アルフレッド・ジャリ

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アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry, 1873年9月8日 - 1907年11月1日)はフランスに誕生した不条理の悪魔である。

生涯[編集]

誕生

『眠るジプシー女』などの作者であり、素朴派の代表として知られるアンリ・ルソーがまだ画家を本業としていなかったころ、彼の生地であるフランスのラヴァルにて、不気味な赤ん坊が産み落とされた。とりあげたばかりの赤子を見た産婆は、「元気な男の子ですよ」と言う前に気を失った。このアルフレッドは生まれながらにして体中が毛むくじゃらで、顔にはが生えていたのである。赤子は最初から一人で立って歩き、一切の補助を必要とせず、おびえる母親を見てせせら笑った。彼はぐんぐん成長し、母親が用意した服がすぐに合わなくなり、初等学校入学記念に買ってやった半ズボンも瞬く間に破けてしまった。仕方なしに長ズボンを早めに与えることにしたが、仕立ててもらったズボンは彼の体に合わなかった。ベルトの下で何かが不恰好な大きいしわを作っていた。寸法を直しに来た仕立て屋は当惑しつつ「右寄りですね」という謎めいた言葉を漏らした。そのときアルフレッドに「右と左」以外に「上向き」という方向があったのだった。彼はとてつもなく早く育っていた。そして彼が中学に上がるころになると、毎日のように膨大な量の書物を、全く睡眠をとることなく読みふける息子に母親は耐えかねてノイローゼとなり、その療養のためにサン=ブリュー、レンヌ、パリなど各地に移り住んだが、アルフレッドももれなくついてきたため、よい効果が望めるどころかむしろ悪化する一方であった。

自転車大好き、だってフランス人だもの

彼はずば抜けて知能が高く、引越し先の学校では常に主席で、全ての科目において褒賞を与えられた。中等中学終了時の国家試験バカロレアに正規の年齢に達していないにもかかわらず当然のように合格、大学に入学して以後は再び眠ることを忘れて読書する日々が続き、それに加えて多くのスポーツに熱中し、全てにおいて人間とは思えぬ記録を残した。ことに自転車にかける情熱はすさまじいものであった。あるとき彼は仲間と共に永久運動食を摂取し、急行列車に自転車で戦いを挑み、結果彼らのチームが勝利した。しかしこの競争で、チームのうちで終始トップだったジュウェイ・ジェイコブズが自転車に乗ったまま亡くなり、やむなくアルフレッドは大学を去った。

その後何年もしないうちに、パリに奇怪な男が出現した。彼はあちこちのカフェに立ち寄っては、人々に次から次へと不思議な話をして煙に巻いては愉快そうに笑い、しこたまを飲んで去っていくのだった。彼はさまざまな分野に深く通じ、一度などは陸軍の仕官に向かって軍事批判を長々と語ったところ、その論は正確な知識に裏付けられ、全く非の打ちどころがなかったために、言い返せるものが誰もおらず、黙って聞いているしかなかった、ということがある。博学にしてミステリアスなこの男の名はアルフレッド・ジャリ、23歳にして戯曲『ユビュ親爺』を発表し、その超現実主義的な表現で当時の保守的なパリジャンやパリジェンヌの肝をつぶした才能あふれる劇作家であった。しかし彼の強烈な個性はそのようなところにとどまらなかった。

20歳半ばの肖像

彼に魅了されて集まり、彼の友人となった者の一人、ギヨーム・アポリネールによると、ジャリはピストルが大好きで、いつも持ち歩いていたという。そしてそれを用いて独特のユーモアを発揮した。例えば、

  • 彼が友人と歩いているとき、道を尋ねる者がいた。ジャリはそのピストルを相手に突きつけ、「6歩下がれ!」と命令、相手がそれに従うと丁寧に道を教えたという。
  • あるときジャリがピストルをぶっ放してワインのコルクをはじきとばして開けて遊んでいると、弾がそれて危うく隣家の子を殺しかけた。当然ながらその親が怒って彼を怒鳴りつけるも、彼は平然として、「気にすることはありませんよ奥さん。その子が死んでも僕とまた別の子供を作ればいいじゃありませんか。」と言ってのけた。

また、アポリネールはジャリの部屋についても書き残している。アパート門番に「彼は三階半に住んでいる」と言われて不思議に思いつつ実際に行ってみると、家主が部屋数をなるべく多くしようと、苦肉の策で一つの階を上下二段に仕切っていたのだった。背を伸ばすと頭がつかえてしまうその狭い部屋の中で、ジャリは足を短くしたベッドの上に腹ばいになって詩を作っていた。本棚には子供の絵本が2、3冊あるのみだった。その他の家具も全て標準よりはるかに小さく、部屋全体が縮図のようであった。マントルピースには日本製の大きな男根の置物が据えてあり、ジャリのお気に入りであった。彼は客の女性に得意げにこれを見せ、「あくまでこれは縮図ですから。」と言っていたという。

ジャリの一日の飲酒量はものすごかった。と言うより、アルコール以外のものを口にすることが極めてまれであった。女友達のラシルド夫人によると、彼の一日は二リットルのワインに始まり、アブサンバタイユの記述するところによると体の痺れと幻覚作用を伴う危険な酒である)を従事から正午の間に三度に分け摂取、昼食には魚か肉とあわせて赤か白のワインとアブサンのチャンポン、午後には珈琲にマール酒、および各種の酒を混ぜて数杯やり、夕食にはいやというほどアベリチフを楽しんだ後、三本以上のワインを空けていた。そのうえさらに寝る前にも酒を飲んでおり、しかもこれは酢とアブサンを5対5で入れた上にインクを一滴垂らした彼特製のカクテルであった。これだけ大量に飲んでも彼は決して酔わず、あるとき夫人が彼の意識を確かめようと、彼愛用のピストルをふざけてその額に向けたところ、たちまちジャリはくわっと目を見開き、ピストルをひったくったという。「彼はまるで機械でした」と夫人は後に述べている。

彼は賭け事が好きで、かつ精力絶倫であった。1902年にアメリカのエルソン博士の「24時間で何回できるか」という課題に挑み、博士の娘を相手に、医者の監視の下、82回という偉業を成し遂げた。このまさに超男性と言うべき男は、実験終了後、「あなたは誰です、人間ですか?」と言う賛辞をもって迎えられた。

あらゆる点で人間を超え、機械のように激しく活動したジャリであったが、酒以外のものをほとんどとらないという極めて特異な食(飲)生活が災いし、ついに体調を崩してしまう。ラヴァルにいる姉を頼り、しばらくするとまたパリへ戻る生活が続いたが、彼はいっこうに回復しなかった。彼は大量の飲酒をやめなかったのである。「アルコールには栄養がある」と信じていたのだった。奇才アルフレッド・ジャリは、いくつかの詩と戯曲を残し、34歳の若さでパリ6区の慈善病院にて看護婦さんを見ながらひっそりと死んだ。彼の体はアルコール中毒による結核性脳髄炎に蝕まれていたが、その男性のシンボルはしっかり天を仰いでいた。彼の思想はその著作にちなみ「形而超学」と名づけられ、彼は先駆的な作家として今日では高く評価されている。

その他の超男性候補[編集]

彼がその記録を破った、または彼の記録に挑戦中の勇者たちを列挙する。

Wikipedia
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