霜月騒動

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霜月騒動(しもつきそうどう)とは、安達泰盛による北条時宗暗殺を端緒とする鎌倉幕府内における内訌の末に平頼綱が起こしたクーデターである。11月に起こったため、霜月騒動と呼ばれる。

平頼綱について[編集]

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霜月騒動について述べる前に、この騒動の中心人物である平頼綱の人物像について説明する必要がある。頼綱は公には平資盛の末裔を名乗っていたが、その実は高麗から派遣された密偵並びに暗殺者であった。

この頃、中国南宋は旭日昇天の勢いで版図を拡大するモンゴル帝国に蚕食されており、蘭渓道隆など、多くの知識人がモンゴルの侵略から逃れて日本へ渡来してきたが、それに紛れて、同じくモンゴルの侵略を受けていた朝鮮の高麗国のスパイも日本に渡来していた。

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高麗王朝は文臣派が政権の舵取りを取るようになってからというものモンゴル軍に平身低頭してその走狗と成り果てていたが、高麗の軍事組織である三別抄は尚も蒙古に抵抗し、各地で抗戦を続けていた。高麗から渡来してきたスパイの大半はこの三別抄の人間だった。無論、頼綱も同様で、三別抄から日本の内情を探り、実質的な支配者である北条家の執権に取り入り、三別抄の救援、高麗への出兵を促すよう密命を帯びていた。日本に侵入した頼綱は八郎という名の暗殺者として裏で躍動し、やがて安達泰盛の斡旋を経て執権北条時宗の側近となり、飛ぶ鳥を落とす出世をし鎌倉幕府の中枢で活躍するようになる。

頼綱は三別抄からの書簡を度々時宗に贈呈しては、蒙古軍の残虐ぶり、高麗の惨状を多少の誇張を交えて時宗に語り、しきりに蒙古討伐の為高麗へ出兵するよう請願した。不思議な事に、時宗は頼綱が高麗のスパイではないか、という疑念は微塵にも抱かなかったようだ。蒙古から入貢を求める書状が送られてきたときも、半ば頼綱の鶴の一声で拒絶が決した。

頼綱は洞察力に優れた落ち着きのある怜悧な人物であったが、一方で朝鮮人特有の病気である火病をわずらっており、激昂すると何をしでかすか分からない恐ろしい一面があった。日蓮に己の素性を暴かれ、私利私欲の為治世者、民衆を欺瞞する悪党と指弾された際には逆上して我を忘れ、自ら太刀を取って日蓮を斬り殺そうとしたという話にその凶暴性が伺える。

時宗と頼綱[編集]

確かに、日蓮の言うとおり、頼綱は高麗奪還という目的に時宗を利用する為彼に接近した。しかし、時宗に近侍して仕える中で、その人となり、器量に惚れ込み、心酔していった。頼綱の時宗に対しての忠誠心は絶対であったと言われ、時宗も彼に篤い信頼を寄せていた。彼が三別抄のスパイであることが露見しなかったのは、このひたむきな忠節に二心がないと思われたからだろう。

泰盛と頼綱[編集]

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頼綱を時宗に引き合わせたのは有力御家人安達泰盛である。まだ頼綱が暗殺者「八郎」と名乗っていた頃に彼と出会った泰盛は、彼から蒙古襲来の危機と高麗の惨状を聞かされ、蒙古という強国の脅威を意識するようになった。やがて蒙古は日本にも攻め寄せてくるだろうと遠望した泰盛は、高麗の内情に詳しい八郎は何かと役に立つと考え、時宗に推挙した。八郎は泰盛に対しては博多の商人謝国明の使い走りであると韜晦していたが、泰盛ほどの人物なら、あるいは三別抄、とまでは断定できずとも、高麗王朝の反蒙古派閥の回し者である事を見抜いたかもしれない。見抜いてなお、その見聞と知識は蒙古を相手にするために必要と考え、時宗に彼を推挙した、とも言われる。が、その泰盛も、まさか頼綱と名を改めた八郎が時宗の側近として自分と対等の地位にまで上り詰めるとは思わなかっただろう。泰盛と頼綱は後に幕政の方針を巡り、対立を深めていく事になる。

時宗の死[編集]

蒙古は二度、日本に対して攻め込んだが、いずれも頓挫した。辛うじて蒙古軍を撃退した時宗であったが、新たな問題に直面する。蒙古との戦は防戦一方であったため、御家人達に恩賞として与える土地を切り取れなかったのだ。当然、御家人達の間に不満が鬱積し、河野通有などは、「今度はこちらから蒙古に攻め込んで領土を切り取るべし」と啖呵を切った。

頼綱は、この御家人達の不満に目をつけた。高麗奪還の本懐を成し遂げる機会がついに巡ってきたのだ。彼は御家人達を煽動し、蒙古侵攻の風潮を醸成させた。時宗に対しても、「御家人に与える土地を切り取るためにも、蒙古に侵攻すべし」と説得した。そして時宗はついに頼綱の意を汲み、蒙古への侵攻を決意した。

しかし、これはあまりに遠大で無謀な計画であった。ただでさえ二度に渡る蒙古襲来や石垣の建造などで幕府の財政は払底になっている。その上、蒙古軍の有する戦力は日本の比ではなく、勝算は限りなく低い。その事に気付いていた安達泰盛らは、時宗に出兵を取りやめるよう懇願したが、人情、正義感に篤い時宗は「南宋、高麗を救う事にもなる。」と言い(おそらく頼綱に鼓吹された)、彼らの諫言を聞き入れなかった。

止むを得ず、泰盛は最後の手段に出る。1284年4月上旬の夜、泰盛は積もる話があると言って時宗と二人だけで盃を交わし、彼に気付かれないよう、密にその盃に毒を混入した。毒入りの盃を飲んだ時宗は、まもなく床に付し、それから間もなくして逝去した。鎌倉幕府の安泰を願うがゆえの苦汁の決断だった。

憤怒の頼綱[編集]

暗殺者としての勘であろうか、頼綱は泰盛が時宗を裏で屠ったことを見抜いた。前述の通り、頼綱は時宗に対しての忠誠心は人一倍篤かった。それゆえ、その時宗の命を奪った泰盛に対して頼綱は怒り狂い、復讐を決意する。頼綱は約1年半、貞時に対してしばしば讒言するなどして計画を練りに練り、ついに実行に移った。頼綱は貞時の意を受ける形で泰盛ら安達一族を襲撃し、これを族滅する。この事件は11月に起こったため、後の世に霜月騒動と伝わった。

霜月騒動の側杖[編集]

霜月騒動の波紋は幕府の外にまで広がった。九州では、泰盛と親しかった少弐景資が険悪な仲だった兄の少弐経資に謀反の汚名を着せられて誅殺された。また疑いの眼を向けられると現当主をお隠しして責任追及から逃れる事で有名な足利家では、早速重臣高師氏が策動し、頼綱による安達一派粛清から足利家を守るべく泰盛と親しかった当主足利家時をお隠ししようとしたが、事前に察知した家時は逃走し、行方を晦ました。

その後[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「平禅門の乱」の項目を執筆しています。

時宗を失ってからの1年半、頼綱は泰盛への復讐の事ばかり考えていたわけではない。泰盛討伐の計画を講じる一方、高麗王朝とも相変わらず書状のやり取りを続け、本来の任務である高麗奪還も推進していた。時宗の「仇討」を終えた泰盛は、いよいよ本懐を成し遂げるべく、貞時に蒙古への進軍を提言した。しかしロマンチストであった父時宗とは異なり、貞時は合理的な人物であり、出兵よりも地盤固めを重視した。また、得宗への権力集中を目論む貞時は泰盛、頼綱の両者ともに疎ましく思っており、泰盛粛清も、頼綱の教唆も確かに有ったが、貞時自身が自発的に行った粛清であり、頼綱はむしろ利用されたという見解が強い。

高麗奪還を企図する頼綱はいきり立ち、貞時に出兵を強訴し、果ては自分の一存で強引に出兵の段取りを進めようとした。が、これが命取りとなった。1293年、頼綱をこれ以上放置するのは危険と断じた貞時によって、頼綱は一族もろとも粛清された。世に言う平禅門の乱である。そして、それから100年後の1388年、故国高麗において武官李成桂によるクーデターが起こり、高麗王朝は事実上崩壊した。彼岸の頼綱は、自分の高麗出兵が成功していれば高麗が崩壊することはなかったろうにと、ひどく嘆いたのであった。