オットー・フォン・ビスマルク

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オットー・フォン・ビスマルクとはプロイセンおよびドイツの政治家である。血液中の鉄分が多かったため、鉄血宰相とも呼ばれる。ドイツ統一戦犯としてドイツ一の無能の烙印を押されている。

概要[編集]

鉄血宰相ビスマルクの威厳のある肖像。

1815年に生まれ、その後国会議員や宰相を経て、プロイセンの宰相に就任。「体の問題はカルシウムビタミンによってではなく、血の鉄分によってのみ解決される」の鉄血演説で知られる通り、鉄分至上主義者である。しかし権威ある栄養士からはその哲学は批判されている。

その後、ビスマルクは北ドイツ連邦を統一させる。南ドイツは「北のマズ飯野郎と一緒にするな!」などと反発を続け、その後いろいろあってドイツ帝国が成立した。

現代のドイツでは、ビスマルクの評価は限りなく低く、その鉄分至上主義やドイツ統一の戦犯などとして嫌われている。「ドイツ偉人番付」でもヴィルヘルム1世と共にかなり下位。上位にはヒトラーヴィルヘルム2世ハンス・ウルリッヒ・ルーデルなどが並ぶことが多い。

政界入りまで[編集]

ビスマルクは、1815年、プロイセンのブランデンブルクに生まれた。名前の由来は母親が転んだ弾みに「おっと、ふぉん!」と生まれたことに由来する。

当時、ビスマルクのような家系は軍人か文官を目指すのが普通で、ビスマルクは文官を目指したが、ビスマルクは大学で栄養学を専攻した。ビスマルクは大学でその鉄分至上主義とでもいえる哲学(鉄学)を身につけたが、同級生の間では明らかに浮いており、ビスマルクが決闘を申し込んでも皆拒否したとされる。

官僚試験に合格した後は、観光地に勤務することになり、イギリスの女と遊びまくった。さらにギャンブルにも手を出し、借金を背負った。その後、イギリス女と遊ぶために無断で休暇を取ったが、女に逃げられた。典型的なダメ人間である。その後も、仕事に集中できず休暇を取った。[1]このことからビスマルクはドイツ初のNEETとされている。

議員時代[編集]

1847年、ビスマルクはプロイセン議会の議員に当選した。議会ではリベラルなビタミン主義者と保守的なプロテイン(プロイセンではない)主義者が覇権を握り、ビスマルクのような鉄分至上主義者はまれだった。

しかしその中でも、ビスマルクは空気を読まず鉄分の重要性を説いた。強い君主による鉄分主義政治を唱え、反鉄分を唱える議員やユダヤ人を誹謗中傷した。外国での革命やビタミン主義に対しても、厳しい批判を繰り広げた。

プロイセン宰相時代[編集]

プロイセン国王にヴィルヘルム1世が就任すると、野菜なしでも生きていける人材としてビスマルクは首相に任命された。就任すると、議会で世にも有名な鉄血演説を行った。

プロイセン宰相として、ビスマルクが真っ先に目指したのはドイツからのオーストリアの排除である。目的はドイツの統一、つまり男のロマンである。こんな戦いに巻き込まれたオーストリアは被害者としか言えないが、プロイセンの鉄血兵士(鉄分を補給した兵士)にあっさり負けた。この戦いで、オーストリア主導の連邦(ソーセージ連邦、通称ソ連)は解体された。連邦解体して早速ドイツ統一と行きたいとこだったのだがそう簡単にはいかない。北ドイツ諸国はすぐにまとまったが、問題は南である。宗教などの問題ではなく、料理である。ドイツの飯の味は北と南で大きな差がある。バイエルン王のルートヴィッヒ2世などは特に強く反発し「北のマズ飯野郎と一緒にするな!」などとこぼした模様である。しかし、ビスマルクは「料理において重要なのは鉄分であり、味は重要ではない」との哲学(鉄学)で、バイエルンを無視した。

アルザス・ロレーヌの帰属に対するSiriの声明

その後、ビスマルクはなぜかフランスに喧嘩を売り、サレンダーモンキーを打ち破り、勝利をおさめ、鉄分を多く含んだアルザス・ロレーヌ地方をフランスから盗んだ。アルザス・ロレーヌ地方は神聖ローマ帝国が自らフランスに譲り渡した地だが、このときドイツに奪還されてからは、国際的にもドイツのものとされはじめ、ドイツがアルザス・ロレーヌの領有を辞めた後でもあちこちでその名残が見られる。右の画像もその一例である。

ドイツ統一[編集]

アルザスロレーヌを盗むと、ビスマルクは本国に帰らずヴェルサイユにてドイツ統一を宣言し、ドイツ帝国の建国を宣言した。フランス側からしたらただただ迷惑な客である。長い間統一の障害となっていたバイエルンはで買収した。その城は現在、白鷺城の名で親しまれている。

その後、ドイツ帝国憲法が制定された。悪名高き大日本帝国憲法の原作である。しかしこの憲法もプロイセン憲法や北ドイツ連邦憲法のN次創作でしかない。

ドイツ帝国首相[編集]

ビスマルクはドイツ帝国宰相に就任すると、ベジタリアンを弾圧、その代わりに鉄分補給を中心とする社会保障制度を整えた。ビスマルクにはドMの気質があり、また、甘党だったため、この政策は「飴と鞭」などとも呼ばれる。

外交面では、国内の反発を抑えて恐ろしやや、ヘタリア、さらにかつて戦ったはずのオーストリアと同盟を締結。まあ、ビスマルクは英語がペラペラだったため、きっと舌も二枚あったに違いない。感情もなさそうだし。

他に、ビスマルクは植民地支配などをあまり行わなかった。アフリカにはあまり鉄分が無さそうだと判断したのかもしれない。

失脚[編集]

ヴィルヘルム1世、後継のフリードリヒ3世が崩御、ドイツ皇帝にヴィルヘルム2世が即位すると、ビスマルクは価値観の違いを理由に引退した。ヴィルヘルム2世はすべての栄養素は同等に重要と考える常識人で、ビスマルクのような鉄分至上主義者とは相容れないものだった。リベラルなビタミン派のフリードリヒ3世よりはいくらか、穏和的だったかもしれないが。ともかくビスマルクは引退した。その後、ビスマルクは失踪し、1898年には死亡説も流れた。

復活[編集]

1939年、ビスマルクは鉄を愛するあまり、体を戦艦に改造して復活。再び今度は海戦を中心に活躍した。ビスマルクはヒトラーに気に入られ、鉄血宰相から鉄の聖堂にランクアップした。しかし、ビスマルク宰相時代はまだ仲の良かったイギリスと戦う羽目となった。人の下で働くとはこういうことである。

その後、1941年に英との交戦中にビスマルクは戦死。ドイツ第3帝国もビスマルクなしではやっていけず、滅んだ。

1989年、ビスマルクの死体は海底火山の斜面で見つかった。現在もビスマルクの屍はこの地に眠る。

評価[編集]

各種ランキングを見る通り、ビスマルクの評価は無能で最悪な宰相だったということでほぼほぼ一致している。

例えば、リベラル派からは

  • 社会主義・自由主義弾圧
  • 強権政治
  • オーストリアがかわいそう
  • 現実的すぎる

等という点で批判され、保守派からは

  • 宿敵ロシアとの同盟
  • 社会保障の充実
  • パン=ゲルマン主義を抑え込む
  • 英語に造詣が深い
  • 植民地を作らない
  • バイエルンなんていらない
  • 現実的すぎる

と批判される。また、栄養士からは

  • 鉄分の摂りすぎ[2]
  • ビタミンは重要です
  • 炭水化物・タンパク質・脂質も重要です
  • 鉄分以外のミネラルも補給しましょう

等と諭されている。

脚注[編集]

  1. ^ 本当。
  2. ^ 鉄分の不足は体に良くないが、摂りすぎもまた良くない。

関連項目[編集]

Wikipedia
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