三浦家村

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三浦 家村(みうら いえむら)は鎌倉時代の武士。三浦氏が滅亡した宝治合戦で行方を晦まし、執権北条時頼時宗親子を脅かし続けた「三浦の亡霊」である。

生涯[編集]

1247年、外戚安達景盛と結託した執権北条時頼は、有力御家人である三浦氏を陥れて合戦を誘発させ、宝治合戦が勃発。三浦泰村三浦光村兄弟以下三浦一族悉く自害して果て、三浦氏は滅亡した。三浦一族の死様は凄まじく、光村に至っては自らの顔を滅多刺しにした上鼻、耳も削ぎとってしまい本人であるかも分からないほどであったという。この宝治合戦で、遺体すら見つからず行方知れずとなった者が何人か居る。その一人が三浦家村である。

家村は三浦義村の四男として誕生する。弓術に優れ、少年の頃狼藉者に襲われたが、その頭目の股間に狙いを定めて強弓を放ち、見事命中し悶絶死させたという恐ろしい武勇伝が伝わっている。また、鎌倉で定期的に催された流鏑馬の大会では家村の弓は百発百中の精度を誇り、執権北条泰時からも藤原秀郷の再来と礼賛された。 一方で教養も高く歌の才能にも優れ、この時代を代表する歌人藤原定家に若き頃より師事し、その覚えが大変良かった。家村の「家」の字は家村の後世畏るべし才覚に感銘を受けた定家が偏諱として与えたものである。この話は定家の日記明月記に明記されていることから紛れもない真実なのだが、頑迷なウィキペディアン、並びに歴史学者達はどういうわけかけんもほろろに否定する。

武勇の誉れ高い家村であったがその武人肌の気質に違わず相当に気性の荒い人物であったらしく、酩酊状態で小山氏の郎党と乱闘騒ぎを起こすなど問題行為も多かった。地元三浦市の民間伝承にも家村のキチガイじみたエピソードがいくつも伝わっている。また、上の兄光村ほどではないものの北条得宗家に対する反感も萌芽していたらしく、将軍九条頼経が画策し、兄光村が同調した倒幕のクーデター(宮騒動)にも肩入れしていた形跡が見られる。

宝治合戦で三浦一族が滅ぼされた後、行方知れずとなった家村には執拗に追手が使わされた。時頼の厳命を受けた追手は各地を虱潰しにして穿鑿したが、家村は一向に見つからない。そんな中、時頼は疫病に罹患し病床に付し、出家する。日々熱にうなされ、途端の苦しみを味わう時頼を目の当たりに、人々は宝治合戦で滅ぼされた三浦泰村一族の祟り、あるいは生き延びた家村が何処かで時頼の調伏を行っていると噂した。風聞は流布される内に尾鰭がつき、歪曲された。時頼は家村の復讐に怯え、出家して表舞台から雲隠れした、時頼は腰抜けだ、そういう風聞がいつしか飛び交っていた。 それから間もなく、奇跡的に時頼は回復した。腰抜け執権の風聞を耳にした時頼は激昂し、自分が腰抜けでない事を世に顕示する為、そしてかような風聞を流布する元凶たる家村の息の根を完全に止めるべく、自ら修験者に身をやつし諸国を遍歴し、家村の隠れ家を穿鑿していった。北は陸奥から南は九州まで、時頼は各地を南船北馬したが、遂に家村を見つけることはかなわなかった。それどころか、途中遭難した際に匿ってくれた無名の下級御家人が大事にしていた鉢の木を暖を取り時頼の身を暖める為焚き木にして焼いたことに感動し、当初の目的である家村討伐をすっかり忘れてしまっていた。

以降、三浦家村の名はしばらく歴史上から姿を消す。再び三浦の亡霊が蠢動を始めるのは時頼の死後、息子の北条時宗が8代執権に就任してからである。時宗が執権に就任してからまもなく、破竹の勢いで版図を拡大するモンゴル帝国の鯨呑蚕食が日本にも及び、服従を要請する国書が届けられる。未曾有の国難に日本中が右往左往するなか、宝治合戦を生き延びた三浦家村が蒙古に渡り、北条氏に服従すべく蒙古と結託して日本を蹂躙しようとしている、モンゴル皇帝フビライ・ハーンの厳命を帯びて日本に潜伏しているという風聞が流れた。この風聞は幕府を大いに揺るがし、最終的にどういうわけか時宗の兄北条時輔、名越流北条氏時章教時兄弟が謀反の疑いで殺害され、桶屋が儲かった

この後も三浦家村の名はしばしば登場する。文永・弘安の役では、蒙古軍の中に采柄を握る家村の姿を見たと言う報告が後を絶たなかったし、かの竹崎季長は自ら家村と太刀を交えたと吹聴していた(多分法螺、絶対法螺)。何処に潜伏して時宗の寝首をかかんと伺っているという風聞は時宗が亡くなるまで飛び交い、北条得宗家は家村の亡霊に怯懦した。

エピソード[編集]

太平記」によると、宝治合戦を生き延びた家村は怨みのあまり蛇の妖怪となり、30年の後、恨みを晴らすべく執権北条時宗を毒殺せんと画策し、盃の中に忍び込んだ。時宗が盃を手に取ったところ、中でとぐろを巻く蛇の姿を目にして卒倒、重篤な病にかかり、まもなく他界したというエピソードが伝わっている。ここから「杯中の蛇影に怯える」という諺が生まれた。

異説[編集]

復讐鬼として時頼、時宗の寝首を掻くべく暗躍、蠢動しつづけたと言われる家村だが、実は北条氏とは懇意にあり、半ば北条氏のスパイのような人物であったという説もある。「吾妻鏡」に、家村が諏訪蓮仏入道と夜もすがら密議を交した、という一節がある。諏訪蓮仏入道というのは平頼綱などと同じ北条得宗家の御内人、すなわち執事のような人物であり、他の北条一門や外戚・安達氏に匹敵するほど、幕政の枢機に高い影響力を持っていた。

今までこの部分は、家村が諏訪蓮仏入道と男色関係にあっただけで、「密議」とは即ちホモ・セックスのことであろうと解釈されてきたのだが、近年になり、家村が兄泰村、光村の動向を逐次伝えるため定期的に御内人である諏訪入道の下を訪れ、密告していたのではないか、という説が浮上してきている。そう考えると、三浦一族がおしなべて自害、戦死した宝治合戦で家村一人だけが消息不明となった不可解な点も氷解する。