魏延

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
ごっつい魏延
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「魏延」の項目を執筆しています。
にーこにっこどーが♪
ニコニコ動画中毒患者のために、ニコニコ大百科ではニコ厨たちがお金をかけてまで「魏延」の項目を執筆してくれています。
Pixiv
同人マニアのために、ピクシブ百科事典では同人ゴロとその愉快な仲間たちが「魏延」の記事を執筆しています。
「楊(楊尚昆)は魏延だ!!」
魏延 について、毛沢東

魏 延(ぎ えん、168年? - 234年)は、字は文長。蜀漢の随一の武将(史書に数人の息子がいたと記されている)。

略要[編集]

前半生[編集]

荊州の南陽郡(西晋以降は「義陽郡」)出身。

陳の字の『三国志』では魏延の父祖の名は記されてないが、『元本』(正式には『大徳元本』。モンゴル王朝の元代の大徳年間の野史。著者未詳)には記されている。それによると、司馬の字の『史記』「斉悼恵王世家」で登場する斉(前漢の親藩)の中尉の魏勃だという。魏勃が独断で斉軍を動かしたため、前漢の大将軍の灌嬰に職務を剥奪され、庶民へと落とされた。魏勃はそのまま南陽(義陽)に定住し、「俺ってヘタレだな~」と愚痴を言うさびしい生涯を終えたらしい。

あれから三百年くらいの歳月が流れ、魏勃の末裔と称した魏延が登場した。彼は庶民出身で常に貧乏だったので「俺はいづれ士分に出世し、先祖の不名誉を晴らすぞ」と公言したらしい。

はじめは荊州牧の劉表のもとで一兵卒の軍人として仕えた。ところが漢の皇室の末裔の劉表はなまじ学者でもあったので「魏延とやらは、あの魏勃の子孫か…縁起が悪いな…決して要職に就かせるな。あいつは反骨の相があるからな」と言って、魏延は無視されるように干された。

魏延は恨みを持ちやすい体質のために「劉表はしょせん『モンロー主義』かぶれの老いぼれさ。早く見切りをつけないとな…」と言った。そんなときに亡命客将の劉備が、「勇敢な武将を求む!」と応募していたので、魏延はすぐに飛びついた。

魏延と面会した劉備はすごく魏延を気に入り、「君の実力を試したい。どうだ?張飛相撲をやってみないか?」と言った。魏延は若いときから並外れた怪力の持ち主なので「喜んで!」と承諾し、張飛を相撲でガチで真剣勝負をし、見事に勝ったという(張飛はすごく悔しがったという)。

しかし、これを見た諸葛亮が口を出した。「この魏延とやらは、亡き劉表公が「反骨の相」だの「奇人」、「変人」だと酷評された厨房ですよ。しかもあのヘタレの魏勃の末孫だとか…私は絶対に召抱えるのを反対します。ただちに処刑すべきです!」と言った。

だが、劉備は魏延の力量にほれ込んでいたので「いや、ワシはそう思わん。しかしニート軍師クン(諸葛亮)の顔を立てて、今度は同じく新参者の黄忠と勝負させよう。これでいいだろう?」と言った。こうして魏延は黄忠と勝負するが、老人とは思えないパワーで黄忠は魏延を土俵に叩き落した。

これを見た劉備は「よしよし、両人ともよくやった。ここでは″引き分け"とする!」と言って、魏延を召し抱えたのである。この時、諸葛亮は怒りの表情で「魏延とやら、一言言っておく。将来に「反骨の相」が表面化したときは、この私直々に汝を討伐して、汝を討ち取ったあとに、晒し首とする。異存はないね?」と言った。

これを聞いた魏延も怒りの表情で″こめかみ″をピクピクしながら「それがまことならば、そのときに私は自らの反骨の相もろとも命を絶ってお目にかけましょう。」と諸葛亮を睨みながら豪語し、退席したという。

まもなく、劉備の南荊州討伐に従軍し、黄忠とともに長沙郡太守韓玄の軍勢と戦い、これを降し魏延の名は天下に轟いた。

後半生[編集]

劉備の蜀簒奪にも部隊長として、劉備の嗣子劉封を補佐しながら大活躍した(これに関しては、諸葛亮をはじめとして荊州に残った関羽も不快感をもったらしい…)。また、龐統の命で益州牧劉璋暗殺するように命じられたが、「可哀そうじゃないか…」と言い出した劉備に阻止された。

劉備はますます魏延を寵愛し、張飛に代わって南鄭(漢中)郡の太守に抜擢しに備えさせた。さらに蜀郡太守法正とともに「わが君(劉備)の後嗣に阿呆(劉禅&阿斗)では無理だ。ご長男の劉封さまこそ、ふさわしい!」と言い出した。そのために阿呆派の諸葛亮・李厳孟達と派閥争いに発展した。

しかし数年後、「劉封派」の大黒柱の法正はのため46歳で没してしまった。さらに悪いことに劉封は義理の伯父の関羽を犬猿の仲の孟達とともに見殺ししたため、劉備から廃嫡される可能性が高まったのである。

魏延はこのことに焦ってしまった。やがて魏に投降した孟達に大敗した劉封が成都に逃げ帰ると、魏延は劉封に面会し「法正どの亡き後は、この私が若殿(劉封)をお守りします。ご安心くださいませ」と励ました。しかし、諸葛亮は才子の楊儀と密談して劉備に上奏し「劉封の賜死」の承認を得たのである。これを知った魏延は「封さまに何の過度があるのですか?これはあのニート野郎(諸葛亮)の狡猾なですよ。どうか、お考え直してください」と劉備に諫言した。

しかし、このとき劉備の側にいた諸葛亮は「魏延よ、私が″あのとき″に言った言葉を忘れたのか?汝が封君(劉封)をあくまでも庇うのなら、私は今から汝の首を斬ってもよいのだぞ。汝には大事な妻子もいるだろう?」と恫喝した。これを聞いた魏延はを食いしばりを流して「若殿…申し訳ありませぬ、私の実力では無理です。どうか天国で法正どのと一緒に私を応援してくださいませ…」と思わず男泣きをした(蜀漢のお家騒動を参照)。

まもなく劉封は廃嫡され、処刑された。そのときに楊儀は「これで粗暴な若殿がいなくなって清々したな!」と言い出した。これを聞いた魏延はブチキレてしまい、楊儀に向かってオラオラ無駄無駄&北斗神拳を炸裂し、楊儀をボコボコにフルボッコにした(以後、楊儀とのバトルが激化した)。

数年後、劉備亡き後に総指揮をとった諸葛亮の北伐に参戦した。そのとき魏延は「一気に潼関を陥落させ、長安を占領すべきだ!」と叫んだ。しかし諸葛亮は「汝は相変わらずDQN&KYだな。いいかげんに空気嫁!」と言い、結局、諸葛亮は楊儀・馬謖の提案である西方の祁山・街亭攻略を採用した。魏延は「なんだあ~あの臆病なニート軍師は?しょせんゲーム感覚だな。亡き封さまならワシと同じように長安を一気に奪うのにな…」と思わず不平不満を叫んだ。

はたして魏延の予想通り、馬謖は街亭で司馬仲達の軍勢に大敗した。まもなく馬謖は斬罪され蜀漢軍は漢中に撤退した。魏延自身も高翔とともに郭淮に敗れたが、彼は敗戦を聞いて、「ほれ見ろ。ワシの言った通りだろ?」と諸葛亮のヘマを嘲笑ったという。

以降も味方劣勢が続いたため諸葛亮の戦果は芳しくなく、五丈原の戦いに至った。

相変わらず魏延は諸葛亮との対立は激しく続いた。こんなときに諸葛亮の相談役存在の劉琰が平和主義の後主(劉禅)の逆鱗にふれて成都に更迭された(後に劉琰は息子と処刑された)。これは魏延の巧妙な策だという。

魏延の謀略に激怒した諸葛亮は楊儀・姜維を召しだし、「周りに″魏延がついに反骨した!″と煽動させよ!!このままでは私の気持ちがおさまらん」と叫んだ。特に楊儀は大いに狂喜し、巧妙に将兵を煽動し、魏延を討つように命じた。

この報を聞いた魏延は慌ててしまい、側にいた巫者の趙直に「ワシの運命はどうだ?」と訊いた。すると趙直は「大将軍は昨日どんなを見ましたか?」と訊いた。魏延は「そうだな…たしか、が生える夢だったかな?」と答えた。趙直は「それは吉兆です。大将軍も宰相・太師に栄進なされるでしょう!」と言った。魏延は「そうかそうか…ならば、現在の陛下にご退位いただき、亡き封さまのお子の琳(劉琳)さまに即位させ、諸葛亮一派を壊滅すれば万全だな。これで先祖の名誉を取り戻せるぞ!」と叫んだ。その裏では趙直は「″角″が生えるというのは、自分の首が刎ねられることさ。まあ私には関係ない」と言って、ひそかに楊儀のもとに逃れた。

しかし、楊儀軍が自分を目掛けて攻撃してくるので、たまらずに、副将の馬岱馬超いとこ)とともに敗走し漢中に逃れた。その間に諸葛亮は過労のために55歳で亡くなり、楊儀らは諸葛亮のを守って武都に入った。

この報を聞いた魏延は「あのニート野郎がくたばったか~よし、これから現陛下を廃位させ、琳さまを擁立するクーデターを起こすぞ!!」と躍起となり、馬岱を漢中に留守居させ、総攻撃した。

しかし、故諸葛亮はこのことを予想し、楊儀に密命を遺していた。楊儀は王平・維姜に命じて攻撃させた。このとき漢中を守護していたはずの馬岱も討って出て、魏延軍に攻撃した。裏をかかれた魏延は歯軋りしながら、数人の息子たちとともに重慶に逃亡をはかったが、追撃した馬岱軍に討ち取られ、竹槍のマスコットにされた(楊儀自身も魏延父子の首を踏みつけたため、非業の最期を遂げた)。

プロレスラー魏延[編集]

生まれつき、関羽と同様に棗のように顔が赤かった。プロレスラーとして蜀の兵士、民に楽しみを与えた。プロレスは蜀の将のほか劉備も大いに楽しんだという。

またロクに会話も出来ないように描かれているが、諸葛亮が北方征伐に精を出す中、荊州が呉に襲われていると聞くや、一兵も連れずに応援に向かい、類稀なる軍略と武をもって呉を退かせた。

この時馬良に「私を立ててはいけない。諸葛亮の耳に入れば私をねたむだろう。私がここに来たことも知らせてはならない。君の軍略で退かせたと胸を張っていればいい。」そして成都に戻って何食わぬ顔でリングに上ったという。

その後は山賊になり、陰から蜀を見守り、蜀の苦戦の際には兵士の死体から鎧を取って兵士のフリをして無双の活躍で蜀を勝利に導いていった。しかし調子に乗って「わしを斬れる者はおらぬか!」と叫んだ所、馬岱から「ここにいるぞ」と言われ、斬鉄剣で秒殺された。

現代風に言えばイノキズム、ストロングスタイルである。「ワレ、貴様ヲ…倒ス!!」とともに繰り出される魏延カッターはただのダイアモンドカッターである。

蜀の武将の中では唯一曹仁と対戦しており、SSP(SOHJIN SIKOH POWERBOMBの略)を食らっても立ち上がった(この時曹仁はこの技を封印したという)。プロレスで鍛えた技、パフォーマンスの一部は実際の戦闘にも取り入れている。

余談として、コスチュームは南蛮人風で覆面をつけている。リング上でのパフォーマンスではブレイクダンスを踊る。

各界の魏延評[編集]

俺を斬る者はおらんのか?!
「臣、亮が申し上げます。魏延には反骨の相があります、即座に斬るべきでしょう。」
バカの魏延 について、諸葛亮
「しかしわしはそれを使いこなせてみせるぞ。」
諸葛亮の発言に対して について、劉備
「わしを斬れる者はおらぬかだって?!ここにおるぞ!」
魏延 について、馬岱
「この野郎、なんかほざいてみろ。ワシはお前の首を踏んじゃうよ?!」
魏延 について、才子楊儀


ミッキーマンソン.jpg この記事「魏延」を書いた人は大いなる権力により抹消されました。この記事を読んでいるそこの君も抹消される覚悟があろうとなかろうと編集し…あれ?こんな時間に客?誰だ? (Portal:スタブ)