オドントティラヌス

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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オドントティラヌス(Odontotyranus)とは、聖なる河ガンジスの底流を悠然と泳いでいる、インドの伝説に登場する牛の化け物。ガンジス河に流れ込む汚物を一つも余すことなく捕食し、平らげてくれる事で知られている。オドントティラヌスがいるおかげで、ガンジス河の水質は常に清澄に保たれている(と、インド人は信じている)。

概要[編集]

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君は牛を二頭持っているなどの格言に引用されるように、牛はこの世の森羅万象の頂点に君臨して万物を掌握する神聖な存在として古くから崇拝されてきたが、ヒンドゥーの教えが浸透しているインドにおいては顕著に神格化されていた。その神聖な牛の中においても、就中神々しい存在として崇拝されているのが、オドントティラヌスである。

オドントティラヌスは、上半身は三本の角を持った牛、下半身は鱗で覆われた魚類という容貌をしている。ヒンドゥーの聖典によると、元々は普通の牛であったが、あまりに穢れすぎた地上が息苦しくなり、水の中に生活の場を移し、水中で生活している内に、環境に適応して下半身が魚になってしまったのだという。

オドントティラヌスは底なしの胃袋と旺盛な食欲を持ち、あらゆるものを暴飲暴食する。アレクサンドロス大王が東征した時は、ガンジス川を渡河しようとした折オドントティラヌスが現れ、大口を開けて一度に100人以上もの兵士が丸呑みされてしまい、この獰猛な狩人に遮られて河を渡れず遠征は頓挫したと伝わっている。

オドントティラヌスの捕食の対象となるのは、ガンジス川を汚染させるもの、インドの安寧を脅かすもののみに限られる。そのため、ヒンドゥーの教義を墨守している、敬虔であることが一般的、常識的とされる一般のインド人は、オドントティラヌスに捕食されることはない。そのため、彼らは安心して、ガンジス川で斎戒沐浴することができるのだ。

オドントティラヌスが汚物を何でも消化してくれることを利用して、インド人達は、死んだ人間や粗大ゴミをガンジス川に投棄してゆく。死体なゴミなど汚物の類をガンジスに放流すれば、オドントティラヌスが残さず消化してくれるゆえ、ゴミを処分するもっと手軽な方法なのである。そうして彼らは考えなしにゴミをガンジス川に放流し、そして今の淀みに淀んだガンジスがある。ここに至ってもなお、インド人はオドントティラヌスが存在すると信じているのだろうか。いたとして、本当にオドントティラヌスに捕食されるべき「汚物」は、大自然にゴミを巻き散らかす、インド人達の方なのではないか?そういう疑義が、各国から沸き起こっているが、当のインド人達は、誰も気にせず、ガンジス川に汚物を流し続けている。

こぼれ話[編集]

出典は忘れたが、インドの説話だか民間伝承に、こんな話がある。アレクサンドロス軍の兵士を百人単位で丸呑みして食い殺したことからもわかるとおり、オドントティラヌスは普遍的な牛と違って肉食である。解釈次第では、神聖である牛の中において異端な存在であると判断することも出来るし、極端に解釈すれば、肉食だから牛ではないと定義する事さえ出来てしまう。

そして、実際にかように指摘した馬鹿正直者がいた。その説話によると、カースト制度の中でも下位の地位にあった貧民の男が、オドントティラヌスは牛なのに何故肉を食べるのか。肉食であることは牛の定義の一つである草食獣から逸脱している。よってオドントティラヌスは牛ではない、牛でないということは神聖な生き物でもない、人間を食らうただの化け物だ、そう言い放ったという。当然、敬虔なヒンドゥー教徒達は激怒した。男がカーストの中でも下賤の立場にあったことが、群衆の怒りに油を注ぐ形となった。

男は百人以上もの群衆から公開リンチにされて嬲り殺され、その死体はガンジス川に投棄されてオドントティラヌスに「浄化」される…はずであった。すると、普段は川の底流を泳ぎ滅多に地上に姿を現さないオドントティラヌスが、水面に姿を現した。オドントティラヌスはこういった。この男は正直者である。確かに自分は肉を食らい、牛の定義の一つである草食獣の範疇から逸脱どころか背馳している。是非はどうあれ、自分に対して神聖な牛ではないと指摘するこの男の正直さに不純な点など微塵も無い。むしろ、ヒンドゥーの教義とそこから形成された自分達の常識の無謬性を信じて疑わず、それに異を唱えるものをこうも安易に殺害してしまう、そういう貴様らの不遜と狭隘こそ、穢れたものであり、万死に値する、と言って、オドントティラヌスは男の集団リンチ殺人に関与した群衆を片っ端から食い殺してしまったという。

この説話が誕生した年代は正確なところは明らかになってはいないが20世紀になってかららしく、ヒンドゥー教やカースト制度に代表される因循姑息、旧態依然としたインドの風習、風土が、少しずつ柔軟性を持ち、教徒達が俯瞰的な思考が出来るよう、俄かに視野を広げていることを示唆している。

一方で、大食漢のオドントティラヌスは皮相では適当に屁理屈並べただけで本音はただ人間を沢山食べたかっただけなんじゃないのかという指摘も挙がっている。