼らは米の飯を食べる事がままあったそうで父も目撃していたが、あまりに劣悪な環境で酷使されていたので暴動が頻発する。それを慰撫するために米が優先的に配給されたのでこれは記録が残っている。であるから鬼の首取った様に「米の飯喰っていたから強制連行ではない。」と言いつのる熱湯浴は誤りである。

彼らは原爆の直撃で焼けただれながら山に逃げっていった。その後は戻ってこなかったそうだ。 内部は現在予約をすれば一部見学できる。市役所に問い合わせると良い。

長﨑原爆資料館[編集]

トラウマ度 ☆☆☆

現在では頭の中に藁くずが詰まったアホの中学生が鼻くそほじりながら旗もったガイドに連れられてくる定番の観光名所に成り下がった。今の資料館は綺麗すぎかつ電通臭さで息がつまりそうになるくらいに漂白されているが、昔は「長崎国際文化会館」と言ってそれは「暗い、狭い、臭い」三拍子そろったそれは恐ろしいものだった。

昭和の小学生は平和教育て事で小学校から学年ごと観光バスで拉致されて連れてこられるのが毎年の恒例行事だった。古くて陰気な建物に「これでもか、これでもか」というほどにグロい被爆資料や写真を展示してあった。

狭くて冷房も良く効かない映写室に当時の小学生だった著者は詰め込まれユルグ・ブットゲライトが裸足で逃げ出しそうなグロいフイルム!(16ミリの映写機、ビデオもDVDも当時は無い)を無理矢理見せられ気の弱い女子など暑さも手伝ってバタバタ倒れた。

かくして小学生の脆弱な脳みそを洗脳し立派なプロ市民としての資質を植え付けるのである。諸君、洗脳教育に行きすぎなどない。お陰様で著者などこうしてはてな左翼の末席を汚させてもらっている。

なお現代だがもっと洗練された洗脳手法として被爆者自身が子供達に自らの体験を語ってきかせている。これのほうがもっと情緒に働きかけて確かな方法かもしれない。

岡まさはる記念長崎平和資料館[編集]

トラウマ度 ☆☆☆☆☆☆☆

まだマイルドな奴

殆ど知られていない隠れた観光スポットがここである。長﨑でもっともイケてるトレンディーでオシャレなリゾート資料館である。自分もごく最近まで地元の新聞社が特集を組むまでその存在を知らなかった。 その名前はもしかしたらネットで目覚めた難儀な人達の方が知っているかもしれない。ここは

「第二次世界大戦中の日本が中国韓国特定アジアで犯した残虐な行為、
日本に強制連行して非人道的にアジア諸国民を扱った様が写真と詳細な資料を展示している。」
これでも辛さ控えめ

資料館です。酷使様が5秒で口から泡を吐いて憤死しそうである。著者は行って見て死ぬ所だった。はてサとしてその手の物には慣らされている筈だがそれを上回るインパクトである。展示内容の列挙だけで

  • ①朝鮮人被爆者 
  • ②「飯場」(強制連行・強制労働) 
  • ③日本の侵略・朝鮮編、日本の侵略・中国編、「大東亜共栄圏」の真実 
  • ④皇民化・皇国臣民化教育 
  • ⑤中国人強制連行 
  • ⑥端島(非人道的な奴隷的労働) 
  • ⑦「慰安婦」問題 
  • ⑧南京大虐殺 
  • ⑨戦後補償 
  • ⑩岡まさはる氏について

と、ネットで話題にしてはいけない事の3σは網羅しています。 その日本国内ではとうていあり得ない展示内容の博物館でさすがは長﨑、中国植民地はだてじゃないです。

元中華料理屋の二階建てのこじんまりとした建物である。ここに「平和教育」を称した虐待の一環として、県外の可哀想な中学生高校生が観光バスで左翼教師の手によって、ぞろぞろ連れてこられます。全員が入る時はおちゃらけて居るが蒼白な顔して出てきます。左巻き教師達には、韓国行かせて土下座させるよりも効果的だという評判です。

はいるなりにかなりグロイ展示が2階まで延々と続いています。はてサの俺でさえ1階の展示でお腹いっぱいですが2階の展示までいくとかなり脳味噌が痺れてきます。捏造だの自虐だの言う人は突撃でもしてみると良いですが受付のおばちゃんに論破されたり火病の叫びを食らうのが関の山ですのでそれは止めておいて素直に洗脳されましょう。内容知りたい人はググりましょう。

なお修学旅行生が訪れていますが昨今はやりの「慰安婦:sexualslave」の話題が手加減無しのフルコンタクトで言及されています。この展示はR16指定だと思いますがそれくらい酷いのが、日本の現代史に生き残りを図る左巻きの必死さと言う事ですな、橋下君。安倍君。わかったら、はよ連中の息の根を止めろや。

グルメ[編集]

江戸時代から砂糖が比較的容易に手に入った事から全ての料理がとても甘い。信じられない量の砂糖をこれでもかと投入する。だからスイーツの類は和洋にかかわらずレベルが高い。水産県と言う事もあり魚介類が新鮮で豊富である。

中国や西洋の影響が大きい為に何処の国の料理だか解らないハイブリッドな料理が独自の発展を見せている。いわゆる「ちゃんぽん(「混ぜる」の意味)」文化である。

カステラに関する注意点[編集]

長﨑で住民に「お土産のカステラは何処で買った方が良いか?」と尋ねると千差万別の答えが返ってくるが関係者で無い限り穏当な線として「福砂屋」と言う答えが多数を示すだろう。が結論とすれば「何処で買っても同じ」である。

通の逸品としてカステラの中落ち」と言うのがある。工場でカステラの製造工程で出た切れ端を袋つめしてものであるが文明堂のカステラ工場直営店で入手出来る。

松翁軒の2階の喫茶店は文化財級にオシャレである。長﨑の一応老舗と言われる店で買った場合は添加剤とか入っていないので日持ちがしない。注意が必要である。


トルコライスに関する注意点[編集]

これで標準サイズである

トルコライスとは大人のお子様ランチの事である。長﨑ではそこら中で供される定番のメニューである。詳細は神崎さんのホームページに詳しい。

長﨑で住民に「トルコライスは何処で食べた方が良いか?」と尋ねると千差万別の答えが返ってくるが関係者で無い限り穏当な線として「鶴ちゃ」と言う答えが多数を示すだろう。が結論とすれば「何処で食べても同じ」(一番目立つ所にあるあの店は例外)である。

なんとなれば多くのバリエーションがあり過ぎて決められないのである。長﨑には数多くのトルコライスを出す店がありそれぞれに特徴を持ったいろんなトルコライスがある。そのなかで通の逸品として「のトルコライス」と言うのがある。長﨑市役所で限定販売されていた。

繰り返すがトルコライスは「何処で食べてもそれなりに美味しい。」ものである。ちなみにかなり大盛りなので注意が必要である。


ちゃんぽん皿うどんに関する注意点[編集]

長﨑で住民に「ちゃんぽんは何処で食べた方が良いか?」と尋ねると千差万別の答えが返ってくるが関係者で無い限り穏当な線として「中華街」と言う答えが多数を示すだろう。が結論とすれば「中華街以外なら何処で食べても同じ」である。

お昼時と夕方以外は行な。

市内に点在しているチャンポン屋なら殆どどこで食べても一定の品質のチャンポンが出てくる。そうでないと淘汰されるからである。唯一の例外が中華街である。チャンポンの元祖と言われる某大型店は阿保が観光バスで行くから例外として問題は中華街である。淘汰の原則が働かないのである。例外的に殺意を抱くように不味い店は存在する。無論、具体的な名前を出すのは憚れるが簡単に見分ける事が出来る。

ランチタイムやディナータイム以外の時間でも営業している。そこは外れだよ。

他の外れでは無い店はリソースを集中するために余計な時間は店を閉めているが外れの店は地元民のリピーターを期待出来ないために一見の観光客を目当てにお昼の中途半端な時間でも店を開けているのである。であるから本当に美味しいチャンポンを食べたければバスや路面電車で郊外に出るか昼下がり中華街を下見して閉まっている店に入れば良い。例外的に中途半端な時間に開いてる店で美味しい所もあるがそこら歩いている年寄り捕まえて訊けば教えてくれるよ。

尚、全国的な某大手チェーン店は九州ラーメンをチャンポン風にアレンジしたもので長崎チャンポンとは似て非なるもので注意が必要である。長﨑にも店舗はいっぱいあるけど別物として脳内で扱っている。

そもそもチャンポンの元祖と言われる四海楼創業者(陳平順)の娘(清姫)が陳平順にチャンポンを登録商標化しようと言ったが陳平順は「華僑だけでなく日本国中にチャンポンを美味しく食べてもらいたい。」としてコモディティ化を図る為登録商標を行わなかった。

そういう経緯があるので某チェーン店の「長崎チャンポン」の登録商標化は強い反発を産んだ。それで未だに「チャンポン」とは長﨑市民に認めてもらえてない。

ちなみに、文献によれば日本各地や釜山上海など東シナ海沿岸各地にもチャンポンが存在するが東シナ海を挟んで同じ中華文化の影響を受け同じ海産物の食材が手に入る地域で自然発生的にうまれそれがそれぞれの地域でローカラーズされたものであるとする。

チリンチリンアイスに関する注意点[編集]

最近消費税アップにより値上げされた

長﨑で隠れた名品と言えばアイスクリームである。それは全国のコンビニでもamazonでも入手出来ないであろう。屋台に冷凍したアイスクリーム入れた保冷庫を積んであってその場でおばちゃんがヘラで盛ってくれる。

おばちゃんのその日の気分やスキルで盛りが違ったりするので注意が必要である。

レジャー施設[編集]

  • 富士急スカイランド
  • 福田遊園地
  • 岡正デパート屋上・浜屋デパート屋上

教育[編集]

平和教育[編集]

トラウマ度 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

さて普段から「ヘイワ、ヘイワ」煩いのだが、長﨑のいたいけなる子供達を徹底的にプロ市民として洗脳する年に一度の秘密の儀式が行われるのが8月9日の原爆忌の日である。

夏休みで脳みそが麻痺しまっくている小学生が朝嫌々起こされて学校に連れ出される。長﨑の夏は蒸し暑く子供達はの様な格好で登校していく。

さて、登校したものの授業がある訳でも無くみながやがやとふざけている所を冷房など当然の様に無い蒸し風呂の様な体育館に押し込められる。

糞暑い中を校長先生が原爆の日である事を告げる。著者の様な被爆二世の世代だとそのあとに映画を見せられる。原爆の実像を告発する映画だ。無論子供向けに作ってあるが凄くグロイ。今の被爆3世の世代だと被爆者の講和がある。自らの被爆の体験を語って聞かせるのである。凄いトラウマを植えつけのを目的としたものである。また、体育館にトラウマを植えつける写真を展示している場合がある。

そして原爆が投下された11時2分に黙祷して、全員で「原爆を許すまじ」を合唱する。

一年を通じて音楽の時間にこの歌の練習をこの日に向けてやるからである。長﨑の街歩いてるおっさんおばさんは大概の人がこの歌を歌える。(ちなみにこの曲は被爆者ではなく東京の工員さんと学校の先生が作った。)

1980年代後半からは「青い空は」を歌うのがメジャーになってきている。

かようにしてtwitterで核武装論を始める若者を口汚く罵倒するアカウントが誕生するわけである。低学年だと童話、高学年になると読み物として副読本の感想文を書かされるのもこの時期である。こうやって脳みそに無理矢理にすり込み反戦平和反核プロ市民の牙城は揺るぎなく次世代に引き継がれるのだ。

そうやって学校から走って帰って冷や麦にありつくのであった。平和憲法さまさまである。

文化[編集]

ランドスケープと文化融合[編集]

広い・派手・ベンチがある・明るい

長﨑の三大要素として昔から「墓・馬鹿・坂」あげられる。

長崎の住民は基本馬鹿なので事あるごとに遊んでいる。そのためお盆の墓参りさえイベントとしてしまった。長﨑の墓はとても明るい。お化けなど出るわけがない。長﨑の街の一等地を占拠するのが墓地である。眺めがよくて長﨑の街を見下ろす素晴らしい眺望である。昼は太陽の光が降り注ぎ、夜は街明かりに照らし返される。リア充のデートスポットの様である。まずどの墓もど派手である。墓地はワンルームマンションより広く墓石は金色に輝いている。各墓地には備え付けのベンチがある。何故にベンチがあるかと言えば墓場で親戚達が集まって宴会をするのである。

お盆で墓参りをするのは日本各地で同様であろう。長﨑ではお盆は墓地全体が光と炎に包まれる。硝煙の臭いがして爆音が響きわたる。

別に内戦が始まった訳では無い。先祖の霊を出迎える儀式である。沖縄や台湾や中国沿岸部でも見られるそうだが黒潮の影響圏にある浄土思想がある。ニライカナイ。海の向こうの天国から先祖の霊が帰って来るという思想である。それで墓場に盆提灯を多いところでは20、30張りも並べて墓場を煌々とした灯でライトアップする。祖霊が迷わない様にである。

祖霊をもてなす為に親戚達は毛氈を持ち込み折り詰め弁当を広げ酒盛りを始める。子供達は花火を始める。それも線香花火とか地味な奴でなく爆竹とかロケット花火とか矢火矢とかとにかく派手である。大人達は咎めるどころか「もっとやれ、派手なら派手なほど祖霊は喜ぶ。」と考えている節がある。

中国人が持ち込んだ風習であるそうな。実際に崇福寺(国宝)中国盆の法要があるが火遊びをやりまくりご馳走を振る舞いまくりで派手派手である。

長﨑の墓地は同じ墓地に宗派や宗教の違いさえ飲み込んでしまうおおらかさを持つ。普通になんとか居士の浄土真宗の墓の隣に髭題目の日蓮宗の墓があるかと思えばどう見ても日本風の墓なのに墓石だけとって付けたように十字架になっている。戒名(じゃないですね)にはペテロだのパウロだのほってある。それがみんなが仲違いもせずに共存している。

洋風と和風が混ざってなにがなんだか解らない

そんな長﨑の墓には祖霊の他に「土神」様を祀ってある。土地の精霊の事である。また施餓鬼供養の意味もあるそうだ。崇福寺では何らかの理由で地獄に落ちたり報われなかった精霊たちも供養する為に施餓鬼が行われ「障害があるために到着が遅れた精霊」の為に時間差で供養をしたりする。

実際の墓場は住宅街の隣にあったり寺院や教会も町中にあり「あの世とこの世」の距離が著しく近い。宗教的空間に生きる人達は享楽的で生をたのしみ(つまり馬鹿)で(は)この世とあの世の距離を縮め(は)死者も生者も共に生きる楽しさとか糧を与えるのである。

長﨑弁[編集]

長﨑弁の正当な話者は蛭子能収である。ごく初期にオールナイトフジに出てた頃などまわりに彼の言葉を理解出来るのは俺だけだったくらいである。映画「長崎ぶらぶら節」の地元出身の原田知世は長﨑弁をかなり押さえて演技したそうだ。完璧になまると通じないからである。なお「ばってん」は英語の"but then"からきたものである。他に英語由来の長﨑弁は

  • wire number shot car
  • zone turn no go to
  • sit too
  • citrus
  • mint
  • net

などがあげられる。

祭礼・行事[編集]

長﨑ランタンフェスティバル[編集]

長﨑ランタンフェスティバル・媽姐様・ロマン長﨑


そもそもは土着化した華僑が故国中国の春節を身内で祝っていたものである。

中華街ではちゃんぽんや皿うどんが無料で振る舞われていた。いまでも点心が無料で振る舞われる。地元の暇な年寄にはつとに有名でタダ酒にあずかろうという不心得者が後を絶たなかった。それでも心の広い華僑達は受け入れて新年を一緒に祝った。

この行事に目をつけたのがヒッピーで当時全国を放浪の旅の途中だった市長の田上富久だった。いっぱつ決めていた田上は隣で飲んでいた当時の市長伊藤一長

「なんでこんな楽しい事を中国人だけにやらせとくんだ。もったいない。」

とからみ始めた。既に泥酔していたうえにどうでも良かった伊藤は

「なら君がやりたまえ。」と言い

長崎市が音頭を取って全市民が参加する観光イベントと発展させる。 媽祖行列という美少女の神様を祀る行事がある。その媽祖様にコスプレしたミス長﨑を狙ってカメ子が出没する。


ペーロン[編集]

昭和の初期までは見られた小学生の行事。クラス対抗、学年対抗で行われた。紐や段ボールで繋がった数名の男児が長﨑の路地を駆けっこで早さを競った。学校対抗になると大人が絡み出し賭け事の対象になったとは古老の談である。

精霊流し[編集]

さだまさしとか言うリア充のいけ好かないアーチストが有名にした長﨑のお盆の行事である。(ちなみにさだまさしは今駕町の縁者でくんちの現代の立役者である。)だがあの曲の叙情は実際には無い。ど派手ならんちき騒ぎであり爆音と炎と硝煙の香りに包まれる戦場である。

初盆を迎えた親族が故人を西方浄土に送り返すためのに船をたてて大波止まで曳いて運ぶ。東シナ海沿岸に見られる浄土信仰ですね。ニライカライ。

親戚縁類達が年に一度集まるのだがまあ派手である。見栄っ張りで享楽的な長崎人なのでかける金も半端でなく精霊船を出すのに誇張でもなんでもなく「新車が一台買えるくらい。」はかかる。集まって来た人達を酒肴で歓待し揃いの法被をそろえのでも結構な額である。本体も電飾や提灯、故人が好きだった事物のイラストなどを描いてあって華美で高価なものである。なお著者はまだ「痛精霊船」は見たこと無い。誰かやったら歴史上初となるぞ。お前やれ。

15日の昼過ぎから飲み始め、良い機嫌になる頃には日が傾いてくる。

親族達が揃いの法被を来て故人の位牌を載せた精霊船を大波止の集積場まで曳いていく。昔は実際に船を流していたのだが提灯の蝋燭の炎が港の漁船などに引火して大惨事が頻発して実際には流さなくなった。

さて鐘をならし爆竹を町中で盛大に鳴らしながら船を曳いていく。あちこちで爆音と火柱があがるがここはバグダッドでもなければシリアでもない。この日は全市に交通規制が引かれ自動車の運行は出来ない。運行規制を無視して車を無理して出すと爆竹を10束くらい投げつけられて傷だらけになるが文句は言えない。

船には当然の様に冷えたビールとか一升瓶がケースで完備されている。かくして飲みながら船を曳いていく。日が沈もうという頃には市域中の10歳以上の男子は素面では無くなる。男児なら親戚のオッサン達が子供でも飲ませるからである。子供からすれば白昼堂々道のど真ん中で好きなだけ花火が出来る絶好の機会である。

かくしてそこで消費される花火爆竹は少なくても3万円、多いところではその倍以上の爆竹を用意する。が大波止手前の県庁坂ではそれでも余った爆竹を使ってしまう為に面白い光景が見られる。(以下の手順 長﨑の精霊流しの正しい爆竹の使用法。

  1. 用意するもの。a:爆竹3万円分。b:ドラゴン花火。c:ビールワンケース
  2. ビールをたらふく飲んでケースを空にし正気を無くします。ケースは後で使用するので絶対に捨てないで下さい。
  3. 開いた紙ケースに残りの爆竹を全部投入します。
  4. ドラゴン花火に点火、紙ケースに投入します。

箱を両手で持って頭の上にかかげます。「ファイアー」爆音と共に3mの炎の柱が上がりますが動じてはいけません。見物人もあなたを勇者と認めてくれるでしょう。ここで軍手などを使用すると「へたれ」と見下されます。必ず素手でもちましょう。

なお見物にいくのが難儀な人はテレビで観戦という方法もある。毎年テレビで総集編がテレビ中継されるので自宅で冷房が効いた部屋で安樂に見物する事が出来る。毎年解説者として登場するのが「長﨑の代表的なおじいちゃん」である越中哲也先生である。精霊船をその町や故人の人となりを親しみやすく解説してくれる。毎年の様に

「来年はおいがのっけん。(来年は俺が乗るから。)」

と仰るが、まさか伊良林のもやい船と言う事はなさそうだから、ご自分はどのような船に乗られるか楽しみである。(先生、長生きして下さい。)

かくして長﨑は故人まで良い機嫌で送り届けるのである。

中島川祭り[編集]

中島川

(現在は長崎夜市)

毎年8月の始めに眼鏡橋付近の中島川のほとりの公園でお祭りが行われる。野外ライブがあったりパフォーマンスがあったり屋台があったりでまあ学園祭のようなものだと思ってください。

そもそもこれの始まりはプロ市民達の市民運動から始まる。

今でこそ鯉が泳いで野鳥もやって来て整備された観光名所だが、戦後の高度成長期はどぶ川であった。川沿いには違法建築のバラックが並び川自体もどぶ川で悪臭を放っていた。長崎市は1964年に中島川の石橋群を撤去して川を暗渠にして車道にする計画を打ち出す。翌年には川のすぐ側の光永寺の檀家を中心とする住民による計画反対の運動が持ち上る。

アカのスクツ、なんか香ばしい市民運動の元をたどって行くと必ずやっぱりここかww」と言われる某大学の建築科のゼミが石橋群の学術的調査を行い後の貴重な保存運動の基礎となる。

1973年には中島川で遊ぶ会 中島川を守る会」が発足。無論住民は打ち上げで酒を飲む口実、学生はナンパの口実様々であるが皆で様々なアイデアがをもちより楽しく遊ぼうと画策する。でもまずは掃除でもして綺麗にしない事には埒があかないとして、市民総出で清掃をすることになる。(後の市民大清掃)普段は庭先を掃いている暇人がのべ1万人も集まってくる。見捨てられそうになっていたは川みるみる綺麗になる。空気も徐々に変化していき市民ぐるみで川の命を取り戻す事になる。

翌年の1974年、「中島川まつり」がプロ市民主催で行われ今日に続いている。

中島川祭り

もともと騒いで遊ぶ事が好きの長崎市民である、また観光客も加わって、このまつりに約50団体、約3万人が参加した。そこからは芸術活動も生まれた。学園祭でやってそうな暇なバンドやパフォーマーがわらわらと集結、1976年には「中島川市民芸術祭」が開催される。様々な歌や演劇で酒をかっくらう。1980年代初めにはコイやアヒル、アイガモが泳ぎ、子供らは魚取りをするナンパスポットとして再生していった。 1982年の長崎水害で壊滅的な被害を被る。多くの高校生や大学生のボランティアも水害時の水位や水流の調査を行う。

その結果、石橋群は自ら壊れる事によって橋がダム化することを防いだのであった。行政は中島川を拡幅し近代的な橋に掛け替える腹つもりだった。それに対してプロ市民左翼学者から反対の声があがる。貴重な文化財の保存の声が行政を動かした。眼鏡橋を現状復元、大水の時バイパスさせる水路を護岸の遊歩道の下に通す事になる。石橋群は古い良き時代のありのままの姿で復元し景観を保持することで環境と防災の両立が計られる。

現在、観光の目玉として、そして市民の憩いの場として美しくたたずむ中島川石橋群は今も学園祭会場として今も賑わっている。

長崎くんち[編集]

長崎くんち(ながさきくんち)とは長崎県長崎市で行われる町内対抗エクストリーム学芸会と陣取り合戦である。地元民の通称「おくんち」。

10月の7日から9日にかけて3日間諏訪神社の秋の例大祭が行われる。その奉納として神様を感謝するのを口実に人生のリソースの9割を裂いてまでやるイベントである。 長崎人はそもそもエピキュリアンで年中くんちの事しか考えていない。地元企業の経営者やいわゆる名士など生き甲斐の殆どがくんちだと思って差し支えない。

寛永2年建立の諏訪神社の奉納して翌年の3年には始まった。当時の長﨑のカリスマコスプレーヤー”otowa”と”takao”のユニットがパフォーマンスを夢彩都のスタバで行ったのが始まりである。実に380年の歴史を持つ。

長﨑の町割り

長崎市のほぼ1km四方に囲まれた旧市街地は通りによって町名が与えられている。一帯が77の町で構成してあった。秋葉原にたとえると、ここはPCパーツが密集しているからパーツ町、アニメグッズが多いからアニメ町、メイド喫茶が多いからメイド町といって同業者が通りの一区画ごとに密集していて、それぞれがその業種にちなんだ自治組織で町を形成していた。 その77の町がその町特有のネタでパフォーマンスと陣取り合戦を競う。


パフォーマンス[編集]

この3日間で旧市街地ではそこかしこでこのパフォーマンスを見る事が出来る。街中が「くんち一色」となる。ほぼみんな浮かれている。

メインのイベントは10月7日早朝に「神様への感謝」として諏訪神社前の広場で一気に全ての町が勢揃いして奉納される。これはテレビ各局が同時完全生中継する。なおその観覧席はプラチナチケットで瞬殺で売り切れる。「長坂」は無料席で著者も並んだけど雨にたたられて一度も生で見たことは無い。なお万事が準備が整ってくんちが開催される合図として7日「早朝5時!」に盛大に花火を打ち上げて告知される。長﨑市民は全員がたたき起こされる次第である。

まあテレビで越中先生の解説付きで見るのが一番楽ちんではある。

どういうものかを知りたい人はyoutubeで動画でも見ると良い。

動画を見るのが面倒臭い人に解説するとだいたいこんな感じだ。

紺屋町[編集]

染め物職人のロリがうさぎのコスプレをする。

出島町[編集]

ショタが昔のオランダ軍のセーラー服コスプレをする。

小川町[編集]

立体交差の道路を作る際に町ごと消え失せた。ベトコン兵士がドラゴンボール神龍を召喚し獅子舞で米軍を威嚇する。こがわまちと読む。

本古川町[編集]

現代でこそ「御座船」江戸時代の巡視船の出し物であるが大日本帝国の海軍華やかりし頃は「軍艦」であった。艦これコスプレの元祖である。

大黒町[編集]

日本の皆様にはおなじみ、沖縄の西の端の島で領海侵犯してくる中国海警局(湾岸警備隊)飛帆(フェイファン)号を模した「唐人船」の引き船が出し物である。長﨑の中国総領事が船長として更に日中関係をややこしくするために視察に来る。なお媽姐という艦これの艦娘の元ネタであり美少女の神様を祀ってある。

樺島町[編集]

コッコデショ。大勢の大人が太鼓山に載せたショタを天高く放り投げる。勇壮な出し物である。

江戸町[編集]

そもそも出島の門前だったので「オランダ船」が出し物である。が戦前は陸軍の兵隊のコスプレで模擬演習を出し物としていた。本古川町は海軍のモチーフの出し物。「平和の町長﨑」は戦後の話で時代相応に軍港であった訳である。

籠町[編集]

くんちの元祖「じゃおどり」である。皆様も長﨑くんちと言えばまずこれを思いおこされると思う。youtubeでも見れます。表記は(×)蛇踊り(○)龍踊りで「じゃおどり」と読ませる。 へびおどりでは無い。なおあの龍踊りのうろこは買える。長﨑の行事でやたら爆竹を使う様になったのもこれが元祖。ちなみに中国の雨乞いの儀式から取り入れたものなのでくんちが雨にたたられたりする。なおこの龍踊りスタッフを全員含めると120人の一大プロジェクトである。

桶屋町[編集]

長﨑は江戸時代に何度か外国商人から「象」を土産物として送られている。だがこの象 、えさ代がものすごくかかる厄介ものである。100kg単位で穀物や野菜を平らげたそうな。江戸に送るにしても自動車があるで無し一大事業である。江戸幕府でももてあまし「もう二度と送ってくんな。」とお触れをだした程である。その象を何度も押しつけられたのがこの可哀想な桶屋町である。 トラウマのせいか子供が張りぼての象を引き回して出てくる。

船大工町[編集]

船の修理があったのでこの名前がついた。この界隈には元々「遊郭」の入り口でいまでもバーだのキャバレーだの立ち並ぶ歓楽街である。無論ワープアである著者には縁もゆかりも無い。カステラ福砂屋の本店がここにある。なお福砂屋の柳はご神木であり拝むと(夜の)ギャルにモテモテになる。出し物の川舟は子供が船頭となり投網で鯉を捕まえるパフォーマンスがある。

栄町[編集]

オランダ万歳

眼鏡橋の下には実を言うと「河童」が住んでいた。河童日本酒が大好きで事あるごとを振る舞った。飲み仲間が欲しかったからである。その眼鏡橋を通りかかったのがオランダ商館員二人だった。輸入に頼る葡萄酒がナポレオンによる海上通商路の封鎖で枯渇していた彼らはすっかり日本酒の魅力にとりつかれてしまう。足繁く日本酒を飲みに河童の元に通う彼らは遂にアルコール依存症になってしまう。

河童としてもそう始終アル中の外国人を相手にして居られず距離を置いてしまう。そうなるとどうしても飲みたい彼らは遂にオランダ商館の金に手を出して横領の咎で出島の商館から追放になってしまう。遠い日本の地で失職した彼らは「門付け」つまり、家々を廻って滑稽な即興の踊りやパントマイムで幾許かのチップを貰って糊口を凌いだ。つまりは乞食ですね。

そのさまがあまりにユニークだったので地元の長﨑町人が模倣して奉納踊りに取り入れた。これが「邯鄲園菊蝶」「阿蘭陀万才(萬歳)」として現在に伝わる。なおこの河童だが清酒黄桜のキャラクターである。この河童は煎餅が大好物でかれが食べていた煎餅が後の「かっぱえびせん」となる。

本石灰町[編集]

パチンコ屋にバーやクラブなどの歓楽街であるが江戸時代は輸入された石灰(しっくい)の荷揚場であった。そこには朱印船貿易で一山当てようと言う人も住み着いた。荒木宗太郎である。それまで倭寇が密貿易と海賊行為を東シナ海沿岸で繰り返していて国際問題まで発展した。そのため秀吉が対策に乗り出し倭寇を弾圧を加えたとりしまった。御朱印はその貿易の代替えとして政府管理の下に置く為に制定されたものである。

公務員から転身した荒木宗太郎は民間のファンドを受けて資金を調達し貿易事業を興す。彼が一般のベンチャーの社長さんと違った所は自らが遭難などのリスクを顧みず船にのって直接現地に赴いた事である。それで相手国のベトナムの王族の知遇を得る事になる。

ベトナムの国家元首のホーチミンに知遇を与えられる。彼には英国人の愛人の間に隠し子がいた。名前をハーマイオニーという。ホーチミンの絶大な信頼を得たかれはその娘ハーマイオニーと国際結婚する事になる。これが長﨑で伝説になる「荒木宗太郎とハーマイオニー様の婚礼行列」である。ベトナムから嫁を連れて凱旋帰国しお輿入れのお供と引き出物が絢爛豪華なパレードが、長﨑の港から新居まで延々と続いたそうだ。以来、長﨑では長い行列を「ハーマイオニー様の行列んごたる。」と言うそうだが、そんな言い回し一度も聞いた事ない。

その荒木宗太郎の貿易船とパレードを再現したのが本石灰町の「御朱印船」である。なお宗太郎役の子供とハーマイオニー役の子供は実際に結婚する。

万屋町[編集]

の潮吹き 長﨑のソウルフードは誇張でも冗談でもなく鯨である。前にも書いたけど著者は鯨を食べて成長したようなものである。長﨑の近海捕鯨は莫大な富みをもたらす、正に「神様からの贈り物」であった。

そんなセミクジラをリスペクトして奉納するのが万屋の「鯨の潮吹き」である。張りぼての鯨のギミックからホントに潮が吹き上がる。江戸時代の安政7年(1778年)から続いてる由でポンプも革製で出来ていたそうだ。むろん海上で倭寇が拿捕したグリーンピーズメンバーの面の皮製である。

陣取り合戦[編集]

学芸会とも書いたが陣取り合戦も繰り広げられる。

ヤクザの抗争に見立てて各踊り町が競う。

  • 北斗会 紺屋町 出島町 東古川町 小川町 本古川町 大黒町
  • 八尋会 今博多町 魚の町 玉園町 江戸町 駕町
  • 神清町 桶屋町 船大工町 栄町 本石灰町 丸山町 万屋町
  • 七和会 興善町 八幡町 西浜町 万才町 銀屋町 五島町 麹屋町
  • 常磐会 新橋町 諏訪町 新大工町 金屋町 榎津町 西古川町 賑町
  • 青明会 上町 油屋町 元船町 今駕町 鍛冶屋町 筑後町
  • 昭平会 馬町 東浜町 八坂町 銅座町 築町


「庭先回りフロー」

  1. 陣取りで勝負して地面に自分が獲得した商店や企業の家の前に印をつける。
  2. 確保した商店や事業所を示すしるしとして「花」と書かれた札を貼る。
  3. 張られた所は後で組事務所にご祝儀を払いに行く。
  4. くんちの陣取りのターゲットなった商店はその御礼として店の前で各踊り町のくんちの出し物の簡略版を演じてもらえる。各踊り町の切り込み部隊は「采」と言う五色棒でかち込みの目標を示す。
  5. それを目印に踊り町本隊が殴り込んで来る。その戦闘員には番付がある。(通称「赤本」)に公表される。奉納踊りの部隊は役員(組頭、番頭、など幹部)は紋付き袴、先曳きと言って先導役には幼女や幼児が和服やチャイナ服のコスプレでかわいさで萌え殺す攻撃を仕掛けてくる。

くんち期間中は各踊り町の現在位置がスマホで解るししゃぎり(例の音楽)で方向が特定出来る。 なお見物人は巻物という流れ弾に当たる。当たるととてもラッキーである。

梅が枝餅[編集]

くんち限定アイテムとして「梅ヶ枝餅」がある。住民の大好物であるが年に一度しか食べる機会が無い。市内各所に密売所が設けられるが大行列が出来る。列は常に100人を超える。人口が少ない長﨑では驚異的である。東京で人口規模で50倍して下さい。

クリスマス[編集]

以外と知られていないのがクリスマス。この日ばかりは異教徒でもミサを見学出来る。(要予約)クリスマスのコンサートは合法的に女子校に闖入できるチャンスだ。

隠れキリシタンにより江戸時代でも「ナタラ、(御降誕)」と言い行われていた。二週間まえから山に入って「お伽の蒔き」を用意した。薪を焚いて太陽の復活(冬至)を表象するものであり、これは新年の太陽の復活を意味するものである。そもそもクリスマスキリスト教伝来前の欧州アニミズムがキリスト教に取り込まれたものであり、そのキリスト教の伝来前の欧州のアニミズムが教会の制御を外れた遠隔地で復活したもので興味深い。牛小屋を綺麗にして藁を敷いて桶いっぱいの水をおいた。クリスマスケーキの換わりに赤飯を炊いた。天使祝詞(がらき)を唱えキリストの生誕を祝った。当然非合法だったが地役人から庄屋まで見て見ぬふりをしていた。


関連項目[編集]