丁銀パン

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丁銀パン。一見しただけでは普通のパンにしか見えない。
ちぎって中身を覗いてみる。確かに黒くて硬いものが入っている。
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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「石見銀山」の項目を執筆しています。

丁銀パン(ちょうぎんぱん)とは、島根県大田市大森町で作られているパンである。

概説

その名前の通り、パンの中には丁銀(ちょうぎん)が入っている。丁銀とは、室町時代から明治時代にかけて全国で流通していた銀貨のこと(画像後掲)で、当然ながら、は食べることができない。

丁銀のまわりを覆っているパンの部分は、刮(こそ)げ落とせば食べることができない訳ではない。また、銀そのものは、歯科治療にも用いられていることからもわかるように(いわゆる「銀歯」は銀・パラジウム合金である)、一般にアレルゲンにはなりにくいとされている。
但し、丁銀パンに使われている丁銀の場合は、現代のような工業的製法によらない伝統的な製法によって精錬された灰吹銀(はいぶきぎん)と呼ばれるものであり、微量のが含まれている場合がある。当然、パンにも鉛が付いてしまっている惧れがあるため、よほど飢えているのでなければ、パンは食べないでおいたほうが無難だろう。

何故、このような、食べることのできないパンが作られているのだろうか。


歴史

発祥 - 「丁銀餅」

島根県大田市大森町は、かつて江戸時代に世界でも屈指の産出量を誇り、日本をの輸出国たらしめていたことで知られる石見銀山のある町である。2007年には世界遺産にも登録されたので、ご存知の方も多いことだろう。
当時、他の銀山(銀鉱)では採掘のみを行うのが一般的であったが、この石見銀山では、コスト軽減のために採掘から精錬までの全ての工程を地区内で行っていた。精錬された銀は、人力で温泉津(ゆのつ)港や尾道まで運ばれ、ここから船で日本全国はもとより世界各国に輸出されていた。

ところで、当時としてはよくある話だが、この銀の採掘・精錬・輸送などの業務に従事していたのは、一般の農民である。当時の大森地区には江戸幕府の直轄領として代官所(大森代官所)が置かれており、住民たちは全て何らかの形で銀絡みの仕事に従事させられていた(従って、農民といってもそれは“士農工商という身分制度における農民”という意味であり、“農業をする民”という意味での農民はほぼ存在しなかったと言われている)。

丁銀(※食べられません)。
丁銀を餅で包んだ丁銀餅(※だから食べられないってば)。

銀は涸渇を知らぬほど豊富に産出しており、住民の生活は決して経済的に厳しいわけではなかった。が、それでも、生活の全てを幕府の役人たちに支配され、毎日のように採掘や精錬などの危険な作業をさせられていれば、どこかで役人たち(=支配階級)を出し抜いてやりたいと考えるのが、被支配層というものの常である。

住民たちはやがて、代官所に報告する作業結果(産出量・精錬量など)を実際よりも少なく報告し、その余剰分を自分たちで秘密裏に保管しておくようになった。しかし、そうして保管された銀も、持ち出して他の町や村などで使わなければ意味がない。監視の役人の目を盗んで、銀を持ち出すにはどうすれば良いか――。

そうして考え出されたのが、丁銀をで丸ごと包(くる)み、どこからどう見ても普通の餅にしか見えないように偽装した、丁銀餅(ちょうぎんもち)である。この丁銀餅は、役人には全く見破られることなく、本来の銀の輸送のついでに時折持ち出され、沿道の町や村などにおいて奢侈品と交換されることにより、住民の生活を潤していった。

餅からパンへ

明治初期には、幕藩体制の終了に伴い石見銀山は民間へと払い下げられることとなった。しかし、払い下げから暫く後に発生した浜田地震(1872年)により、多くの坑道が崩落して採掘が困難な状態となったため、この経営者は石見銀山の経営を諦め、以後、石見銀山は放置され続けることになった。

――というのは勿論、表向きの話である。

浜田地震発生後も、住民たちは、長年培われてきた知識と技術を活かし、銀の採掘や精錬を秘密裏に続けていた。勿論、銀の密取引によって構築されてきた贅沢な暮らしから離れられなかったことは、その理由のひとつではあるが、それ以前に、住民はそもそも銀に頼らなければ生活できない状態にまで陥っていたのだ。住民の殆どが長年銀山で働いていたため、大森地区には開墾された農地らしい農地や、あるいは農業用具の類さえ殆ど無く、農業をこれから新たに始めることには大変な困難と面倒臭さが伴ったためである。

この銀の密取引は、石見銀山の銀が真の意味で涸渇する、20世紀末まで続けられた。餅で包んで輸送するという方法も変わらず継続されていたが、第二次世界大戦後は、日本国中に急速にパン食が普及し、餅よりもパンのほうが輸送上極めて自然となったことから、現在の形の丁銀パンが作られるようになったという。

住民を救った丁銀パン

20世紀末、石見銀山の銀はほぼ涸渇しかけ、住民は窮地に立たされた。その頃既に大森地区は国によって史跡として指定されていたが、それくらいでは観光客は大して来るはずも無い(いまこの記事をお読みの読者諸氏は、自分が住んでいる都道府県の史跡を一つでも挙げることができるだろうか?)。このままでは、生活の糧を別の所に求めなくてはならなくなる。しかし、どうすれば良いのだろうか。

ちょうどその頃、青森県から秋田県にかけて広がる白神山地が世界遺産に登録(1993年)されたことから、日本において「世界遺産」というものの知名度が高まりつつあった。

住民たちは、これに目を付けた。

――これだ。かつて石見銀山が世界中に銀を輸出していたという実績を売りにして、ここを世界遺産に登録させれば、町は観光業でやっていけるようになるのではないだろうか?

ここで、これまで銀の密取引をしてきた住民たちの実績と技術は、遺憾なく発揮されることになった。住民たちは、残り少ない銀を丁銀パンの形にし、島根県、文化庁外務省、そしてユネスコへと、次々と持ち込んで行き、世界遺産への登録を訴えた。
丁銀パンの存在は島根県内では知られていたものの、文化庁などの中央省庁やユネスコでは、田舎者が突然パンを持ってきたとして訝る者が殆どであった。しかし、パンの中身を割って見せると、大抵の者は笑顔になり、パンを受け取りながら、協力を約束したという。

この幟が目印。

2007年、住民たちの努力の甲斐あって、石見銀山は世界遺産へと認定された。たちまち観光客は以前の数十倍に増え、大森地区は観光業によって充分やっていけるようになった。

ここにおいて、丁銀パンの存在はもはや住民たちにとって秘匿する必要は無くなった。住民たちは、丁銀パンを、自分たちを救った存在であり、また石見銀山と不可分の存在であるとして、その歴史を伝え讃え続ける方向へと方針を転換した。


2021年10月現在、丁銀パンの存在は一般にも広く知られており、現地のパン店では模造品を1個160円で購入することができる(本記事の冒頭で使用した丁銀パンの画像は、模造品を撮影したものである)。石見銀山の土産物のひとつとして人気であり、売上は上々であるという。

江戸時代から大森町の住民たちの生活を豊かにし続けてきた丁銀パンは、銀が涸渇してもなお、彼らの役に立ち続けているのだ。


外部リンク

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宇宙の隅々まで知りたいあなたのために、グーグル大先生が「丁銀パン」について分析しています。
  • 中村製パン店 - 丁銀パン(模造品)を販売している店舗。島根県大田市大森町に所在。