スーパーシェルパ

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スーパーシェルパは、軽井沢町~旧松井田町周辺で頻繁にみられた山岳地帯用の車両。

概要[編集]

浅間火山レースが開催され日本モータースポーツの発祥地の一つともされる軽井沢では、山岳地帯が多いことから通常の車両では峠を上り下りするのに不向きであり、専用の車両が開発された。

峠に特化していることから最高速度は遅く、乗り心地もあまりよくなかったが、1996年まで使用され全廃された。

全車が現役を退いた現在でも、多くのスーパーシェルパが、付近の博物館や温泉施設などに展示されている。現在でも可動可能なスーパーシェルパが4台あり、いずれも有料で試乗が可能となっている。

略歴[編集]

登場まで[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「峠のシェルパ」の項目を執筆しています。

かつての旧中山道は、碓氷峠を現道のはるか北側で越えていく経路を辿っていた。

明治期には付近の交通整備が急速に進められた。1882年に碓氷峠前後の全通が実現されると、林道へ迂回する点線酷道区間が大きな交通のネックとなった。1886年には碓氷峠での車両通行が可能となり、軽井沢は車両の通行に都合がよい検閲により削除に移転したため、移転前の集落は「旧軽井沢」と呼ばれるようになった。

元来、碓氷峠では、ハチロクなどの小型軽量でスポーティな車両が多用されていた。現在も、麓側の休憩所では、大量に積み上げられたハチロクを見ることができ、お土産として販売されている。

しかし、下り(上り坂)の急勾配では、煙に巻かれながらあえぎあえぎの走行となり、運転中に窒息したり吐血する者もあらわれた。

これに代わって、1912年から1962年まで、シェルパ125と呼ばれる小型軽量の車両が使われた。当時の車両は川崎造船と川崎車両(現在の川崎重工業)が製造した。

オフロード車にしては珍しくシャフトドライブを採用し、2ストオイル混じりの猛煙は変わらないまでも、輸送力はかなりの改善をみた。しかし、旧シェルパ125は、常に4台セットで走行し、坂道に近づくたびに、時速5キロでそろそろと進む必要があり、たびたびギア欠けやギア抜けを引き起こすなどトラブルも多かったという。碓氷峠の通過には小一時間要した。

粘着うざっ[編集]

2スト特有の猛煙や、トラブルの多さから、1950年代より付近の改良が提唱されるようになった。碓氷バイパスの建設もその一つの解決策であったが、入山峠経由では建設費がかさむことから、予算をケチって碓氷峠の現道を小改良する程度でお茶を濁すこととなった。

戦前に比べて車両性能が大幅に向上したことから、入山峠まで迂回する必要がなくなったのも現道改良が選ばれた理由の一つであった。

この区間の専用車として、スーパーシェルパが用意された。新車両は、粘着質を積極的に応用し、碓氷峠を30分あまりで走破した。

運行開始後[編集]

テスト走行で、ブレーキの操作で簡単にフロントアップやストッピーが可能な高性能ぶりを発揮したことから、恐れをなした上層部は峠でのノーサス走行を行うよう仕様変更し、壮絶な乗り心地となった。

1975年には横転事故が発生し、4台が廃車となった。

1985年ごろからは荷物が碓氷峠を通る頻度が減少し、そのため余剰車が出始めた。中央道の開通によってバイク便の多くが山梨県側に流れるようになった。

全廃[編集]

1994年には上信越道が佐久市まで開通した。在来ルートをはるかに凌ぐ速度で走行可能(ただし点数とお金は保証外)となり、旧碓氷峠は交通の要衝としての役目をさらに失う。碓氷バイパスの無料化後はいっそう沿線の退潮が甚だしく、スーパーシェルパはファンに惜しまれつつ1996年9月30日をもって全廃された。

製造メーカー[編集]

峠特化の変態車として、初めはスズキによる製造が検討された。しかし、スズキは世界最速の寝台特急に経営資源を集中させていたため実現しなかった。

ヤマハは当時からオフ車のトップメーカーであり、同社が量産車の製造を予定していた。しかし水冷から空冷への仕様変更など困難が多く、開発過程に関与したのみで撤退した。

そのためか、完成したスーパーシェルパの足回りにはヤマハの面影が数多くみられる。最終的には、先代シェルパでの実績からカワサキが製造者に選定された。

運用[編集]

全車が麓側に配置され、ノロマで非力な前車を2台セットで煽り倒すのが常であった。急制動時の安全性確保のためノーサスでの珍走にも対応しており、オフ車の車高ベタ下げ珍走仕様という、他所ではみられない異様なカスタムが行われた。

仕様[編集]

競技用車で用いられていた水冷4ストエンジンを空冷仕様に変更した。峠にこだまする電動空冷ファンの轟音は、子供たちにとって、夏休みの終わりを告げる恐怖の音であった。

足回りにはヤマハの2ストオフローダーであるDT125をコピーの技術も取り入れ、DT125を2台、DT126を1台それぞれ使用している。伝達方式は旧来の信頼性あるユニットスイングが採用された。

ブレーキはオーリンズ製、電磁式のバックアップシステムも備え、砂利の敷かれた急な坂道での運転としては暴挙ともいえる、下り(勾配は上り)60キロ以上、危険な下り急勾配が続く上りの区間でも、荷物を載せて25キロ、人だけならば50キロの当時としては速い速度で走行が可能であった。

しかしスピードを出し過ぎるともはや停車は不可能な暴走する鉄塊と化し、全廃されるまでに少なくとも4台がスピードの出し過ぎから暴走し、横転して崖下に転落し廃車になっている。

また、パワーとグリップを重視した結果、オフ車としては非常識きわまりない巨大で重たい車体となってしまった。2009年現在でも、日本一重い車両の記録を保持している。

外観[編集]

外観は当時の新型車としてごく一般的な、箱形の車体であった。しかし、フロント周りなどを中心に、男性的なごついデザインとなっており、山男に例えられる例が多かった。姉妹車では上部に一部FRPを使用したが、スーパーシェルパでは採用されていない。

1980年以後には、Cタイプ無線機のアンテナが車体前方に立ち、あたかも旗棒のように見え、プレス仕様のような無骨さがさらに強調された。

車体色は、初めはグレープイッシュブラウン、後にスタンダードディープブルーが登場した。

終焉[編集]

オリンピックのどさくさに、かつての旧碓氷峠を魔改造する事業が行われ、1996年に完成した。碓氷峠はかつての悪路ではなくなった。現在は、他区間のように260キロで走ることはできないものの、時速160キロもの高速で走り抜けることが可能である。

この一方で、スーパーシェルパは、峠のヌシとしての役目を終え、非常に賑やかに姿を消していった。