ピエト・モンドリアン

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理系の顔

ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン Pieter Cornelis Mondriaan 1872年3月7日 - 1944年2月1日)は、オランダ生まれの画家

初期[編集]

中世の町並みの残るオランダのアメルスフォルト市に生まれたピエト・モンドリアンは幼い頃から神経質な子供であり、毎晩のように家が水没する夢にうなされ、その額にはしばしば深いしわが刻まれ、思いつめたような表情が定着していった。アマチュア画家のおじに塗り絵の手ほどきを受け、輪郭線から1ミリたりともはみ出さずに色を塗る技術を身につけ、アムステルダムの美術学校にて色彩のセンスを磨いた。

1908年の作品。

モンドリアンが美術学校に通うようになる2年ほど前に、フィンセント・ファン・ゴッホ猟銃自殺を遂げている。生真面目な画学生は、自分と同じくオランダ生まれのこの不遇の天才に心酔し、なんとも素直なことに、そのタッチを真似た。『太陽光の中の風車』はその一つで、ゴッホの影響がたやすく感じられる作品である。モンドリアンはこの時点では確かに凡庸な画家だったが、この作品がゴッホの特徴を極めて巧みに捉えたものであり、したがって彼が高い技術を有していたこともまた事実である。

1910年の作品。

色使いの美しい、写実的な絵であり、ちょっと買って目に付くところに飾りたいと思わせる。この『アマリリス』のような万人に受ける絵を描いて金を稼ぎつつ、モンドリアンはパリで活躍するという夢を膨らませていたのだった。ゴッホへの憧れに加え、この頃にピカソを知り、彼の提唱するキュービズムに強く惹かれたことが、モンドリアンにパリ行きをいっそう強く決心させたものと思われる。

中期[編集]

1912年、念願のパリに赴き、キュービズムの研究および実践を始めたモンドリアンだったが、彼の技術はあるがどこかぎごちない抽象画を見たピカソは、脇にはべらせたグラマラスなラテン系の美女に何かささやくと、鼻で笑った。モンドリアンは自分とは違う種類の人間であると即座に了解したのだった。やむなくキュービズムから撤退し、植物や風景の絵を描いて食いつないでいた失意のモンドリアンに止めを刺すように、1914年、一通の電報が届いた。

「ファザー キトク スグ カムバック プリーズ  マザー」

父のいのちを一目見ん一目見んとて急いで母国に戻ったところ、第一次大戦が始まってしまい、パリにまた行くことがかなわなくなり、モンドリアンは精神的に追い詰められてしまう。もはやゴッホのような大画家への道は断たれた。生きるべきか死ぬべきか。彼は部屋に閉じこもり、ろくに食事を取らなくなった。かなりの時間が経ち、もう死んだのではないかと恐る恐るのぞいて見た人が、彼の生存を確認するとともに一枚の絵が完成しているのを発見した。彼は定規を握り締め、かすかに声を漏らしていた。

「うふふふふ、うふ、うふふふふふふふふ……」

泣いているのか笑っているのか分からなかった。普通の風景画が描いてあったはずのキャンバスはが分厚く塗られ、その上に黄色が黒線で仕切られた『絵』が完成していた。彼の代表作『コンポジション』連作の完成であった。

1921年の作品。

『赤・黄・青のコンポジション』は、三原色のいくつかを太い黒線で分断し、特定の何物をも表現しようとしない『コンポジション』連作の中でも特に有名である。その目的は、純粋なリアリズムの追求である、とモンドリアンは述べているからそうなのである。文句がある人は前に出なさい。

1921年の作品。

『赤・黄・青・黒のコンポジション』は、赤・青・黄の三原色に加え、今まで仕切り線にのみ用いてきたを大胆にも平面に用いた作品である。

1930年の作品。

積極的に四角の中に用いるようになってきていた黒を再び取り除いたのがこの『赤・青・黄のコンポジション』であり、モンドリアンはこれ以降しばしば色を減らすことを試みている。

一色のみ

そしてついに一色になった。

1931年の作品。

作品が膨大な量になり、構図の重複を確認することが困難になってくると、今度はキャンバスを斜めにした。この斬新なアイデアにより、この『ひし形、2本の黒線』のような新たな表現が可能になった。色もますます少なくなった。今鼻で笑ったそこのあなた、「コロンブスの卵」である。

2009年の作品。ペイントを使ったのは何年ぶりだろうか。

『赤・青・黄のポンポコジション』は、モンドリアンの作品が何のためらいもなくTシャツマグカップになっている今、少しくらいやってもかまわないだろうという不遜な精神のもと製作された。

後期[編集]

モンドリアンは戦火を避け、1938年にロンドンに、40年にはニューヨークに亡命し、その頃から彼の絵はやっと注目され始めた。それまではどうしていたかというと、風景や植物の絵を描いて何とか生きていたわけだが、そんなことはどうでも良くて、ともかく1942年、モンドリアンはついに、念願の、生涯で始めての個展を開いたのである。ここにおいて、彼は複数の評論家から、「いいものはいい。悪いものは悪い。」という大変高い評価を受けた。

1942年の作品。

さらなるバリエーションもとい進化を求め、モンドリアンは仕切りの線を黄色に変え、よりポップで明るい画面を作り出した。『ニューヨーク・シティ』もその一つであり、その後もこの路線で作品が作られていくこととなる。良かったね。色が増えて、本当に良かった。

1943年の作品。

『ブロードウェイ・ブギウギ』は、初めて聴いたブギウギに感動し、それを表現しようとしたものらしい。構図はさらに複雑さを増し、よりそれっぽくなっている。ニューヨーク近代美術館に購入され、モンドリアンはお礼に「I❤NY」のTシャツを購入した。

2009年の作品。もう二度としませんから許して下さい。

モンドリアンはニューヨークの病院で肺病により亡くなり、その当時製作中であった『勝利のブギウギ』は遺作となった。彼の絵は今なお多くの『前衛芸術家』に影響を与え、いわゆるひとつの完成された抽象絵画として高く評価されている。

関連項目[編集]

ディック・ブルーノは、モンドリアンに大いに影響を受けた一人である。
Wikipedia
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