DQN四天王

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

DQN四天王(どきゅんしてんのう)とは、戦国時代で暴れ回った森長可伊達政宗細川忠興島津忠恒の総称である。

戦国時代と言うと、時代の背景が関係して現代では考えられないような行動を起こす人物が多くいる。歴史に詳しくない人でも、織田信長が父親の遺影に灰を投げつけたというDQNじみた話なら、小学校もしくは中学校で聞いた事があるだろう。

戦国時代の逸話はそのような話が数多くあり、紐解いてみれば織田信長などただの小物にしか見えない。そんな色濃い逸話の中でも、前述した彼らが残した逸話はあまりにも気違いじみており、時の将軍徳川秀忠すら唖然とさせた。

狂気じみた、もしくはDQNじみた話が出てくると彼らのうち誰かの名前が出てくるようになり、更に彼らの逸話が出てくるにつれ彼ら四人の名前が並ぶ事が多くなり、自然とDQN四天王という名がつけられたのだ。

目次

[編集] 紹介

伊達政宗
四人の中でも比較的有名であり、大河で取り上げられたり戦国ゲームに出場している。
だがしかし、彼が東北の広範囲を支配下においたという偉業(奥州王だの統一だの平気で主張するが、実際は相馬・最上・南部・津軽ら多くの家が存続している)の裏側に潜むDQNな行動は露呈していない。
悪いことは皆母の虐待のせい、母方の残虐非道な血のせいと言い訳することが多いが、その母・義姫は実は息子のDQNぶりに愛想尽かして家出した説も最近出てきてマジパネェッス。
偉業の裏側に潜むDQNな行動を一部紹介すると、朝鮮出兵の際に後述した細川忠興と国宝級の書物を文字通り半分に破り分けたり、名物と言われる他人の所持する茶器を本人の前で叩き割ったり、伊達家の家宝とも言われる茶器を見ていて手を滑らせた際に、「茶器のくせにこの自分を驚かせた」とむちゃくちゃな因縁付けをして地面に叩きつけた、等がある。
将軍家主催のエクストリーム・御伽衆をたびたび仮病でズル休みしたため、その場合は息子の伊達忠宗が代理で出席した。
細川忠興
さまざまな逸話の落ちを担当したり、利休七哲に数えられるなど文化人らしい一面がありながらも、妻である細川玉/ガラシャの事になると、所謂ヤンデレと化する。
しかしそれ以外の面では意外にもまともな人間であるため、DQN四天王唯一の常識人とも言われている。
逸話の一部を紹介すると、些細な失敗をした部下を妻が庇うと、「俺以外の男を庇った!」とぶちキレてその男を殺し、挙句その首を妻に投げつけたり、生涯で自分が手討ちした人数(36人)に36歌仙をかけ、脇差に「歌仙・兼定」と名付けたり、大切にしていた松の枝を誤って切り落としてしまった庭師をその場で叩き切り、また何事もなかったかのように食事に戻った、等がある。また、身内に切腹を命じたり妹婿を殺害して妹の恨みを買ったこともある。
将軍家主催のエクストリーム・御伽衆をガラシャの法要と称してたびたび欠席したため、その場合は息子の細川忠利が代理で出席した。
森長可
早くに死んでしまったことを悔やまれる、別名鬼武蔵。
逸話が出てくるたびに人間、或いは何かしらの動物が犠牲になる上に、自身のそうした所業に終生後悔や自責の念を一切持たない潔さが魅力である。
各務兵庫と居れば本物の鬼をも寄せ付けないほどの恐ろしさである。逸話はどれも似たり寄ったりの内容ではあるが、初陣の際に一人で一揆衆に突撃し二十数人を討ち取ったり、ある戦で城に攻め込んだ際は屋根に登って室内へ発砲したり、また、関所(橋)で自分を止めた役人を槍で突き殺したり、更には関所に放火した、等がある。
関所や橋で役人を殺した際、部下は後片付けをしたのだが、「そのような心遣いは不要だ」ときっぱり言い放った。
将軍家主催のエクストリーム・御伽衆には当然出席は出来ないので、代打として弟の森忠政が出席し兄のDQNぶりを余すところなく伝えた。
島津忠恒(家久)
馬鹿息子の忠恒とは彼のこと。後年、島津家久と改名したため「DQNな方の家久」「悪い家久」などと呼ばれる事も。逸話の陰湿さでは群を抜く。
不意打ち・騙まし討ち・嫁いびりに勘当未遂事件と、やる事が鬼島津の息子とは思えないほどに卑怯・間抜けな事ばかりであり、そういった意味で注目を浴びた。彼の逸話はどれも陰湿さが滲み出しており、全ての実権を握っていた伯父が死ぬと同時に妻を城から追い出して金銭面で圧迫、更に当てつけの様に側室を囲み子を産ませたり、毎晩酒を飲み蹴鞠をしていたおかげで兵が逃げ出し、汚名が他国の歴史書に残されたり、伯父が「この門が古くとも、民の姿を見れば教養の高い使者はただの貧乏ではないことをわかるだろう」と言って立て直さなかった門を即刻立て直し重税を課した、等がある。
そう、他の三人が狂っているのに対してこの男は『人として腐りきっている』とでも言うべきなのかも知れない。
父があまりにも完璧だったために、この馬鹿息子が生まれてしまったことが悔やまれる。
不真面目な印象を受けがちだが、将軍家主催のエクストリーム・御伽衆には森忠政と共に皆勤賞であったりと、変なところでマメである。

[編集] エクストリーム・御伽衆と4家の関係

エクストリーム・御伽衆のルールはとても簡単。聞き手の反応が上図なら天国、下なら地獄行き。

この四家が注目を集めていたのは何も現代になってからだけではない。江戸時代初期の2代将軍徳川秀忠が創設したエクストリームスポーツ、エクストリーム・御伽衆において、既にこの四家は当時から強豪として着目を浴びていたのである。

まず、このエクストリームスポーツの成り立ちを説明すると、1605年より将軍となっていた秀忠には御伽衆と呼ばれる全国の諸大名から選ばれた数人が政治や軍事の相談役、世間話などの相手となっていたが、彼らは自分の武辺話を語る事も大好きであり、最初は感心して聞いていた秀忠であったが「○万人を数千人で打ち破って~」「ワシの槍が敵を突いて~」など似たり寄ったりの話ばかりであり、いつしか話を聞くのも嫌な状態になっていた。

そんな状態を打破する為に開発されたスポーツがエクストリーム・御伽衆である。面白い話が聞かせられたならば褒美は思いのまま・・・そう前置きする事によって老人達の退屈な昔話を減らすと同時に、褒美に釣られてこのスポーツに参加してつまらない話をした木っ端大名どもの領地を召し上げて天領化してしまおうという将軍家にとってまさに一石二鳥の競技であった。

早速、この餌に釣られた全国の御伽衆の大名達が面白いと思われる逸話を持ち寄ってやってくるが目的は体よく改易を食らわす事に有るので次々と1~5万石程度の小大名達が加増を夢見て秀忠の前に現れては、次々と改易を食らわされていったのである。

しかしながら意に反して面白い逸話を持って来る大人物も一部には居たのである。その中でも選りすぐりの最強の四人が伊達政宗、細川忠興、森長可(代理で忠政)、島津忠恒であった。彼らの話はとても面白く彼らのDQN逸話の前に秀忠の腹筋はバッタのように6つに割れる程にであったという。

いつしか秀忠と家光親子は思い始めていた・・・「この4家のうちで最強を決めるべきではないのか・・・?」と。

[編集] 四天王家集合

続々と江戸城へと登城する4家の代表選手たち

ついに1631年に伊達家、細川家、森家、島津家の4家を集めたエクストリーム・御伽衆頂上決戦が行われる事になったが、いい加減高齢な政宗・忠興は代役が出席する事も少なくなかった。4家は8度ほど合間見えたが遂に決着が着く事は無かったという。

優劣が付けられなかったので伊達家には「松平姓を名乗る権利」、細川家には「熊本54万石に加増」、森家には「徳川家養女を嫁がせて一門に入る権利」、島津家には「正室を抜きで好きなだけ側室を囲ってもいい権利」がそれぞれ褒美として与えられた。

秀忠死後も家光が彼らの順位を決めるべく大会を度々開こうとしていたが、1634年に森忠政、1636年に伊達政宗、1638年に島津忠恒が相次いで亡くなった為、四家頂上決戦はついに決着が着く事は無かった。

また、エクストリーム・御伽衆においての巨頭が相次いで斃れた為にこのエクストリームスポーツそのものも衰退し、1658年に戦国の長老真田信之が死んだ事によりついに閉会宣言が成された。

今現在、DQN四天王が不思議な因果で300年以上の時を経て再びクローズアップされ「一番の小物は○○」「やはりスケールなら○○」などと議論が起こっているがこれも未だに決着が着く気配は無い。と言うか誰も付けようとしていない。

[編集] エクストリーム・御伽衆で地獄を見た大名

福島正則
自称「五人目の四天王」。猛将で知られる男だが、五人目の四天王を名乗るわりに話す逸話が小物臭いものばかりだった為に将軍家の怒りを買い、改易されてしまう。エクストリーム・御伽衆は遊びではない。気に召さなければ改易も有り得る生きるか死ぬか、まさに家の命運を掛けて語らなければならないのである。
里見忠義
安房里見家当主。里見家秘伝の八犬士の伝説を語るが「犬にそんな事できる訳無いじゃん。馬鹿にしてるの?」と一蹴され、後日改易が言い渡される。『南総里見八犬伝』が流行するのはこの200年後であった。時代に泣かされたと言えよう。
最上義俊
DQN四天王・政宗最大の被害者でもあった最上義光の孫。東北の逸話において伊達家の次に逸話の多い最上家の面白い逸話を期待されるが、領内統治の愚痴ばかりを喋りこれがきっかけで当主としての資質そのものを疑われる。例によって後年改易。
本多正純
本多正信の子。正信から聞いた「家康の尻から焼きミソ」「家康が団子屋のババアと鬼ごっこ」などの逸話を語るが「父を馬鹿にしている」と秀忠は激怒し、色々言いがかりを付けて正純を改易する。エクストリーム・御伽衆の改易対象からは譜代大名であっても逃れ得ない事の証明である。
朝倉宣正
朝倉家一族。朝倉家に仕えていた伝説のキチガイ、富田長繁の逸話を聞かせるが「流石に引くわ・・・」「そんな精神病患者を普通に雇うような家は改易しないとね(´・ω・`)」という流れで改易。凄い話ではあったが引かせてしまっては元も子もないのである。

他、木っ端大名多数が甘い罠に釣られて消えて、その領地は天領にされたり別の大名の加増分に当てられた。

[編集] エクストリーム・御伽衆で成功した大名

立花宗茂
立花道雪の養子。関ヶ原後、改易されて5000石の旗本にまで身を落としていたが酒を飲ませると「天下一の臆病者」とまで言われた旧主、大友義統のヘタレ逸話などを語りだしこれがとても面白く将軍家に気に入られ御伽衆に取り立てられる。後年、11万石まで石高を復活させる。
丹羽長重
丹羽長秀の息子。関ヶ原後、改易されてお情けの1万石に押し込められていたが「手軽なお部屋のリフォーム法」などのお役立ち逸話を聞かせ、その建築知識は将軍家を深く感心させ御伽衆に取り立てられる。後年、10万石まで加増を受ける。
浅野長晟
浅野長政の次男。豊臣政権に近かった浅野家の者として「寝室一杯に膨れ上がる秀吉」「地震にビビって嫁の部屋に逃げ込み泣く秀吉」など秀吉関係の逸話の数々で将軍家の心を掴み広島42万石まで加増される。
藤堂高虎
THE・主君替え。とっておきの一発ネタ、「出世の白餅」を聞くも涙・語るも涙の大巨編に水増しして語り、話し終わる頃には秀忠の顔は涙と鼻水でグチャグチャであったという。これで薄情者のイメージを払拭し津32万石加蔵への足がかりを作った。

厳しい審査眼を満足させた成功者は極一握りであった。こういった意味でもエクストリーム・御伽衆による将軍家の権力強化はまんまと成功したと言えよう。

[編集] 外部リンク

四天王以外の逸話も楽しめる。