ニゴライ゛・ヴァヴィロブ

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お髭もついて威厳たっぷり。

ニゴライ゛・イ゛ヴァノヴィッヂ・ヴァヴィロブ(Николай Иванович Вавилов)はソビエトロシアの偉大な遺伝学者、植物学者である。ヨシフ・スターリン統治下で真面目に研究を続けていたら何故かトロフィム・ルイセンコ一派の陰謀に巻き込まれ餓死するという憐れというか可哀そうとしか言いようのない最期を遂げた。名前に濁点をつけすぎた気がするが誰も気にしないでほしい。

普通の"教授"[編集]

1887年モスクワの商家で生を受ける。麦がよく成長するためには麦踏みが必要であると考えた両親は幼い彼を教育と称してよく踏んだ。よく踏んだ甲斐あってか物理学者になった弟と共にモスクワ農業大学へ進学し、1911年に大学を卒業。その後は優れた小麦や遺伝の研究によって数々の農大教授を歴任する。1919年には大地からの贈り物にしてパンの素、すなわち労働者たちへの供物となる小麦を錆び病から守るため最大限の努力をし、1921年、ペトログラードの連邦植物栽培研究所(連邦最高の植物学研究所である)所長となった。

そして1926年には農業一筋な活動が評価されレーニン賞を受賞。さらに1930年代にはモスクワのソビエト科学アカデミー遺伝学研究所所長という無駄に長い肩書きや、連邦ウンヌン理事会会長などの要職に任命され、ロシアの小麦たちの創造主になった。そんな地位にあって小麦の支配者なのだから、当時のお百姓さんからは『ヴァヴィロブ先生=スターリンの次に神』のように認知されていたかといえば全く認知されていなかった。

エセ植物学者[編集]

彼が43歳にして小麦たちの支配者になっていた頃、ソビエトの支配者はヨシフ・スターリンという髭男爵が務めていた。丁度その頃は「スパイやブルジョワは死に値しますよ。」という標語が掲げられており、彼の知り合いがたまにいなくなることがあったが、彼自身はどうやって小麦に共産主義遺伝子を組み込み頑健に育てるかについての研究に没頭していたためそんな些細なことは気にかけていなかった。彼は作物の研究のため世界中から様々な植物の種(ヒマワリ、カボチャ、種イモ)等世界中から種を集めては溜め、集めては溜めを繰り返したため、ついに科学アカデミーが種やらイモやらでパンパンになる。これは当時世界一のイモコレクションと大いに称賛を受けた。

1934年、トロフィム・ルイセンコという肌色の悪い男が学会に登場する。彼の主張は、「環境は遺伝子の変化を引き起こす。例えば種を冷やすと小麦がおっきくなって大麦になります!」というものであり、メンデルの法則を全く無視したものであった。当時この学説は学者から失笑やら失禁を買い、ヴァヴィロブもこんなバカは放っといて小麦とジャガイモの研究に勤しんだ。が、あろうことか最高指導者スターリンがこれを絶賛し、ルイセンコ学説を信じないといけませんよという告知がなされる。冗談じゃない、断固反対だと見得を切った彼の一派はたちまちルイセンコ一派と対立、政権側に取り入ったルイセンコ一派は彼の一派を排撃し、1940年粛清が勢いを増した頃ついに彼は解任、逮捕された。「ブルジョワエセ学者」と書かれたステッカーを胸と背中に貼られた彼は無罪を主張したが、要望が聞き入れられぬと知るや『ルイセンコの育てた小麦からできたパンは食わない』宣言をし、1943年サラトフ監獄で失意のうちに干物のような姿でお亡くなりになった。享年55歳。

その後[編集]

彼の死後、膨大なイモやら種を残された研究員たちはこれを守ることこそが先生の遺志を継ぐ行為と信じ、第二次世界大戦中のドイツの侵攻による中でも悲劇的な戦いとされるレニングラード包囲戦において研究所に立てこもりドイツ軍の猛攻をしのいだ。途中食糧不足で同胞が次々に倒れる中、ヴァヴィロブの遺した種イモを守るため、食欲に負けることなく守りきり自らは干物になった忠義の士の話なども伝えられている。

1950年代、スターリンやベリヤがやっとくたばり、ニキータ・フルシチョフの政権下スターリン時代の佞臣たちは次々に解職や処刑されていった。かの本物のエセ学者ルイセンコも当然どこかに行ったのかと思いきや、フルシチョフに気に入られてよけい偉くなっていた。全くもって不公平だが、現実はそう甘くないのである。フルシチョフは恐怖のスターリン体制を世界に暴露し、新しいソビエトが始まろうとした時だが、ヴァヴィロフの獄死だけは『そんな時代だったから。』とだけコメントした。当然彼の後ろには、小麦の穂をわざとらしく持ったトロフィム・ルイセンコの姿があった。