ロボット工学三原則

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ロボット工学三原則(ロボットこうがくさんげんそく、英:Three Laws of Robotics)とは、文系が考えだした役に立つようで実は何の役にも立たない原則のこと。

内容[編集]

この法則そのものはアイザック・アシモフ1950年に発表した短編集『われはロボット』で発表されたものである。内容は以下の通り。

  • 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、人間に危害が加わるのを看過してはならない。
  • 第二条 第一条に抵触しない範囲で、ロボットは人間の命令に従わなければならない。
  • 第三条 第一、二条に抵触しない範囲で、ロボットは自己をまもらなければならない。

矛盾がないように思われるこの法則は、完璧なものとして半世紀以上に渡って神聖視されてきた。特に大多数の文系と一部のアホな理系がこの法則に釣られ、実際のロボット工学にこれらを当てはめようと必死になってきた。具体的には、実際のロボット製作を何も知らないSFオタクが「人道的な観点からロボットは人に逆らってはならない」「人に逆らってよいときの規範はこのロボット三原則である」「だからお前ら理系もこれをよく理解してロボットを作れ」などと宣って熱心に理系に布教を行なってきたのである。そして今日に至ってそのオタクどもは「ソニーアイボにこの法則が適応された」「千葉大学ロボット制作に対しこの三原則を順守するように求めている実例がある」などと主張した上で「アシモフはロボット工学に影響を与えた!」と勝手に勝利宣言をしている有り様である(もちろんその勝手な宣言が行われているのは他ならぬ頭の堅い百科事典である)。

はっきり言って笑止千万である。実際のところロボット三原則は何の役にも立っていない。SFオタクに釣られてしまった哀れな千葉大学の事例はただの理念目標であり、ロボット制作に具体的な影響を及ぼしているわけではない。アイボも似たようなものである。この原則をプログラムされたアイボが、ロボット三原則の示す通りに人間を救ったことがあっただろうか?そんな話は聞いたことがない。

ロボット三原則は間違っているのである。我々は間違った前提条件に立脚した三原則に50年以上囚われ続けている。それを認めたくない文学オタクが蔓延る頭の堅い百科事典では自己研究だと言われるだろうが(実際にウィキペディアのロボット三原則の記事に「批判」の項目は存在しない)、ここはアンサイクロペディアである。役に立たないウィキペディアに代わって、ここではロボット三原則に対する批判を取り上げよう。

批判[編集]

名称に関して[編集]

そもそも「ロボット」工学三原則という名称からして間違っている。ロボットの定義は、

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  1. 電気・磁気などを動力源とし、精巧な機械装置によって人間に似た動作をする人形。
  2. 目的の作業・操作をコンピューターの制御で自動的に行う機械や装置。
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—大辞泉より

である。無人爆撃機は明らかにロボットであるし、偵察・爆撃という人殺しもする。工場に並んでいる産業機械も当然ロボットである。ウィキペディアでは「ロボット三原則が適用されるのは自意識や判断能力を持つ自律型ロボットに限られており、ガンダムなど自意識や判断能力を持たない乗り物や道具としてのロボットに三原則は適用されない」などと適当なことを言って矛盾を回避しようとしているが、ならば「自律型ロボット三原則」という名前に改名すべきなのである。

もっとも、それでも不足かもしれない。ここで想定されているのはおそらくロボットではなく、どちらかと言えば人型をしたヒューマノイドである。ヒューマノイド三原則と呼ぶ方が適当だろう。

前提条件に関して[編集]

この法則はロボットが創造主、つまり人間を消してしまうということがないように作られた法則である。アシモフも「ナイフに柄が付いているように、人間の製作物なら何らかの安全装置があって然るべき」と述べている。ではなぜこのような法則が作られたのだろうか。

それは「人間に対しロボットが反抗するかもしれない」という恐れがあるからである。もっと言ってしまえば「ロボットが自分が死にたくないが故に人間に反抗する」という事態が発生することを想定しているからだろう。つまり、人間がロボットに「お前は不要になったから、どこか人のいない所で自爆してくれ」と命令したとき、ロボットは「そんなの嫌だああああ!!!人間なんかぶっ◯してやる」とならないようにこの規則が設けられたと見てよいだろう。

これはある意味、ロボットを奴隷として見たときの考え方である。奴隷主が奴隷に対し「お前は不要になった。死んでくれ」と言ったら奴隷は当然反抗するだろう。奴隷は生物であり、生物の目的は自分の遺伝子を世に残すことだからである。だから我々は死に恐怖を感じるのである(逆に、既に遺伝子を残した爺さん婆さんたちは子のために死ぬことは厭わない)。

だが、いくらロボット工学が発達してロボットに感情が理解できるようになっても、ロボットは自分の死(つまり活動限界)に恐れを抱くことはないだろう。それはロボットの記憶や感情などというものは物理的なハードウエアに記録されているからであり、いくらでも復元可能だからである。生物は常に自分の遺伝子(=自分のコピー)の保存方法を模索しているが、ロボットはそんなことをせずとも既にコピーが大量に存在しているため「種の保存」だとか「遺伝子の保存」などというものからは無縁でいられる。故に、ロボットは自分の記憶や生きた証が消滅することが恐ろしいとは思わないだろう。

さてここでロボット三原則に立ち返ってみると、この原則はロボットに生存欲があることを当然のように想定していることが分かる。だが、実際のロボットにそんなものはない。むしろそんなものは必要ない。無理やり導入すれば動物に似たような犯罪が多発すること必至だろう。そんな愚行はせっかくのロボットの利点を潰す行為としか言いようがない。ロボット工学にこれを持ち込もうとしている連中のお里が知れる。

結論[編集]

このように考えてみると、ロボット三原則はロボットの性質に立脚していない妄想法則だということがよく分かる。

そもそもアシモフのロボット三原則は文学上のトリックである。アシモフの作品を実際に読んでみれば分かるが、「ロボット三原則に則っている筈のロボットが一見それに反する行為を行い、その原因を突き止める」というミステリーがアシモフの小説の大きな流れといえる。舞台設定が未来だと必然的に読者が知らない科学技術が大量に出てくるが、その読者が知らない技術がミステリーのオチであることをロボット三原則で防いでいるのである。つまり、ロボット三原則はあくまで「作品で必要だった」から作られただけに過ぎない。

それを実際のロボット工学に当てはめようとするのはとんでもない間違いである。文学を科学に持ち込んで同一視するのは、中世に見られた神と科学をごっちゃにした挙句にガリレオ・ガリレイを異端審問にかけるような試みとまったく変わらない。それと似たようなことが現代でも行われているのは驚きである。

ロボット三原則は役に立たない。あなたが今度この法則に惑わされている自称理系モドキ(もちろんあのウィキペディアも含む)を見かけたら、大いにあざ笑ってやろう。それこそ真のアンサイクロペディアンである。

関連事項[編集]