雛壇

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雛壇(ひなだん)とは、小売店の店頭ディスプレイにおけるごくごく基本的な様式である。

概要[編集]

商品を陳列するために用いられる。あまりに古典的な手法であるためお客様に安定感を与えることができるが、反面何の面白みも感じさせず陳腐そのものであるという酷評も絶えない。どんなに段に赤い布地を張ろうが、ちょっとした造花を置こうがその印象は拭い去られることはない。

その上、1個1000円のカラーボックス等で誰しもが簡単に実行できるディスプレイであり、また陳列できる商品の数も限られるのにも関わらず仰々しく見えることから、現在では貧乏くさい、ともすれば見栄っ張りという印象も与えている。現在小売業において、雑貨店や百貨店といった資金苦に悩む業態で採用されていることがこれを証明している。コンビニエンスストア各チェーンや、ドンキホーテダイソーといった資金が贅潤で、石油二酸化炭素排出切符を大量に使う贅沢な店頭では見向きもされていない。

陳列される商品[編集]

雛壇で陳列される商品は、面積を広めに取っても全く問題が無い小物ばかりである。大物があるとしたら、それは店舗側が度を超えて販売に必死である商品に違いない。

しかしいざ手に入れてみるとなかなか使える品もあったりするので、優良顧客であることを望むのなら決して無視するべきではない。とはいっても、その他ほとんど全ての商品はすぐに壊れてしまうことが多い。韓国経由とも疑われている盗品を部品に使っているとして消費者センターに相談が殺到した品物もあるほどである。これらのステレオタイプが、ごく僅かな逸品を台無しにしている場合もよくあることである。逆に一つあるだけで他の商品の存在感を食ってしまうものもあるが、それがよい品であるかどうかとは全く何の関係もない。

日本の雛壇[編集]

日本は世界でも数少ない国である。雛壇を人身売買に用いるという点で。言うまでもなく捕鯨と並ぶ人倫にもとる行為として国際的な非難を浴びている。

はじまり[編集]

その歴史は江戸時代に遡り、近代的な経済体制が形成される前から連綿と続く商習慣となっている。

幕府より政治力を制限され、貧窮の限りを尽くしていた京都の公家衆は否応なしに商いを営まざるを得なかった。彼らに残された資本は、古ぼけた文化遺産と、戦国時代安土桃山時代を経てより完全に有名無実となった血統、そしてこれらによりもたらされるスイーツ(笑)好みのブランド力のみであった。

程なくして好機は訪れた。江戸城に住む女、斎藤福が朝廷の位を得んと参上したのである。明智の家臣一家出身の福は執拗なまでに伝統的な格式を求めていた。公家衆は気づいた。圧力団体である幕府こそ、最も優良な上客であると。限られた資産は、経営戦略の構築を実に簡素なものとした。事業内容は決まった。顧客は幕府、品物は自らの娘たちである。

程なくして参上が伝えられたのは意外にも福ではなく、彼女と確執のあったお江与であった。大阪城に西洋式オーケストラ楽団を招聘したあのの妹である。実態は質素であった公家衆はこれでもかと続くお江与の激しいお花畑で乙女な妄想に頭を抱えた。宮家五摂家の面々は考えあぐねた末に「中身は適当でいいから、見た目だけでも派手にしよう」ということで合意。御所の庭に嵯峨で間引いた竹と鞍馬の間伐材で二条城の3分の1ほどの高さの七段の段を作った。次に伏見稲荷平安神宮をはじめとする京中の神社がら集めた汚れた巫女の袴や、囚人や工人から集めた血がついたふんどし手ぬぐい有馬の金と銀の鉱泉水で深染めした真っ赤な布を、二条河原で住人らに洗わせ[1]、縫い合わせて段の上にかぶせた。そして3人の従者、右大臣と左大臣、5人の雅楽師、3人の宮中の女と、販売予定であった娘である鷹司孝子を段に座らせ、不用になった牛車や調度品を置き、これを陳列棚とした。お江与が絶句するほど喜んだのは言うまでもなく、商談は何の障害もなく契約へ至った。その後本命であった福も、最上段に六条満子が座ったこの雛壇を見て舌なめずりをしてニヤつき、この陳列手法が効果的であることを実証した。

これ以降公家の財政は潤い資材や調度品は交換の度により高品質な物へと換えられていった。その後も鷹司信子藤原敬子、そして和宮といったあらゆる江戸下りの公家の娘がこの最上段に座り、北小路玉瀧山といった時の権力者らへ売り飛ばされた。また、売られたり買い取ったりした女たちも、江戸城内で大奥を形成しこの世のを謳歌した。これら一連の商売はWin-Winな取引の模範として経営大学院にも取り上げられている。

近代以降の波及[編集]

雛壇は人間を見定めるのに極めて効率がいいことが広まり、幕府が終焉してもこの陳列手法は止まるところを知らなかった。富国強兵を旗印とする人身売買の場となった学校では、商品は何かの折に必ず雛壇に載せられ、商品写真が記録された。これらにより丁稚入り徴兵集団就職の効率化が図られ、五大国、そして先進国へと日本が成長する原動力となった。

時代が下ると、より良く見せることを目的とし、学校から遠い場所にまでわざわざ商品を一時的に搬送し、商品写真を撮影することが散見された。この流れは戦後決定的となり、あらゆる学校が売買取引の2年以内に商品を京都奈良伊勢[2]東京広島北海道沖縄東北韓国台湾その他あらゆる景勝地としての片鱗が見られるところの内どこか一ヶ所で一度だけ雛壇に載せた写真撮影を行っている。そして契約締結間際には校内で再び雛壇に載せた写真を撮影し、全商品を掲載した永久保存できる商品カタログを制作している。現在でも続いており、主としての売買を選り好みして求める若者らに好評を博している。

変わり果てた雛壇[編集]

今日における典型的な雛壇ディスプレイ。手前に立っている人物は店員である。
伝統を顧みた七段による雛壇ディスプレイ。

また、雛壇は芸能人の販売に用いられており、今日最もよく知られる利用方法となっている。テレビ局電波を通じて店内の様子を放送している。電通の発表によると、東証一部上場企業は、商品が空気を読み、常識的でエクストリーム・謝罪に弱いかどうかを見定めた上で皆こぞって購入し、気の赴くままに使っているという。

商品販売方法は従来のものと大きく異なっている。売り払われる際、商品1人頭おひとり様限りという不文律は無い。また、個々の品物においては通常よくて将来性のある小物に止まっているが、こちらでは村上ショージ香田晋等の高機能商品だけではなく、間寛平中尾彬といったブランド性まで兼ね備える大物としか言えない物まで取り扱っている[3]。ラインナップも年々増加の一途をたどり、土田晃之に代表される雛壇に陳列される事を主目的としたサクラ用商品までもが大量に販売されるに至った。

収益向上を目的とした一連の戦略は、確かに短期的には店内への客入りを増加させた。しかしそのターゲットは完全に外れ、入ってくる客にこれら商品を購入できる者は数えるほどしかいなかった。商品は大量に売れ残り在庫まで抱えて、いつ見ても同じ商品ばかりという状況となり、在庫を更に処分しようと「手軽に運営できる」と触れ回り、本業態による店舗は増殖を続けた。しかし、ただでさえ少子化により人口が減少し始めようという最中需要がこの供給に応じて増えるはずもなく、ラインナップは一新されるどころか東京タワーの塗装を一人で塗り替える程の遅々としたスピードでしか進んでいない。どの店舗でも事業計画の下方修正を余儀なくされている。現在の雛壇に対する芳しくない評価はこれらの店舗の氾濫によって起きているといっても過言ではない。

これら店内の放送番組は雛壇トーク番組(ひなだん - ばんぐみ)と呼ばれ、通販番組の一種として位置付けられている。番組としての視聴者らの評価は、ジャパネットたかたといった売ることだけに徹した小売通販番組よりも更に輪をかけて低い。

古典雛壇の伝統[編集]

本業に並行して、公家や後の華族は同様の段、調度品と着物の着ぐるみのレプリカをサイドビジネスとして製造した。卸売は越後屋が受け持っている。

これはあらゆる新婦、現在では中の人となることが出来るように作られ、乙女たちの憧れの的となった。この傾向は今も続いている。なお現在でも、一部のガキどもにより座っている人の首を素手で引きちぎったり、帯刀している真剣を抜き振り回して遊ぶことが静かなブームとなっているが、これらは何故か殺人罪銃刀法違反にはならない。この野蛮性は欧米諸国が、日本がどれだけ富もうが白人とは違う東アジアとして、中国韓国北朝鮮と同一視し続ける根本的な原因となっている。もちろん国連人権委員会でも何度ともなく非難決議が採択されている。

脚注[編集]

  1. ^ この一件で得た発言力が、野中広務を筆頭とする現在の京都における同和勢力隆盛のきっかけとなった。
  2. ^ 言うまでもなく古典的な雛壇ディスプレイ撮影場所を求めてのことである。もちろん京都御所も含まれる。
  3. ^ 以前では、大物といえる例外は和宮ただ一人であった。

関連項目[編集]