アレクサンドル・スヴォーロフ

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見た目こそ至極一般的な軍人に見えるが…

アレクサンドル・スヴォーロフAlexander Suvorov、1729年~1800年)はロシア帝国の軍人。ロシアが誇る不敗の軍人でロシア帝国を滅ぼして成立したソ連ですらもその功績を認めて「スヴォーロフ勲章」なる制度を作っているが、功績以外の一面がそれ以上に目立ってしまっている。

生涯[編集]

少年期[編集]

1729年、ロシアのモスクワで名門貴族の息子として生まれたスヴォーロフは幼少の頃は病弱で体が弱かったため、家から出ることはなく個人で所有していた図書館の本を読み漁る日々を送っていた。個人と言っても父親が所有していたのだが、その父親がロシアで初めて軍事辞書を作成した人物であるせいか、ジャンルが軍事関係の本ばかりであった。そのためか、10歳になった時から軍人に憧れるようになり、病弱な体に鞭を打って体を鍛え始めるようになった。

そんなスヴォーロフの日常を見ていた父親の友人が父親を説得しスヴォーロフを軍隊へ推薦し、これを知って喜んだスヴォーロフは周りの反対意見を聞くこともなく12歳で軍へ入隊し、その勢いのまま当時戦争真っただ中であったロシア・スウェーデン戦争へ銃歩兵として最前線で従軍していった。この戦争で若さと銃を武器に終戦まで乗り切った彼は17歳で伍長に昇進早い話が兵卒から下士官への昇格。翌年には士官学校へ入学し卒業までの3年間で成績はトップ。数か国の言語を話せるようになっていた。病弱設定はどこに行ったのか

軍人期[編集]

真冬のアルプス越え。しかも補給も防寒も無し。これにはナポレオンもビックリ

士官となったスヴォーロフはやはりその勢いで7年戦争に従軍。味方の撤退を補佐する任務を与えられていたが、何故かその最中に敵の指揮官を捕らえる。更にはその指揮官を奪還しにきた敵軍をそれより何倍も少ない自軍の数で撃退し、おまけに追撃と称して追いかけて味方の軍本隊に合流。一緒になって占領された村や自拠点を開放していった。[1]この功績が評価され、7年戦争が終わるころには大佐にまで昇進。スヴォーロフ27歳の出来事であった。

6年後、ポーランドがバール連盟を立ち上げてロシアとの対立関係を深めるとスヴォーロフはポーランドに進軍。ランツコロナの戦いでは崖の上に立つ城に対して部下に断崖絶壁を登らせて城の側面から攻撃。数千人規模の戦いだったがロシア側は死者0人で勝利。ストロビチの戦いでは敵本隊が集まる前に900人でストロビチを奇襲。既に敵軍が5000人程度集まっていたが捕虜収容所を開放し自部隊に引き込むとこれに混乱した敵軍を各個撃破。死者どころか怪我人8人のみで勝利した。そしてポーランドとの戦争が終わった際には43歳で少将まで昇進していった。

ポーランドへの侵攻と並行して行われた露土戦争ではポーランド戦後即座に前線に派遣され戦争の勝敗の決定打となったコズルドジの戦いで指揮を執り、自軍8000人で相手のオスマン帝国40000人を撃退していった。続く第二次露土戦争においても主要な戦闘において指揮を執り、次々と勝利した。特にリムニクの戦いでは兵差4倍以上のオスマン帝国を相手に奇襲や敵を誘導しての撃破を繰り返し、死者の数がロシア軍600人に対してオスマン帝国の死者が1万人を超える怪奇現象を引き起こした。こうして2度にわたる露土戦争と書くにも値しないポーランドの反乱を勝利へ導いたスヴォーロフは最高司令官の元帥にまで昇進することになった。

元帥期[編集]

1792年にフランス革命を契機とした革命戦争が勃発すると、ヨーロッパ諸国は結託しフランスへ攻撃。ロシアもこれに参加しスヴォーロフはこのうちイタリア前線に送り込まれた。イタリアに向かったスヴォーロフはまずカッサーノ・ダッダの戦いで後のフランスの英雄(ジャン・モロー)に勝利。その2ヶ月後にはトレビアの戦いでフランスの将軍(ジャック・マクドナル)を撃破。翌月にはノーヴィーの戦いでナポレオン自身が指揮官として抜擢したフランスの若き天才(バルテルミー・ジュベール)[2]を指揮官諸共壊滅させた。途中でスイスに派遣されると補給がない状態でフランスの将軍(シャルル・ギュダン)を撃退。ナポレオンを除いたフランス軍オールスターをほぼ一人で打ち負かした。

スヴォーロフ自身は勝ち続けていたものの、国全体として見るとロシアは負けを重ねており、本来なら補給や援軍が来るところ、彼の軍はスイスの山中で孤立し、フランス軍に包囲された。そのためスヴォーロフは防寒のない状態で真冬のアルプス越えを敢行。3分の1の兵士を失ったものの、連合軍と合流した。

アルプス越えの功績から大元帥の地位が授与されるもののこれを最後に58年に及ぶ戦歴から退き1800年に71歳で死去。7つの戦争と60以上の戦闘に参加したが、全ての戦いにおいて負けることはなかった。最後のアルプス越え?あれはそもそも戦闘になる前に逃げてるからノーカン。

日常面[編集]

改めて見返してみよう。よく見りゃ引きつった笑顔が確認できる。これには八甲田山もニッコリ

天は二物を与えずの言葉通りなのか、軍事的な才能は卓越していたが、戦争から離れると途端に問題行動が表面化される。というより、問題しか起こしていない。

  • 朝の4時になると例え真冬であろうと池に飛び込み[3]、それが終われば大声で雄鶏の鳴き真似をして部下の兵士たちをたたき起こす。これが日常の始まりである。またある朝には朝の時点で大量の酒を飲んで酔いつぶれ、どんなに重要な報告や作戦があっても決して起きることはなかった。
  • 進軍中は宿を用意されているのだが豪華な宿を嫌がり質素な宿を好んでいた。その質素な宿であっても部屋に物が置いてあれば見境なく片っ端から破壊し始め、「寒くないもん」と言って窓を取り外し、「怖くないもん」と言ってドアも取り外して就寝する。だから病弱設定はどこに行ったのか
  • 占領した村や町、拠点に医療施設や無料の大衆浴場を建てていたのだが、突然、「私は医者だ!!」と言い出し、勝手に病人・怪我人を見ては全員に等しく「塩分を多く摂りなさい」と診断を出す。
  • 相手が誰であろうと面と向かって文句が言える性格で、上司への不満(しかも子供みたいな悪口)[4]を大っぴらな場所で口に出しては何度か左遷される。そして戦争でロシアが劣勢になると呼び戻されて勝利を重ねると、上司への不満を大っぴらな場所で口に出す。以下その繰り返し。
  • 元帥になった際の戴冠式及び記念パレードでは最初は真面目だったが30分も持ちこたえられず、いろんな物に乗り降りしては奇声を上げ続け、人の集まる場所に移動しては机の上に乗ったかと思えば床で寝転んだりした。
  • 王妃のエカチェリーナ2世の前では借りてきた猫のようにおとなしかった。でもその息子(パーヴェル1世)の前では政策全てにケチをつけた挙句に「バーカ、バーカ。お前の母ちゃんエカチェリーナ2世」と罵倒して元帥を解任させられた。その際、田舎に戻って教会の聖歌隊に入り、一日中歌ってばかりいた…とウィキペディアに書いてあった。
注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。
以上の文章も嘘や出鱈目である可能性が高いです。以下の文章だって嘘や出鱈目である可能性が高いんです。
……と、言いたい所ですが、アンサイクロペディアにあるまじき事態なのだが……彼に限って言えば悲しいことに大体合っているのです。

脚注[編集]

  1. ^ 前半までは明らかに軍の命令違反なのだが、味方本隊に合流したことで帳消しになる豪運。
  2. ^ どれぐらい天才かと言うと、フランス革命の総指揮を任せる予定だったぐらい。ナポレオンは補欠だった。
  3. ^ 現代においてもサウナから出れば湖を泳ぐし、これがロシア人の習慣かもしれない。
  4. ^ たんなる上司ではなく、総司令官(ポチョムキン)だったり国王(パーヴェル1世)だったり。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「アレクサンドル・スヴォーロフ」の項目を執筆しています。
  • 森長可‐日本にかつていた奇人の一人。
  • 小説家になろう‐多分、ここで主人公として書かれていても違和感はない。
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本項は第41回執筆コンテストに出品されました。