イイトモ・ガッテンショウチ

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イイトモ・ガッテンショウチ(IITOMO GATTENSHO-CHI 1960~2007)("イイトモ・ガッテンショーチ"とも。本稿ではイイトモ・ガッテンショウチで統一する) は、ホホエミ・ガッテンショウチとヨーコ・イタガキの間に生まれる。階級は准将。晩年「それでも僕はえらいんです!」という自書伝を執筆。200万部を売り上げるロングベストセラーになったが、同時に米国内のネットで叩かれるなど社会問題になった。ちなみにガッテンショーチの家系は、長年の戦乱や分家に分かれたなどによりほぼ全世界的に散らばるという、さながら流浪の民のような血族である。

記者会見を行うイイトモ・ガッテンショウチ准将

特徴と性格[編集]

彼は好戦的であり、非常に戦を好む。 中央広場を住処として毎日のように敵の戦闘機の爆撃で部下を失わせる。 それはまるでペンギンの群れのように、飛びたくて空を眺める烏合の衆である。 前線では猪のように突撃するが横から攻められるとすぐ戦線が乱れる。 ”負けるはずの無い戦で負ける” 栄枯盛衰が彼に相応しい言葉と言えよう。 彼が万が一勝利したとしても、それは彼の指揮を無視する有能な部下や、前線で敵とイイトモの指揮という二重苦に打ち勝った勇敢な兵士達のおかげである事を忘れてはならない。 また彼は非常にエロスを好み、毎週火曜日に近所のアダルトビデオ店へ行き新作AVをチェックする。 「西川さんになら抱かれてもいい」と公言してはばからない。 西暦2007年10月23日、ネタではなくガチホモであることが判明した。 ちなみに彼が麻薬常習犯であるというのはあまりにも有名な話である。

いいともほいほい(iitomo hoi-hoi)[編集]

イイトモの本体である脳は亀が大好物である。亀の中には脳がよろこぶ餌が沢山ある。 「この亀で見つけた どうだい?」と教えると雑談が始まり最終的には各都市に戦火を増やす。 脳が餌を食べる様子はとても滑稽である。

重き荷を背負った将[編集]

1960年貴族ホホエミ・ガッテンショウチと日本女性のヨーコ・イタガキの間に生まれた。 少年時代は何不自由なくすごし、勉学を極端に嫌い、毎日遊女を引き連れ遊び呆けていることから「ガッテンショウチ家の寄生虫」と呼ばれるようになった。 20歳になると佐官学校に入学し、親のコネで一年で卒業し、中尉の座を預かる。 なお、士官学校時代に鬼軍曹のしごきに耐えかねて、真夜中にトイレで小銃を振り回したあげく、止めに来た鬼軍曹を「フヒヒ!!」と笑いながら撃つという事件を起こしたが、イイトモ本人にとって黒歴史であることは確かだろう。 1989年に行われたソ連進軍で元帥に護衛を最低15人付けてくれといって頭をはたかれたのはあまりにも有名である。

軍の寄生虫[編集]

イイトモが最初に指揮を任された戦いは1991年の圧倒的な軍事力で防衛を行ったが結果は辛勝という醜態を見せた 「ロサンゼルス防衛戦」である。 ここでは敵拠点へ攻め込むとき、戦車へ歩兵部隊を突っ込ませるなどの無謀な攻撃を行い 防衛戦でありながらソ連軍に待ち伏せなどでことごとく部隊を潰走させられるという醜態を見せた。 そこでアメリカ軍はロサンゼルスをいったん捨てる事を決意し、少しでもソ連に被害を与えられるよう イイトモ・ガッテンショウチに少将の階級を渡し、防衛を続けるようにとの命令を授けた。 少将の位を受けたイイトモは調子に乗り、さらに突撃を行い自軍の被害を増やしていった。 最終的には艦砲射撃を行ったミズーリが決定打となり、ソ連軍を潰走させたが イイトモの帰りを喜ぶアメリカ国民は居なかったという。 しかし軍上層部の評価は国民と反し概ね高く、多国籍間演習の際に多国籍軍部隊の司令官に任命された。 だが日本語しか話せないイイトモは混乱し部隊を捨てた上自国に逃げ帰り、アメリカ中の批判を買った。 さらにイイトモはソ連との戦いに空軍で戦車部隊に襲撃し、20分で大半を潰走させられると言う無様な姿を晒してしまった。 しかし帰国後反省の表情を見せるどころかニタニタと微笑みながら周りの将校に話しかけていたため、一般兵士に微笑みデブと 皮肉ったあだ名を付けられた逸話がある。 なお戦闘中の指揮は、日系アメリカ軍人でありながら常に日本語とジェスチャーだったというヨタ話があるが、真実かは不明。

異世界から来た英雄[編集]

ソ連との戦いの後、軍を退役したイイトモはある日仲間と待ち合わせをしている最中に突然異世界へと飛ばされてしまい、 その世界において空軍の司令官に任命される。異世界から来た英雄として周囲から期待されたイイトモであったが 当の本人は言語の英語が理解できず、ただ慌てるだけであった。その後は司令官として働いてみるものの 援軍要請を無視したりするなど勝手な采配をみせたたため、結局イイトモの軍は大敗北を喫する。しかしイイトモは 反省する様子もみせず、怒る仲間に対して「soly」という謎の言葉を残して立ち去ったといわれる。 イイトモが迷い込んだとされている世界は、同じ時間系列を進んでいる多数の異世界(タイムパラドックス)の中のひとつと考えられる。 一時期多くの学者が、この事象をエヴェレット解釈もしくはコペンハーゲン解釈で説明することができるか議論を交わしたが イイトモ本人がひどく曖昧な言い訳をしたため、グダグダとなり現在では下火になっている。

イイトモのビジネスチャンス[編集]

イイトモ・ガッテンショウチ死去の後、その息子たちはガッテンショーチ家の新たなビジネスチャンスの開拓を模索した。その中で放蕩息子として名を知られていたイイトモン・H・ガッテンショーチ(養子)が、当時流行っていたキャッチフレーズ「遺伝子で恐竜作っておっきっき」に惹かれ恐竜動物園に目を付け、相続した遺産で投資を行い移民先の某国(アメリカ政府に建設を拒絶されたため移民したいう諸説あり)でガッテンショーチ動物園を開園させた。恐竜やドードー、始祖鳥まがいな動物などを生み出しなかなかの繁盛だが、恐竜に檻を突き破られ阿鼻叫喚な事態に陥ったりと予断を許さない状況である。詳しくは動物園のイイトモを参照。

イイトモの先祖[編集]

ガッテンショウチ家の家系は長く、最初はある部族の長(ワラッテ・イイトモショウチ)だったという。 彼の築いた部族は国へと変わり、ガッテン国植民地化を図るスペインの騎兵団を潰走するなど大きな国力を誇るようになった その際最前線で戦った女性のみの兵団「OBACHAN」は獅子奮迅の働きを見せ、スペイン国王に「OBACHANいるかぎりガッテンショウチ家は不滅」と言わしめた。 これが日本のおばちゃんの始まりと言える。 その後ワラッテの子孫はイギリスへと渡りモーガン・イイトモショウチとして騎士団に入隊、大きな権力を持つようになる。 オスマンが侵攻してきたとき、参謀が石弓兵を量産するように言ったがモーガンは「少数精鋭うめえwwwww」などと意味のわからない日本語を話し、結局オスマン軍に砦を突破され、精鋭女性兵団OBACHANの子孫たちも次々と敗れていった。 ガッテンショーチ家は優秀な人材を次々と生んできたが、モーガン・イイトモの二人は信じられないほどの戦下手であったといわれている。 その後、スペインからフランスへ鞍替えし、ロシアなどの植民地軍との戦いに突入。友軍でもあるイギリスに国際信義に反する行為をやったりとした結果、植民地を奪われてしまい権威が失墜したという。

日本のイイトモ[編集]

代々ガッテンショウチ家は女好きで知られ、その子孫は日本にすら伸びた。 幼少は性は月天将地名は異伊供という名で過ごし、元服すると毛利元就を暗殺し、毛利元就として毛利家を操った。 弓と船の技術を独自の技術で伸ばし、日本の鉄鋼船を見た西洋人は大いに驚いたという。 最終的には九州の島津氏を飲み込み、「西の毛利、東の上杉」のニ国史を作り上げた。 しかし歳を感じ、息子に家禄を譲り毛利が上杉を滅ぼす寸前に旧友の宍戸哲郎を3000両ほどで登用し 晩年和歌や俳句を楽しんだという。 しかし時代は戦国時代。イイトモが隠居生活に入るのを時代が許さなかったのだ! 月天将地之守異伊供というさながら厨のような名から出川哲郎へと改名した後、野武士の上島竜平を家臣にし上杉包囲網に参加。 上杉攻めを行うも、その堅い守りに稚拙な攻めを行った結果、上島竜平を捕虜にされてしまい失敗に終わる。 逆に、上島竜平は上杉謙信に解放されたためか謙信に感謝し、なんとも気まずい事になった。 その後、民衆から「港の一つも落とせないのは情けないでおじゃる」と言われ悩んだ出川哲郎は再度上杉攻めを行う。 その際、哲郎は「ですのおと」と呼ばれる秘法を使い「ちいと」という外道な策略を行い、非難を受けるもそんな事ではへこたれない。数倍の兵力を持って、 満を持して久慈・塩釜の港を攻めるが久慈の守りの堅さに驚き久慈に兵を集中。辛うじて港を落とした。 それにもかかわらず、民衆から「あの外道のような策略でこれじゃあ情けないでおじゃる」といわれ、出川哲郎は鬱の一歩手前までいったという。 なお「ですのおと」と呼ばれる秘法「ちいと」という策略がいかなるものであったかは現在に伝わっておらず、その内容は不明である。 その後北での天下統一は不可能と悟った異伊供は朝倉家を乗っ取り、小谷城を拠点とした。その際「ちいと」と「ですのおと」 の行い方の書かれた秘書を無くしたとされる。北の時と違い上杉の脅威に晒される事も無く順調に城を落とし確実に朝倉(月天将地)の領土を増やしていった。さらに足軽の技術を伸ばし天下を自分のものとするために東西奔走した。しかし織田との戦にて暗愚の才能を発揮して兵2万が居る城に6万の兵士を投入したが、織田の偽報や流言に騙された異伊供が兵を無駄に動かしたため兵士は疲弊し士気は下がりきっていた。そこを織田軍の精鋭に攻撃され、6万の兵士は全滅した、この際異伊供は「前線指揮官の戦術はどうなっている!?」と自分を棚に上げ前線で戦った勇敢な将に罵声を浴びせたという。

ベェネツィアのイイトモ[編集]

イイトモの先祖はベネツィアにも軍の中枢として君臨していた。 そこでの宿敵との戦闘はイイトモ史に残る大きな戦争だったといえる 一戦目はイイトモは物量で一気に押し切ろうとたいした訓練もされていない兵士たちを大量に集め、一気に突撃を行ったが、 敵の大砲隊と騎馬隊により一気に蹴散らされてしまい大敗という結果を残した。その際多くのベネツィアの将達に戦法を批判された。 二戦目は象兵と騎馬兵を集めたが、今度は大砲に加え、バリスタなどの遠距離攻撃により今回の戦の大将であったイイトモの嫡男のガチロリ・ガッテンショウチが討ち死にしてしまうなど大きな被害を受けた。その後騎馬兵で左右からの攻撃を行ったが、自軍の被害を増やすばかりであったという。 さらに弟のユトリロ・ガッテンショウチがその後、イングランドなどの軍隊を率いて城塞戦・野戦と戦ったが、敵を待ち構える王者のつもりが逆に、城壁を崩されている場所が分からず包囲殲滅されそうになったり、野戦においては三つ巴の戦いでカモにされたりと栄光からかけ離れたもので、兵からも「俺たちの将軍ってアレなんじゃねえ?」と言われる始末であった。汚名返上の覚悟で挑んだジャングル戦では、イイトモが直接ティムールの兵を率いて再び三つ巴の戦いに突入した。当のイイトモは「ゾウさん、ゾウさ~ん」などとゾウに夢中になった挙句、罰が当たったのかゾウが突然暴走し自軍陣地に突撃するなど暗雲が立ち込める。案の定、コサック兵の銃撃・ゾウ逃亡・統率がバラバラで纏まらない軍隊と敗戦濃厚だったが説明できないような奇跡が起こり勝利を収めた。

米国のイイトモ[編集]

フロンティアスピリット溢れるイイトモの祖先は、ベネツィアから新大陸アメリカへと移住する。 脈々と受け継がれてきた騎士の血が影響したのか、そのまま創軍間もない軍へ入隊したが、軍人としての資質と実力は別問題であったらしくそのまま歴史の表舞台から消えてしまう。しかし日本との間で勃発した太平洋戦争の際、海軍に入隊しアナポリスを卒業したイイトゥモ・ガッテンショウチが空母乗組員(パイロット)として、ミッドウェイへ出撃。戦闘機に爆弾を載せたり、発艦した直後に墜落するなど、子孫であるイイトモに通じる素質の片鱗を見せた。また熱血漢じゃないくせに、特攻志願の気があったらしくかなりの体当たりをしたという。

WWⅡヨーロッパ戦線のイイトモ[編集]

当然のことではあるがガッテンショウチ家の末裔は第二次大戦期のナチスドイツにも存在していた。 特に有名なのが先々代がバウムクーヘン早食い競争大会で優勝したことにより貴族に取り立てられた(実際には賄賂によるものだとされる)ヨイトモ・フォン・ガッテンショーチである。 彼はナチスドイツを盛り立てた宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(ゲッペルス?違うよゲッベルスだよ。あれ?ゴエッペルスだっけ?)が病気療養中に宣伝相代理となり、そのまま実質的な宣伝大臣として辣腕を振るった。 しかしひょんなことから彼の人生は一変する。ナチスドイツを率いるアドルフ=ジオウ=ヒトラー総統は彼に軍事的才能があると思い込み※1フランス方面軍、いわゆる西部戦線の指揮を彼に一任してしまったのである。総統の采配によりわずか2週間でポーランドが占領されドイツの絶頂期が訪れたが、煮え切らない態度を取るイタリアに痺れを切らした総統がイタリア侵攻を行ったが為に、西部戦線の指揮は相変わらずガッテンショウチに任されてしまった。 それが悲劇を生むことになる。イタリアの激烈な抵抗とフランスの妨害にめげず2ヶ月で総統はその采配でイタリアを半島から追い出した。しかしガッテンショウチは総統のベルギー方面軍精鋭16個師団を率いてフランスに侵攻しろと言う命令を無視し、毎日食っちゃ寝、飲んじゃ寝、抱いちゃ寝の生活を繰り返し、最後にはマジノ線からフランスに逆侵攻されると言う醜態を晒したのであった。

※1 このような誤解を受けやすいのもガッテンショウチ家の特徴の一つである

オーストリア史に残るIITOMO[編集]

17世紀の欧州は多くの国がその覇権を握ろうと争いが絶えない状況だったが 列強のひとつであるオーストリアは建国以来最大規模の内紛状態にあった。 当時オーストリア5勢力の一角を担う領主であったIITOMOは他2勢力※1 と北部同盟を結び、予てからの敵対勢力であるエロシュ/凸南部同盟とのオーストリアの支配権を争うオーストリア南北内戦が開始されることとなる。好きな言葉は「少数精鋭」のIITOMOは南部への進軍と同時に宣戦布告。しかしながらこの侵攻は北部同盟への連絡を怠ったことにより失敗。逆に軍を集中され終には本拠地を陥落させることとなる。故郷をおわれたIITOMOは 少数の市民とともにオーストリア南西に移動し都市ガッテンの建造に着手する。 オーストリア南北内戦はエロシュ/凸南部同盟が勝利をおさめ北部同盟の2勢力は滅びることとなるがガッテンはその規模と強固な防衛により独立都市として認められた、その後エロシュ/凸同盟の和が崩れ共倒れしたときIITOMOは名乗りをあげ名実ともにオーストリアの国王になった。IITOMO復興の象徴である都市ガッテンは現在でもオーストリア最大の都市である

※1 IITOMOと同盟を結んだ他二勢力は滅び、またエロシュ・凸の文献にも名前がでてこないため詳細は不明、 唯一IITOMOの日記に「あいつらは使えねぇ」と一筆残されているのみであるが 一部ではIITOMOが敗北のいいわけのための仮想領主を作ったとも噂される

古代のイイトモ[編集]

つい最近になって、紀元前にガッテンショウチ家の起源と思われる部族がいたという事が明らかになった。 これにより、ガッテンショウチ家は人類の歴史のほぼ全てに存在していたこととなる。ここまできたら生きた化石のようなものである。イイト・モ・ウエストリバーと呼ばれる部族長はF雲Tけし城なるものを根城とし、かなりの勢力を伸ばしつつあったが、全てを敵に回していたらしい。 後世の考古学者の調査によれば部族長が神の信託により世界各国に戦争を仕掛けていたようだが、反撃を食らい根城の1つを占領され領地を略奪された記録が残っている。

動物園のイイトモ[編集]

軍司令官として名声を確立したガッテンショウチ一族において動物園経営を行っていた者がいた事はあまり知られていない。 記録によると移民として流れ着いた ある国において生活のため動物園経営を始めたが、慣れない異国の言葉に戸惑い従業員を勝手に解雇したり放漫な経営をしていた。 事業も軌道に乗りだしたある 日、大勢の来園者で賑わっていた園内に突如悲鳴が起こった。園内で飼育されていた肉食恐竜が柵を突き破り脱走したのである。逃げ惑う来園者を目の当たりにしたイイトモン・H・ガッテンショウチ社長は「客が逃げ惑うのはコントみたいだ」などと言いお腹を抱えて笑っていたと報告されている。 なおこの大惨事における被害は死傷者100人以上と記録されている。後にこの事件を題材に映画化され大ヒットしたことはあまり知られていない。

甲子園を目指したイイトモ[編集]

日本のイイトモに引き続くが、日本のイイトモは現代においては他のイイトモ血縁者たちと違い、軍人・経営者ではなくむしろ学校指導者として生きていることが多い。 中でも著名なのが月天将地飯朋(30)で高校野球の監督になっている。沖縄のザコ高校で素人にもかかわらず、野球部の監督を非常勤で頼まれたことから始まったという。野球部員全員にピッチャー練習をさせるという斬新な手法で指導を行い、初めての試合となる縄沖水産との試合では5対2という逆転勝ちを収め、続く試合でも再び勝利するなど素人監督として快挙を達成。 名監督として評価が高まった(主に身内から)。 その一方で、飯朋は月天将地家から代々伝わる秘術「ちいと」を使った、審判に金を渡したなど黒い噂が絶えなかった。後に他の高校と練習試合をし快勝したが、部員に高級焼肉をおごって過酷なしごきをするなど典型的な飴とムチを行い続けた結果、怪我人を続出させてしまいとうとう解雇されてしまった。 そして解雇されて一週間後、そこには神奈川県の風雲たけし城高校で監督として過ごしている飯朋の姿が!

WWⅡヨーロッパ戦線のイイトモ その2[編集]

ヨーロッパ戦線における枢軸の雄イタリアにおいて全軍を指揮していたムッソリーニの片腕としてガッテンショーチ・フェデリコ・イイトモが辣腕をふるっていたのは隠された真実である。イイトモはムッソリーニにドイツを攻めるチャンスとドイツ国境に本土防衛軍を含む約30個師団を集結し侵攻を開始した。当初は順調に進むかに見えた対ドイツ戦役であったが精鋭ドイツ軍が反撃に転じるやいなや瞬く間に軍は壊滅し逆侵攻の危機に見舞われた。ムッソリーニはアフリカへの遷都を準備していたが、イイトモは無断でアフリカ領を独立させ本土において徹底抗戦の準備を急速に進めた。だがイタリア組し易しとみた連合軍がイタリアに宣戦を布告、フランス・スペイン軍が侵攻を開始した。その結果ドイツが北イタリア、スペインが南イタリアを占領しイタリアは滅亡した。イイトモはドイツへの降伏交渉に同行しドイツにおいて行方不明となり公式記録上においてその名を見つけることはできなかった。だが同時期においてヒトラーの第一秘書にガッテンショウチ・イイトモマイヤーなる人物が突如登場しヒトラーに助言などをしていたという記録があり本人と推察されるが確認されていない。その後のドイツは ソ連および連合国と開戦したが3ヶ月と持たずに滅亡しその歴史を閉じた。連合国のある指揮官の証言によると「イタリア軍とドイツ軍の指揮が似ていた。これなら幼稚園児が指揮しても勝てる」との言葉を残している。

WWⅡ第3帝国のいいとも[編集]

1944年第2次世界大戦も佳境に入りヨーロッパ戦線における枢軸軍に滅亡の足音が聞こえてきたが、異界より6人の勇者が降臨しドイツ軍首脳部およびスペインに参加した。イイトモ総統以下アシガル元帥を筆頭にドイツ軍の指揮を執り枢軸は息を吹き返すこととなる。資源問題もスペイン総統となったトロ・フランコにより解決し戦線の整理を行っていた。東部戦線においてM-Rラインまでの撤退を完了し、機甲師団を西部戦線に振り向けることにより西部戦線の連合軍の攻勢を防いでいた。イイトモ総統は軍の指揮を各司令官にまかせるといいつつあちこちにちょっかいを出しまくり各司令官に多大な負担をかけていた。ブラジル軍がヨーロッパの土を踏んだある日、イイトモの指揮により北欧において遊兵と化していた兵を輸送していたドイツ艦隊がバルト海においてアメリカ軍の攻撃を受けて全滅した。いいともによると「ちょっと動かしてみただけだお。なにもしてないお」ととぼけており、海戦に参加したアメリカ軍提督のコメントによると「アドミラル・イイトモはすばらしい指揮官だった。今後は陸戦の指揮も執っていただきたい」と言っていたという。

フランスのイイトモ[編集]

1939年ドイツとの開戦に伴いフランス軍において大規模な人事改変が行われた。アシガル大統領を筆頭にイイトモ陸軍総司令官、ドコネル空軍指令官などそうそうたる指揮官をそろえドイツとの戦いに備えていた。着任早々イイトモはマジノ線を強化するべく兵に移動命令を出し自らも前線視察に赴こうと準備を始めた。そのとき前線より凶報が入る。「ストラスブール要塞線がドイツ軍の攻撃により突破されました!」イイトモは報告を聞いたときただ立ち尽くすのみだったと伝えられる。これによりフランスの敗戦は決定したとも言われ、イイトモが着任してから5秒後に防衛線が崩壊(空白の5秒間)、30分後に報告を受けたため「30分戦争」と後に言われる。その後メスにおいて主力の30個師団が包囲殲滅、パリも陥落したためフランスは降伏した。ドイツ指揮官によると「イイトモが指揮権を執った時前線将兵に明らかな動揺が見えた。イイトモ補正ってやつだな。ハハハハ」と語り、ドイツ国内において「イイトモ補正」が流行語になったらしい。その後イイトモはイギリス招聘されイギリスの大陸反抗の指揮を執ることになるがイギリス国内からは「イイトモに指揮を任せるなら亡命先の選定は決まっているのか」などという声が聞こえたという。