なぜ何もないのではなく、何かがあるのか

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なぜ何もないのではなく、何かがあるのか(-なに-なに-、英語: Why is there something rather than nothing?)とは、哲学者という一種の暇人が考えたとんちである。

概要[編集]

論争の様子。そんなことを考えるよりまず服を着ろ。

人間とは得てして暇になると余計な事を考える生き物であり、古今東西それが変わる事は無く、かのアリストテレスの時代には既に何の役にも立たぬ思考実験を繰り返す哲学者と呼ばれるごくつぶしがいた。紀元前より似たような事を考えて暇を潰していた者たちは大勢存在したが、17世紀になってから話を蒸し返したのがドイツゴットフリート・ライプニッツである。古代ギリシャの時代にパルメニデスが一種の存在論的な事を考えだしたのがそもそもの話であるが、そのような話題イエス・キリストの生誕から1600年も経過してから蒸し返すなどよほどの暇人である、他に話題が無かったのであろう。

ライプニッツが余計な事を詮索したがために他の暇人たちが続々と名乗りを上げ、カントだのベルクソンだのと言葉をやたら無闇にこねくり回す事に長けた者たちが集まった。全員でお互いを煽り、否定し、揚げ足をとったが何の解決にもならなかった。そのような状態を見かねてラッセルが「あるならあるんだよ、もういいだろ」と空気の読めない発言をしたが速やかにスルーされた

「何も無い」ということ[編集]

かつて無かった問題も誰かが考える事により生まれる。

そこに何も無いという事は大よそ『完全な無』というものである。が、『完全な無』が『そこにある』ので『完全な無』とは「何も無い」という事では無い。本当に何も無いという事は人類が未だかつて想像もしていない何かであり、想像した時点でその事象は『空想としてそこに存在する』という状態にあり、「何かがある」という状態にある。要するに「何も無い」を見つける事は不可能であり、つまり考えるだけ無駄である。考えるだけ「何も無い」が減るのだから考えない状態こそが「何も無い」に限りなく近い状態である。近いだけであって光が闇を見ようとするようなもので到達するのは叶わぬ夢なのだが。

「無」について研究し、いくつもの著書を残した哲学者エクスデスも、自分が考えていた「完全な無」は、実は「自分の未知の、存在する何か」でしかないことに気づいた。「無」が大好きなエクスデスはそのことに気づいて絶望し、「無とは一体……うごごご!」という断末魔を残して自殺した。自殺すれば無になれると考えていたのだが、異次元の世界でネオエクスデスとして転生、「死」さえも「無」になり得ないことを、皮肉にも我が身を以て証明した。

「何かがある」ということ[編集]

逆に『完全な無』が『そこにある』という前提が覆らぬ限り、そこには常に何かがある。例えばオレンジジュースの入ったペットボトルが机の上にあるとする、この状態だとそのまま「オレンジジュースの入ったペットボトルが机の上にある」という状態である。さて、このオレンジジュースを全て飲み干し、ペットボトルをゴミ箱に捨てる。そうすると机の上にはペットボトルが無い。ではこれは何も無いのではないか、と言えばそうではなく「オレンジジュースの入ったペットボトルが机の上にあった」という事実が残る。他にも色々なものが残るのだが、要するに何らかの概念が発生した時点でそれは永遠にオンの状態であり、何も無いというオフの状態に戻る事は無い。

問題の解決策[編集]

考えないことこそが究極の解決策である。これはすなわち仏教的用語で表すところの涅槃であり、全てを悟ったニルヴァーナの境地こそが哲学者が追い求めるべき答えである。身心都滅の境地に達する事により無を理解、そして己自身も無に帰す事によって答えの一部となる事が可能となる。つまり哲学者たちは全員仏門を叩き、虚無主義者の道を歩むべきである。

関連項目[編集]