間宮 (レストラン)

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間宮(まみや)は、大日本帝国海軍が経営していた三つ星レストラン、及び甘味処大和ホテルにも支店を出していた。

歴史[編集]

ヨーロッパかぶれの気風が強かった帝国海軍では、食事もハイカラな洋風テイストに憧れていた。そのため、伊・仏を中心とする多数の三つ星レストランにコックを研修に行かせてその技術とレシピを多く日本へと持ち帰らせた。中には、秘伝とされるブイヨンのレシピを得るための多額の上納金や、フランチャイズ契約を交わすなどしてそうした味を持ち込んだ例も少なくなかったという。 しかし、これら海外研修や契約金にかかる費用もばかにならないため、帝国海軍では徐々に入手したレシピに独自の味覚を加えたメニューづくりを進めるようになっていった。

そうした努力が実を結び、大正13年にはついにレストラン「間宮」を呉市に開店。上質な素材と日本の侘び寂びのテイストを採り入れた和風フレンチ路線が評判を呼び、ミシュランガイドで三つ星を得るまでに至る。しかし、ヨーロッパのレストランはこれに警戒の念を抱き、日本人研修生の受け入れを一斉拒否する方向に転じた。そのため帝国海軍は以後、否が応でも独自の料理文化を磨かなければならなくなったのである。唯一、盟友ドイツは門戸を開いていたものの、ジャガイモソーセージの料理ばかりで、実績としては肉じゃががメニューに加わるのみに終わった。

レストラン間宮[編集]

レシピの輸入は禁じられたとはいえ、日本には豊富な食材があった。神戸牛、小豆島のオリーブ、地元広島カキなど瀬戸内を中心とした新鮮な食材が続々と呉に持ち込まれ、レストラン間宮の味はより洗練の度を高めていった。間宮はいつも将官たちに愛用され、予約は半年前には入れないといけないほどであった。しかし半年後にはもう来店できない人も少なくなかったので、飛び込みでも意外と良い席が取れたという。

甘味処まみや[編集]

たいへん繁盛したレストラン間宮ではあったが、下級兵からは「上官ばかりがいい目を」というねたみの声が続出した。そのため、軽食や甘味を供する店の構想が持ち上がり、やるからには妥協のないものをと全国の和菓子職人を対象としたオーディションまで行われた。こうして昭和2年、「甘味処まみや」が開店した。 ヨウカンやモナカ、しるこなどの日本の味と、アイスクリームシュークリーム、カステラなどの西洋の味の両方を揃えたラインナップは、さすが和風フレンチを確立した間宮ならではのもので、たちまち海兵たちの人気スポットとなった。

事業展開[編集]

間宮は、大和ホテルなど海軍所有のビルに多く出店を果たすと、和魂洋才を体現した接客サービスのノウハウをもとに、クリーニングやスパといった事業にも手を広げ始めた。日持ちする土産物として、レトルトの「海軍カレー&肉じゃがセット」も開発された。「海軍コーヒー」もその中の1つである。金剛には紅茶を提供するための専用設備が設けられていた。3時のおやつを世界中へ広めたのも間宮である。なお電話番号は当初「3」であった事から、コマーシャルにも「3時のおやつ」として現在も親しまれている。

間宮の最期[編集]

太平洋戦争の戦局がかんばしくなくなってくると、その影響はレストラン間宮にも及んだ。海軍の西の総本山ともいうべき呉に店を構えたため、自然と米軍の攻撃対象区域に含まれ、空襲のたびに、牛が焼けたり、豚が焼けたり、魚が焼けたりして周囲にはとても美味しそうな匂いがたちこめたという。間宮では仕方なくこれらを地域住民への炊き出しに回す羽目になった。そして昭和20年7月の呉大空襲で、ついに間宮は建物も焼かれ、再建不可能となってしまったのだった。

終戦へ[編集]

間宮消失の報は、その日のうちに海軍全艦艇を駆けめぐった。誰もが唯一無二の味を惜しみ、正直、もう戦争を続ける気すら失せたという。腹が減っては戦はできないのだ。しかも軍部は電文を暗号変換しなかったため、このニュースは連合国側にも筒抜けとなってしまった。マッカーサー元帥は、これで本土上陸作戦を決意したとも言われている。なおスプルーアンス少将は最後まで大和ホテル存続をマッカーサー元帥に訴えていたが、却下された。

昭和20年8月、もはややる気のない海軍は大和ホテルも廃業。終戦を迎えたのだった。

関連項目[編集]

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