黒崎久志

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黒崎久志(くろさきひさし、1968年-)は栃木県鹿沼市出身の元サッカー選手である。2010年から2012年5月までアルビレックス新潟の監督を勤めている。現役時代のポジションはMF・FW。日本代表として25試合に出場、4点を獲得している。

なお、一時期、げん担ぎのために黒崎比差支名義で選手登録を行っていた時期がある。当時の流行りとはいえ、さすがにこれはと思う人がいるのもいたしかたない。なお。アンサイクロペディアでは、氏の名誉とアンサイクロペディアで記事を作成する際のルールの間で苦しみつつ、そっとリダイレクト設定するものである。

選手としての実績[編集]

黒崎氏は、宇都宮学園高校(現、文星芸大付属校)時代より、いずれ日本代表入りするプレイヤーになると将来を嘱望されており、2年時には全国大会ベスト4、3年時にはキャプテンにも就任、全国大会では準々決勝で惜しくも敗退するも、宇都宮学園のサッカー黄金期を築き上げている。

1987年に高校を卒業後、実業団チームである本田技研工業サッカー部に入団。なお、本田技研のサッカーチームとは、2012年現在、JFLの門番として数多くのチームに立ちはだかることになる、あのHondaFCの前身にあたる。しかし、その後降って湧いたように盛り上がったJリーグの創設の際、サッカー協会の方針として地域との密着を掲げ、各企業の名前をチーム名に入れないという申し合わせが徹底される中で、多くの実業団チームがそのままアマチュアとしての活動を選択。ホンダも1992年のJリーグ開幕までにプロ化しないことを決定する。そして、その意思は次代へ頑固に頑固に引き継がれ、それから20年を経ても尚、多くの実業団チームが名前を変えJリーグ入り果たすも尚、いつまでもいつまでもアマチュア精神を貫くHondaFCであった。

とさ。

しかし、それだと困る人間が現場に出てくる。けっこーでてくる。むしろ、サッカー選手としてより高い場所を目指す考えを持つ人間なら、困るどころの騒ぎじゃない。そんなわけで、HondaFCのレギュラーとしてチームを支えていた当時24歳の黒崎氏は、Hondaの宮元征勝監督が鹿島アントラーズに監督として引っこ抜かれたことを契機に、多くのチームメイトとともに鹿島へ移籍。しかし、急なプロ化に実力はついていかず、外国人選手とのレベルの差がとんでもないことに気づかされる。幸いなことに、世界一のサッカーを体現していた神様ジーコの薫陶の元で、チームはJリーグの強豪として急成長し、その中で数少ない日本人ストライカーとして黒崎氏も活躍していく。

実際、日本人としては珍しい、点をガンガン取れるストライカーとして氏は大活躍。185cmの高身長とキャノン砲と呼ばれたシュート力で、5年に及ぶ鹿島時代だけで公式戦50点を稼ぎ、さらに日本代表にも名を連ねる。中でも、1993年に後半ロスタイムで惜しくもW杯出場を逃すこととなった、日本サッカー史上に残る名シーンドーハの悲劇にも、ベンチメンバーとして涙を呑んでおり、その後も1997年まで代表に選出されている。

その後、30歳を間近に控え、徐々に選手としての衰えを見せるようになる中、氏は鹿島のレギュラーの座を若手の成長株である柳沢敦選手に脅かされることになる。ここで奮起、抗いを見せてどーのこーのという話は特になく、氏は98年に鹿島アントラーズから京都サンガへの移籍を決意する。その後、柳沢選手もまた日本を代表するストライカーになるのだから、鹿島にとっても素晴らしい引き際を見せたことになる。

移籍した京都サンガでも、氏は十分な活躍を見せると、今度は日本有数のクラブで幾多の優勝を果たした経験を買われ、新規に誕生したチームの柱として各地に引っ張りだこになる。京都の次は94年に誕生したヴィッセル神戸、そこで2年を過ごした後、J2時代のアルビレックス新潟へ移籍。さらにそこでリーグ戦で21得点という破格の活躍を成し遂げたことが、その後、コーチ、および監督として迎えられる素地となる。

最終的に、2002年に大宮アルディージャへ移籍し、翌シーズンを終えた後に現役を引退。しかし、その経験と幅広い人脈、さらに数多くの若いチームを引っ張っていったその資質などから、早くに指導者への転進が図られることになる。

コーチとしての実績[編集]

2003年の現役引退直後、早速、古巣である鹿島アントラーズのジュニアユース指導者に就任したことが、氏の若手に対する指導方針を決定付けることになる。なお、おもいっきり鹿島の人脈を受け継ぐ、受け継がせるという何かの意思の表れでもある。同年、U-15日本代表のコーチに就任した後は日本サッカー協会のトレセンコーチとして子供達にサッカーの面白さを伝える役割を担うなど、まさに頼れるお兄さん的キャラクターを全面に押し出し、さらに、そこで得た人脈から、2012年に小谷野顕治選手を引っこ抜いてくるなど、実に、人脈の生かし方と人間関係を大事にしていく処世術を身につけていく。

さらに翌2005年には本格的にユースコーチとしてアントラーズに復帰。子供達の指導から、ユース選手へとレベルアップすることで、より細やかに選手と信頼関係を結んでいく素地を築いていく。

ただし、この点が重要であるのだけれど、氏は人間関係の構築力に長けてはいたのだけれど、それが試合の構築力に結びつくかというと、そんなことはない。まったくない。そして、サッカーにおいては、試合の構築能力のほうが、勝利に結びつきやすいことは確かである。

もっとも、人間関係を構築する能力だって、十分すぎるほど大切なわけで。特に、若い選手を育てよう伸び悩んでいる選手を奮起させようなんて話は、こういったにんげん関係に属する話である。嫌いな人間の元で成長するのは難しく、目をかけられていないことが分かる中で、やる気を出させようったって、そうはいかない。そういった意味では、細やかに選手を起用し、若手も積極的に使うという、その後の氏の監督としての選手起用方針は、育成という面においては大変に素晴らしい話である。

結果も伴えばさらによかったのだけれど。

で、そんな氏の才能を見た外部のチームが動き出さないわけがない。というわけで、2007年、貧乏で有名なアルビレックスが、選手の育成と指導者の育成の2つをチーム方針と掲げ、アントラーズユースで18歳以下の選手たちを指導していた黒崎ユースコーチを招聘する。これは、若手育成という点においては、まさに大当たりの人事だった。その後、新潟が若手の宝庫と呼ばれるのも、ひとえに氏の努力によるものが大きい。

そしてこの招聘は、2008年に怒涛の引き抜きでチームがしっちゃかめっちゃかになった際に、なんとか戦線を維持、残留をぎりぎりで果たせるだけの若手をそろえられたという点で大成功と言え、さらに翌2009年になると、珍しくもシーズン前の補強がはまり、豊富な若手の人材とマルシオ・リシャルデス選手を中心にしたレギュラー陣が隙のない試合運びをしまくった結果、までなら過去最高の成績を残す。

で、中心選手であったペドロ・ジュニオール選手をガンバ大阪に引き抜かれてサヨオナラ。悲しいことに、若手の指導力に長けフォワードの日本代表として活躍した黒崎コーチでも、得点能力を若手に伝えることが出来なかった。

まぁ、当たり前の話だ。シュートを蹴る、枠内にボールを飛ばす、キーパーとの読み合いに勝つ、ボールを体ごと押し込むなどなど、2012年5月19日にビッグスワンで行われた大虐殺で、ジュビロが得点したシーン1つ1つにおける攻撃の思想、すなわちそこにいたるまでの組み立てというものは、チーム全体で培わなければ、育てなければ、意思を統一しなければ根付かないわけだから。こればかりは、人間関係ではどうしようもない話である。どうしたって、時間の経過が必要な話である。

さらにひでえことに、2009年以降もアルビレックスは、そのチーム全体で培った、時間をかけて積み重ねた、攻撃に関する思想をことごとく選手の引き抜きで失っていく。世知辛い話である。

なお、2009年のリーグ戦終了後、面白みのないチーム編成することで新潟をJ1の常連にすることに成功した鈴木淳監督が任期満了で勇退する。分かりやすく言うと、お金がきついので再契約が厳しくなる。その後、アルビレックスはめぼしい人材に監督就任を打診するものの、ビンボーがネックとなりことごとくソデにされる。そのため、最終的にS級ライセンスを持つコーチの内部昇格をせざるをえぬことになり、選手からの人望の厚い黒崎コーチがアルビレックスの第4代監督に大抜擢される。

J1どころかJ2ですら指導経験のない氏の抜擢がいかにバクチであったかについては、想像に難くない。が、いたしかたない。貧乏ですから。新潟は。

監督しての実績[編集]

2010年[編集]

2010年、それまでコーチとして在籍していたアルビレックス新潟で初監督としての指揮をJ1チームで執り行うという、或る意味、無謀な、しかし大変にやりがいのある仕事を任されると、初年度はその人脈を生かし、鹿島アントラーズ時代の伝手や代表時代の人脈を頼りに、サンフレッチェ広島でトップコーチを勤めていた森保一氏やフィジカルコーチであるマルセロ・ポンテス・ロペス氏を招聘。前監督である鈴木淳氏の特色であるスターティングメンバーの固定化やベテランを優先するといったチーム運営を入替える。

その結果、リーグ戦が始まる3月4月と未勝利。ぶっちぎりの最下位。しかし、レギュラーを固定化せずに状態のいい選手を優先して試合に出すことで、それまで芽が出にくかった新潟の若手に光を当て、さらに、戦術についてもケガから復帰したスーパープレイヤーマルシオ・リシャルデス選手に一存することで、チームの歯車ががっちりとはまる。5月以降は、降格候補といわれていたチームが夏場に一気に盛り返し、なんと8月にはACLを狙える順位まで躍進する。

で、矢野貴章選手を引き抜かれてサヨヲナラ。

けれど、最終的に初監督としては望外の9位という地位を獲得する。

この時代、黒崎監督の抜擢した若手選手の中には後に韓国代表に選ばれるチョ・ヨンチョル選手やアルビレックス新潟ユース出身選手として初めての海外移籍選手となった酒井高徳選手、さらに第三ゴールキーパーから日本代表にまでステップアップすることになった東口順昭選手といった、10代後半から20代前半の選手がこれ以上ない成長を見せることで、チーム全体が引っ張られていくスタイルが出来上がっていく。けれど、監督としては矢野選手の抜けた穴や、マルシオ選手が怪我でいない状態での穴を最後まで埋めることが出来ず、光は当てるけれど試合結果で選手が苦悶するという話が、2011年の後半戦あたりから見受けられるようになる。

で、それがさらに明確になっていくのは、翌2011年のことになる。

2011年[編集]

アルビレックスとして初めてとなる2年連続の一桁順位という成功の後に待っていたも。それは、成長した若手選手というものは、順調に引っこ抜かれていくという、厳しい現実だった。さらに、そこに東日本大震災によるリーグスケジュールの混乱も加わった結果、育成した若手有望選手を軒並み代表戦に取られ、さらに無理なスケジュールによる疲労から、中心選手が次々と怪我で戦列を離れていくという、まさに踏んだり蹴ったりひねったりねじったりという状況にアルビレックスは陥る。

事実、この年、アルビレックスはDFの鈴木大輔選手が若手有望株として急成長。左サイドバックの酒井高徳選手とともに不動のレギュラーとして君臨するはずの予定が、嫌になるほど、泣きたくなるほど、口から魂吐き出せるほど、U-23日本代表としてチームから離れることになる。さらにそこにチョ・ヨンチョル選手の離脱も加わるものだから始末に負えない。その結果、怪我人続出のチーム状況の中で、さらにレギュラーが引っこ抜かれるという悪夢が重なりまくった結果、アルビレックスはぎりぎり残留を果たすも、14位という心底やばい順位でリーグ戦を終えることになる。

ただ、この1年については、不可抗力の部分が大きいため、黒崎監督の指導力ウンヌンについては詳しく語れない。ただ、この年から戦術が固定化されるようになる。正確に言うと、失敗した戦術を繰り返さなくなっていく。その点は大きい。負の意味で大きい。

・・・問題は、ここからである。落とし穴の次に、悲劇が口を開いていた。

2012年[編集]

前年度の反省点として、選手層の薄さと若手有望選手の代表戦出場が重なることでチームが困窮するという話を何とかするために新潟が下した決断。

それは、代表戦に出るような有望な選手を売って、代わりに代表戦やらカップ戦に出場しまくっても大丈夫なレベルで選手をかき集めるという、或る意味ターンオーバーを意識した方法だった。その結果、チョ・ヨンチョル選手が大宮アルディージャへ。酒井高徳選手がドイツシュツットゥガルドへ移籍していく。両人とも左サイドだったことが、その後、とんでもない重荷になる。けれど、本当の悲劇はそこではない。

第一の悲劇[編集]

まず、第一の悲劇として、モチベーターとして選手を鼓舞する黒崎アルビレックスの軍師的存在だった森保ヘッドコーチがサンフレッチェ広島へ監督として帰っていく。指導者の育成を掲げるアルビレックスにとって、実にまったく泣きわめき叫びたくなるようなうれしい出来事である。頭をかきむしりたくなるほどの。その結果、新たに西ヶ谷隆之氏をヘッドコーチとして迎え入れるも、それまでの2年間、選手の状況を読み試合の構築を担当した森保氏の移籍は、その後の試合における選手交代において大きな影響を与えることになる。

というのも、アルビレックスの攻撃手段というものは、2010年度から主として固定された選手間の連携や一選手のひらめきといった、チーム全体が一つの意思で点を取りに行くという思想ではない、選手の個々の技術による方式で形成されていた。百姓一揆と蔑まれつつも他チームから恐れられたその攻撃手段はしかし、最初の一撃よりも二撃目、三撃目をどう組み立てていくか、相手のカウンターを食らわないで終わるかが重要になる。

マルシオ選手のいた時代は、フリーキックやコーナーキックなどにつなげれば十分脅威を与えられたのだけれど、彼が移籍してからは、攻撃に関する思想が最初の一撃のみになってしまい、得点力不足に陥って逆に相手カウンターでの失点を増やしてしまう悪循環に陥る。そういった話は、昨年にすでに見られたのだけれど、それを防ごうにも、昨年は余りにも怪我と選手の代表選出がひどすぎた。で、今年になってそれを乗り越えたと思ったら、今度は新潟の戦術を一番理解していた森保氏がいなくなった。

けれど、そういう状況に陥るチームはけっこーある。戦術面を担当する人材は、基本的に足りないわけだから。しかし、黒崎監督の不運は、その次の悲劇とこの悲劇がもろにかぶったところにある。

第二の悲劇[編集]

黒崎監督の不運。それは、2012年のシーズン開始の段階で、新潟の戦術をよく知るユース出身の左サイドの有望な若手がいなかった、正確に言うといなくなったことである。前回、左サイドがボロボロになった際はユース上がりで18歳の酒井高徳選手が急成長を遂げたのだけれど、今回、左サイドの超有望株だった早川史哉選手が、酒井選手のドイツ移籍が分かる前に早稲田大学への進学を決めるという悲劇がアルビを襲っている。さらに、もう一人の有望株である川口尚紀選手も、本職がフォワードで右サイドバックもできるという、実に叫びたくなるような状況だったりもする。その結果、急遽、フォワードで登録されていた酒井高徳選手の弟である酒井宣福選手を左サイドバックとして鍛えざるをえなくなるという、実になんとも言えない話がそこにあった。

2010年から2年間レギュラーとして左サイドに君臨していたチョ・ヨンチョル、酒井ゴートクの両選手の移籍について、ヨンチョル選手の移籍は事前に予想されており、まったく問題はなかった。しかし、後数年は新潟で活躍するだろうと思っていた酒井高徳選手がドイツはシュツットガルドに移籍なんて話は、明らかにチームにとって不意打ちすぎて、その後のチーム運営に弊害を及ぼすような話だった。にも関わらず、笑顔で送り出すのがにーがたの素晴らしいところである。涙出てくるほどの。

実際、にーがたの戦術のことをよく知る選手の不足は、毎年毎年深刻になっていく。まぁ、引き抜かれ続ければ当たり前であるのだけれど、フィールドの片側を丸ごと持っていかれたというのは、2010年に矢野選手、マルシオ選手を時を置く形で持って行かれて以来になる。そして翌2011年は右サイドの悲劇が勃発。新潟と戦うときは左サイドを重点的に守ってりゃなんとかなるという、実に分かりやすい話になり、その翌年にこの体たらく。

とりあえず、2011年にぽっかり開いた右サイドの穴について、矢野選手の買戻しでようやくディフェンス面の強化という形で埋めたかと思った直後、左サイドにクレーターが出来るんだからたまらない。事実、2012年の前半戦は主に新たに獲得した左サイドバックのキム・ジンス選手と、毎試合ごとに変更する左サイドハーフの選手たちとの連携が上手くいかず、それにつられるように、中央及び右サイドの選手との連携がとんでもないレベルで落ちてしまう。その結果、2011年に14位に残留する原動力となった左サイドからの攻撃がおかしくなっていく。正確に言うと、崩すことは出来ても、その後のつめや失敗した際のフォローなどがごっついレベルで下がってしまい、新潟の得点力が急降下していく。

さらに、矢野選手が走り回って埋めまくる右サイドの穴と比べ、左サイドは試合のたびごとにメンバーがくるくると入れ替える黒崎氏のスタイルと決定的に相性が悪く、結局、開幕から3ヶ月たっても穴がふさがらず、試合を経るごとに相手チームに研究され、攻撃されることになる。

で、そんなときに限ってドイツで酒井ゴートク選手の☆大☆活☆躍☆が報じられるってんだから、あーた。サイドバックとして後半戦出ずっぱりの上、チームの躍進に貢献しまくりってあーた。

泣きたくなりますがな

とりあえず、2010年の躍進のときのように、本来右にいるはずなのに当然のように左サイドまでフォローに走ったマルシオ選手、そのマルシオ選手の穴を埋めた矢野選手のようなスーパースター+汗っかきの、バックアップに関する連携も遠い昔。そのため、前線からの守備に追われる選手が続出することになり、攻撃では常に人手が足らず、ボールを持たされて囲まれて奪取されるシーンが続出。結局、半年もたたない選手と息の合ったコンビネーションというのは無理なわけで、主に選手間の連携の部分でちょっとばかり、黒崎監督のスタイルと新規加入選手の多さが裏目に出てしまう。

けれど、開幕から2ヶ月ぐらいならまだしも、3ヶ月も続いてなおかつ改善されるようなキザシが見えないとさすがにそれはまずいって話になる。

しかし、こういった場合に際して左サイドへの緊急的な補強がなされなかったことが、或る意味、最悪の悲劇であり、最終的に黒崎監督の辞任につながる導火線だった、かもしれない。

第三の悲劇[編集]

レギュラー間でのコンビネーションがまずい。ボールの受け渡しがちとまずい。そういった問題が出てきた場合の対策として、メンバーの固定化や明確なチーム方針といったもの、いわゆるチーム運営の背骨に当たる部分があれば修正は早いのだけれども、黒崎監督のもう一つのスタイルである選手のコンディション優先という指導態勢もまた、チームの悪化を招くことになるのだから2012年は悲しい。

さらに、昨年度チームの指導方針を一手に引き受けていた森保ヘッドコーチが広島の監督として、最終的にJ1を優勝したことがさらに重くのしかかる。

2010年にチームが躍進する原動力となった有望な若手が成長も、弊害として代表戦での引っこ抜きを呼び込んでしまった上、少しでもコンディションの悪化が見られれば試合に出さないというスタイルは、チーム全体の方針がいつまでも明確にならない中、少しでも選手間の連携を高めたいというときには厳しいものであった。

そのため、選手間の連携が拙いままリーグ前半戦の段階でアルビレックスの弱点は各チームに徹底され、周知され、そーだよねー、そーくるよねー。という話がそこかしこに見られるようになる。そらそうだ。見てれば分かる弱点なんだから。特に、ブルーノ・ロペス選手とミシェウ選手への対応は、すべてのチームがまるで同じ形でやってきて、それに対して何も変化を見せられないあるびれーっくすという無様な姿を繰り返し新潟ファンに見せ付けてしまう。

しかも、昨年度のように敗北も若手の成長と割り切るには試してないメンバーが多すぎて、人材でとっかえひっかえして穴を塞ごうとすればするほど、連携が悪くなっていく。これは、どこの世界にでも、どこのサッカーのチームでも人数を増やしすぎた際によくある話である。

そのため、チームの方針、監督の方針として、勝利した後ですらチームのメンバーを入れ替えざるをえず、その結果、チームがようやく向上するかという兆しがあった中での敗北という、2倍痛い敗北を喫することで、さらにチーム全体の状況が悪化。最終的に、どん底にまで落ちたアルビレックスは、ジュビロ磐田によって、ホームであるビッグスワンに30000人もの観客を集めた中、しかもスポンサーである亀田製菓のサンクスデーにおいて、1-6で敗北してしまう。

これは、新潟県民にとっての悲劇でもあり、とってつもない大きな経験でもあった。

第四の悲劇[編集]

これは、悲劇ではないかもしれない。

2012年5月21日、黒崎氏は株式会社アルビレックス新潟に対して、成績の低迷を理由に辞表を提出する。その後、アルビレックス新潟はユースチーム監督である上野展裕氏が代行を勤めることになる。

新潟にぽっかりと空いた穴は、最終的に黒崎氏に引導を渡したジュビロ磐田の元監督である柳下正明氏の就任である程度ふさがれることになり、最終的に、2012年12月1日、Jリーグの最終節で歴史に残る大逆転での残留を引き起こすことになる。けれどもそれは、黒崎氏の指導方法及び試合運びの穴を明確にしてしまうということにもなる。モチベーターである氏の元では若手が急成長する利点があっても、戦術の引き出しの少なさ、特に攻撃面に関する思想の拙さが指導暦の短さという部分で如実で現れてしまう。

これは柳下監督が、就任から3ヶ月で左サイドのキム・ジンス選手の積極性を新しい新潟の攻撃スタイルとして戦術に組み込んだことと対照的である。個人の実力アップも重要であるけれど、チーム力の充実のほうが試合を落とさなくなることの証左でもある。最終的に、2012年のアルビレックスは、リーグワースト2位の得点とリーグ2位の失点の少なさから、引き分けの多さと1-0で勝利した試合の多さでギリギリの残留を果たすことになる。黒崎監督時代、2勝7敗3引き分けで勝ち点9だったチームが、半年後に10勝14敗10引き分けによる勝ち点40にまで持ち直している。

なお、2012年のアルビレックスはシーズン中、2点以上取った試合が4試合しかなかったという異常なチームであったことも考慮しなければいけない。けれども、皮肉なことに、明らかに新潟のディフェンス陣の個々の能力を鍛えたのは、黒崎氏の指導スタイルおよび、そうしなければ試合に勝てない、J1に残留できないというディフェンス陣およびチーム全体が危機感の中で一つにまとまったためでもある。とりあえず、非力なチームが一つになるだけの底力がアルビレックスにはあった。これは黒崎氏がアルビに残した大きな財産である。

監督としての特色その1[編集]

監督としての黒崎氏の手腕について説明すると、前述のように、主に若手選手の育成に長け、才能をつぶすような指導を忌避する傾向が強い。具体的に言うと、ガンバ大阪遠藤保仁選手のように、代表戦でもリーグ戦でもカップ戦においてすら目いっぱい使うような選手の起用を避ける傾向がある。

遠藤選手はその起用に見事答え、リーグを代表する選手として名を馳せたけれど、逆にそのハードワークと同じ道をたどった若手選手が何人もつぶれており、実際、黒崎監督自身、1995年に日本代表として10試合に出場し、リーグ戦でも39試合に出場というハードワークの中、翌1996年に初めてリーグ戦で10ゴール以下というスランプに陥った経験がある。そのため、若手選手などが代表戦で試合をした後、ベンチ入りすらさせないなんてことは新潟では常識。その結果、けっこーな試合を落としたにも関わらず、残留ぎりぎりまで追い詰められてもその姿勢を変えはしなかった。

心から叫びたくなるけれど、選手の育成と信頼の形成という点では正しい。酒井ゴートク選手のように、21歳の若さで日本を代表するサイドバックを育てたという話では正しい。

逆に、怪我明けの選手については、コンディションが戻る戻らない以前に、試合で実戦感覚を取り戻させる傾向が強い。これは、確実に選手の信頼を得ることは出来るものの、確実に監督が試合をコントロールしきれなくなる危険性も高くなる。つまり、監督が自分の意思でリスクを飲むという行為は、往々にしてそれが失敗した際に引き返すことが難しいという話である。

その結果、無理な起用でダメだったとあれば中心選手からの信頼を削るようなことになりチームの基盤が揺らいでいくのだけれど、試合の中で一定の割合で仕事をさせたと感じさせたら、それは信頼へつながる。また、明らかに動きが悪くても頑固に変えずに使い続けることで、チームとしての連携をより深めることも可能ではある。

まぁ、ぶっちゃければ出場給ってのも大きいし。

監督としての特色その2[編集]

黒崎氏の逆の形で選手を起用するなんて話でいうなら、またまたどこぞのガンバ大阪での話になる。元新潟のペドロ・ジュニオール選手が監督である西野朗氏の起用法(交代選手として入れた後、パフォーマンスが悪いという理由でさらに交代)に意義を唱え、それに対して早野氏も彼をとことん試合から干して最終的にレンタル移籍なんていう騒動が、彼が新潟から移籍した翌年に勃発。そんな騒動の中で、選手も動揺。ガンバ大阪ですら徐々にチームとしての総合力を落としていったなんて話がある。それぐらい、チームの中に不和が広がることは恐ろしい。中心選手でなく控えだったペドロ選手ですらこんな悪影響を及ぼすことは、大変に怖い話である。ただし、西野監督の決断は多くの選手、ファン、フロントに支持され、多少揺らいでもガンバ大阪の基盤は磐石、強豪の名を維持していった。

のに対し、アルビレックスは逆に中心選手の信頼は得ても成績のほうがガッタガタ。けれど、そのおかげで過去の外国人選手所属選手からの信頼が異常に篤いのが新潟てえチームの特色でもある。むしろ、にいがたという地域の特色に見えなくもない。そのため、試合に負けてもさほど問題ではなかったところが、実は一番の問題だった。

実際、勝利か、それとも信頼か。という話であれば、確実に勝利を取るべきである。勝てないと、ファンとチームとの信頼関係を損ねるのだから。のだけれど、逆に選手の信頼を失い続けると、勝てるものも勝てなくなっていくのが世の中の困ったところである。その結果、後者を選んだ、選び続けたにいがたのファンは、最盛期に4万人を数えたにも関わらず、2012年には2万人台に激減。チーム運営にまで支障をきたす段階まで動員が落ちてしまった。

なお、黒崎監督の下で勝利と引き換えに出場した選手として、2010年のマルシオ選手、2011年のチョ・ヨンチョル選手が挙げられる。両名とも、明らかに怪我明けでコンディションが整わない中で試合に出され続けている。その結果、2010年のマルシオ選手は見事、復調。最終的に2010年のベストプレイヤーに選ばれる活躍を見せたものの、2011年のヨンチョル選手はチーム状況とともに状態も下降。リーグ序盤にチームを躍進させたコンディションは最後まで戻ることはなかった。

また、同じことは2012年のブルーノ・ロペス選手にも言え、毎試合使われ続け、なんとか監督の信頼に答えようとチーム状態を改善しようと孤軍奮闘し続けるものの、その起用の結果、孤立無援のような状況に陥る。事実、チームの状況悪化、雰囲気悪化の余波をモロにあびることにつながっている。そのため、残留圏内でチームがあがく中、ブルーノ選手の精神的なパフォーマンスもガタガタになりかけている。

んが、そういった点を頑固に押し通して築いてきた信頼と監督としての指導方法、およびにいがたとして築き上げてきた歴史だってところが一番困った話である。成功は、次の失敗を防ぐわけではない。むしろ、一番失敗を少なくしようと対処しなければならないとき、それまで成功がいかに邪魔になるかという話にもつながっている。

選手達の信頼を、勝利のために切らないといけないことは、勝負ではよくある話である。

世の中は皮肉だ[編集]

などという話を書いた半年後、チームの勝利優先を信条にしていたはずのガンバ大阪がJ2へ降格。これは、西野監督というカリスマを失った結果、勝利にこだわりすぎたせいで選手と監督とチームとファンの心がばらばら。まったくもってアルビと正反対の崩壊の道をたどったためである。確かに、勝利のために点を取るスタイルがガンバの持ち味であったのだけれど、僅差で負け続けた後に大量得点で勝つというアンバランスすぎる試合運びを繰り返した結果、無駄に多い得点が、ガンバの攻撃方法を他のチームに知らしめることを理解しなかった。

そのため、防御が整っているチーム相手にはことごとく零封を食らってしまい、最終的に言い訳すらできない17位という順位で降格してしまう。アルビレックスが黒崎氏の撒いた種で残留したのに対し、ガンバ大阪は西野氏が刈り取った後で降格する。世の中は本当に皮肉である。

戦術的な特色[編集]

黒崎監督の最大の弱点といえるのは、主に試合運びに関する引き出しの少なさである。

特にフォーメーションに関する引き出しが少なく、主に4-4-2というオーソドックスなスタイルを使用するのが常であった。これは監督としての指導方針が、新潟のチームスタイルであるショートカウンターを中心とした選手同士の感覚に沿った攻撃、言い換えればチームとして攻撃時のポジショニングやエースストライカーを中心とした攻撃の組み立てという概念を排除した攻撃であったため、その分、選手のポジションをいじくって相手の弱点を突くといった攻撃やら練習が苦手であった。

もしくは、新潟の守備力を生かした戦い方という見方もできるけれど、ごくごく稀に中心選手の怪我や新規加入選手の使いどころの模索などでそれ以外のフォーメーションを試すことはあっても、対戦相手の弱点をつく形でスターティングメンバーを戦術に合わせるようなことはほぼなかった。

そのため、相手チームがアルビ攻撃陣への対応を完璧に取り揃えていたり、さらには不意のレッドカードで選手が1人少なくなった場合、監督の指導力で、たとえば3バックにして防御を薄くしてでも点を取りに行ったり、さらには失点を抑えてのカウンター狙いを明確にするため、0トップにしたりするような緊急事態への対応が弱かった。

まぁ、選手たちを型にはめないという点では育成に適した環境だった。

けれど、それだと破綻することも確かなわけで。実際、2012年5月19日の対ジュビロ磐田戦では、前半終了間際、キム・ジンス選手が2枚目のイエローカードで退場してから、後半に4-4-1にフォーメーションを変更した後で、アルビレックスの守備意識が崩壊。どう守備をしていいかわからなくなった。これは、前半途中でディフェンスラインを統括していた内田潤選手が怪我で退いたことも大きいのだけれど、それにしてもあそこまでひどくなるというのは、やはり監督としての引きだしの少なさが影響した。

なんせ、シーズンで34失点した中の、6失点をこの試合で食らったわけだから。

結果、後半だけで十分猖獗を極めるがごとき悲惨な状況に陥ったのは、こういった緊急事態での対応をチームとして設定してなかったのか、もしくは設定し忘れていたためか。なんにせよ、黒崎監督の非は免れない話である。

こういった話の正反対の話をするなら、アルベルト・ザッケローニ日本代表監督による日本代表のフォーメーションの話が出てくる。彼は、日本がもっとも得意とする4-2-3-1ではなく、代表戦で何度も3-4-3のフォーメーションを試している。そのたびごとに前線での連携がつながらず、日本よりも弱いチームに苦戦するような話が何度も出ているにも関わらず、ザッケローニ監督がこのフォーメーションを使い続けるのは、いざというときのために3バックに対応できるよう、チームに経験を積ませているためである。実際、2011年に行われたアジアカップのカタール戦で、1人少ない状況でもチームとして機能したのは、そういった積み重ねがあったためである。

こういう話は、さすがに選手との話し合いで出来るものではなく、監督の指導の下で明確な意思統一をもってして、有事に備えなければいけない話である。残念ながら、黒崎氏はそういう点で弱かった。けれど、彼の選手育成に関する手腕は、けして間違ってはいない。それは確かである。

その後[編集]

2012年5月21日に、アルビレックス新潟の監督を辞任した黒崎氏は、その後、地元である栃木県鹿沼市に戻り、主に中学生を対象としたサッカースクールを開催しつつ、解説者としての活動を行っている。

そして翌2013年2月1日、大宮アルディージャの地域プロデュース部のインストラクターに就任することになる。これは、アルディージャの地元である大宮市でのサッカースクールを中心とした広報活動を目的とする部署であり、若手の育成に長けた黒崎氏はまさにうってつけの職場といえる。

もちろん、若手の人材の宝庫であるアルビレックス新潟や古豪鹿島アントラーズに対する強力なカードという側面もあり、氏の人脈がいずれ各チームの選手獲得に生かされる可能性もある。むしろ、そっちが主じゃないかという気もしなくはない。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]