シベリア共和国

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シベリア共和国(-きょうわこく、Сибирская республика、1918年6月17日-1918年11月3日)とは、世界史上初めてロシアから「国土面積世界一」の座を奪取した国家である。(ちなみにモンゴル帝国はロシア建国以前であるため、カウントしない)

独立[編集]

シベリア共和国は1918年、本国ロシアが内戦(いわゆるロシア革命)によって辺境にまで統治が及ばなくなっていたドサクサを狙ったピョートル・V・ヴォロゴーツキイによって独立宣言がなされた(1918年6月17日)のを建国としている。が、その時の叫びは誰も聞いていなかったため、改めて同年の7月17日、正式な独立宣言を発布している。これによって今度こそシベリア共和国が建国されたものの、旧ロシア帝国(いわゆる白軍)当局もソビエト中央政府(いわゆる赤軍)も、もちろん他の列強諸国の誰も気にしてはくれなかった

国土[編集]

さて、めでたく独立を果たしたシベリア共和国政府(暫定シベリア政府)は、西はウラル山脈から東は満州カムチャッカアラスカ太平洋沿岸)にいたるまでの範囲をその領土と主張し、これによって当時世界でもっとも広大な領土を有する大国に躍り出たのだが、もちろん実効支配できるはずも無く、大統領に就任した愉快なピョートルは「我らがシベリア政府は、各地方に対して最大限の自治権を与え、これによって無限大の可能性を追求することを許可する」という布令を発することで自らの度量をアピールしてみせたものの、しょせんはそれが負け惜しみに過ぎないことは言うまでもない

政体[編集]

シベリア政府は当時ロシアでは珍しかった民主主義を採用しており、156人の議会はバシキール人キルギス人タタール人によって構成されていた。しかし、その決議はいつも満場一致で「閣僚に一任する」となり、その閣僚というのは大統領のほか3人の社会革命党(政権与党)員と2人の立憲民主党(政権野党)員による合計6人で構成され、いつも密室会議によって運営がなされていた。

また、首都はオムスクに置かれたが、大統領と対立していた立法府のメンバーはシベリア州ドゥーマに立て篭もり、半独立状態で運営していた。しかし、力こそ正義であり掟であるシベリアの大地で、立法だ司法だとわめいたところで、そんなのは結局どうでもいいことであった。

軍事[編集]

シベリア政府が独立できたその背景には、帝政ロシア時代から軍事力の要であったシベリア軍を押さえたことが大きく功を奏している。コサックや旧シビル・ハン国義勇兵で構成された荒くれ軍団は、ウラル軍とコサック軍の二軍団に編成され、白兵戦からゲリラ戦まで手広くこなし、シベリアの戦場を知悉した精鋭中の精鋭であり、シベリアで戦う限り無敗を誇る常勝軍団であった。しかし、そんな精鋭であっても指揮官がダメなら運用もままならないものであり、かのピョートル大統領は明らかに名将の器ではなかったため、戦いはいつもグダグダなものに終始するのであった。

転覆[編集]

そんな1918年11月3日、旧ロシア本国から軍事顧問として雇っていたアレクサンドル・コルチャーククーデターを起こした(不遇をかこっていたシベリア軍が偉大なる指導者に与したのは言うまでもない)ため、せっかくそれなりに上手くいっていたシベリア共和国はあっさりと奪われてしまい、ピョートル大統領は不愉快な仲間たちともども粛清されてしまった。かくしてアレクサンドルはウラル以東全域を手中におさめ、1919年にシベリア政権が崩壊するまで独裁者として君臨し続けたのであった。

関連項目[編集]