青砥藤綱

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青砥 藤綱(あおと ふじつな)とは、一種のマクガフィンであり、鎌倉時代における「理想的な御家人」の定型像が具現化したことで誕生した、妄想上の人物である。初めて青砥藤綱の名が登場したのは5代執権北条時頼の頃で、以降青砥藤綱に関する戯言は14代執権北条高時の頃まで北条一門の間で語り継がれた。

青砥藤綱の誕生[編集]

青砥藤綱の生みの親は5代執権北条時頼である。時頼はスーパーマンのように縦横無尽の活躍を見せてくれる比類なき完璧超人の御家人を求めており、御家人一人ひとりの人となりを見定めるために諸国を遍歴して抜き打ちテストを行っていたと言う恐ろしい逸話があるほどである。

青砥藤綱が初めて時頼の脳内で創生されたのは、彼が重病に罹って目の焦点も定まらなくなりその精神が彼岸をちらついていた頃である。彼は自身亡き後の幕府を案じ、幼き息子北条時宗を支えて万事を任せられる御家人が欲しいと、この時切に願った。やがてその懸念は妄想となって脳内で膨張してゆき、ついには青砥藤綱と呼ばれる、架空の御家人を生むに至ったのである。時頼は病にうなされながら「青砥、青砥はおらぬか」とうわごとを呟いていたと言われる。遂には時頼は青砥藤綱が実在の人物であると言う錯覚にまで陥ってしまった。

奇跡的に病から立直った時頼は、病の間自らの枕元に侍っていた「忠臣」青砥藤綱が自らの妄想が生み出した産物に過ぎないと知るも、御家人は皆、青砥藤綱のような人たるべしと考え、優秀かつ篤実な御家人達の発掘、養成に勤しんだ。彼は息子の時宗にも青砥の様な優れた家人を集めるべしと教訓を遺し、さらに時宗から貞時へ、そして高時に至るまでこの話は継承された。時宗やその子貞時が、青砥藤綱のようなものがおればと愚痴をこぼしていたとの文献もある。

青砥藤綱の正体[編集]

「ドラえもんは鎌倉時代から存在していたんだよ!」「な、なんだってー」

だがちょっと待って欲しい、この青砥藤綱と言う名前を見た時疑念を抱かなかったであろうか。実は青砥藤綱の正体は、我々も良く知る存在なのである。そして藤綱の苗字にそのヒントが隠されている。

まず、青砥藤綱の「青」。これは藤綱の体色を表している。そして「砥」の文字、これを「石」と「底」に分ける。(右の文字は表示されないケースもあるので、宇宙の真理に従ってマダレをつける。)。漬物石のような体系に、底なし、つまりブラックホールのような底なしの「何か」と意味している。さらに「砥」は「戸」と同じ読み仮名、つまりどこでもドアを表していることが分かる。このことから、底なしの何かとは四次元ポケットの事を意味していると推察出来る。

もうお分かりであろう。青砥藤綱とはドラえもんのことだったのである。これはとてつもない大発見である。藤子・F・不二雄先生が生み出すより遥か500年以上も昔に、時の封建制度の最高権力者が全く同じ体系の青い狸の姿を脳内に描いていたのである。あるいは、青砥藤綱の文献をヒントにF先生がドラえもんを生み出した、つまり青砥こそがドラえもんの元ネタとなった人物なのかも知れない。

ついでにこんな逸話もある。ある時青砥が鎌倉の滑川に十文銭を落とし、家来たちに落とした十文銭を取ってくるよう命じた。家来たちが川を探ったところ、十文銭が十枚見つかった。青砥は言う、「お前達が手探りで川を探した労働行為にへの報いとして、川の神様が落とした十文銭を十倍にして返してくれた」と。銭が何倍にもなるというこの現象は、青砥がバイバインを使っていた証左である。青砥藤綱がドラえもんであることは最早疑いようもない。