不沈空母
不沈空母(ふちんくうぼ)とは、その名の通り沈まない空母である。日本においては1970年代から2006年にかけて実験艦を含む5隻が建造された。
概要[編集]
第二次世界大戦以前より空母の防御能力およびダメージコントロール能力は技術の発展とともに進歩してきたが、第二次世界大戦後の原子力空母といえども激しい攻撃を受ければいつかは浸水して沈没してしまう。艦隊において戦力の中枢をなす空母の沈没は艦隊にとって致命的な戦力の損失となる。そこで、攻撃を受けても沈まない空母の研究、開発が冷戦時代に行われてきた。 航空機を離着艦させるための設備を持つのは通常の空母と同様だが、不沈空母の場合は船体を通常の空母で使用する鋼鉄ではなく土砂を主材料として建造することで浸水を防ぎ、被弾に対する防御能力を飛躍的に高めたのが特徴である。 ただし浸水はしなくとも、核攻撃や大量の爆弾による爆撃などで大きなエネルギーを受けた場合に船体そのものが消失して破壊されてしまうことはあり得る。
日本における不沈空母の歴史[編集]
日本においては1942年に完成した実験艦「ついき」にプロトタイプを見出すことができる。しかし、ついきは船体には滑走路しかなく、陸上からの支援を受ける必要があった。そのため、多くの文献ではついきを不沈空母としてはカウントしないことが多い。 だが、滑走路の一部でも海へ突き出すことで得られる様々なメリットはこの艇が証明したともいえる。
本格的な不沈空母の開発と運用は、戦後の1960年代後半からとなる。主にソ連に対抗する目的で研究と開発が始められ、1975年に実験艦「ながさき」が完成した。ながさきは船体の一部に周辺の離島を流用している。これはいきなり船体のすべてを人工の土砂で建造することが技術的に困難であったためである。このため純粋な不沈空母とは言えないが、後の不沈空母建造のための貴重なデータを採取することに成功した。
その後、憲法問題や建造費の問題から実用艦の建造計画は実質上の凍結状態にあったが、1983年に当時の首相である中曽根康弘の主導で再び不沈空母建造計画が推進された。この計画に基づき、1994年に「かんさい」が完成した。しかし、「かんさい」の建造後、不沈空母は航行による移動ができないという空母としては致命的な欠陥が指摘された(この欠陥は「ながさき」建造後にも指摘されていたが、「ながさき」が自然の離島を使用しているために見落とされていたのである)。そのため、計画の大幅な見直しが行われ、当時計画・建造中だった「せんとれあ」「こうべ」「きたきゅうしゅう」の3隻の完成をもってこの計画は打ち切られた。
なお、前述した不沈空母の欠陥は諸外国では比較的早い時期に指摘されて、計画の見直し・中止が行われていた。それでも、日本の近隣諸国などでは数隻が建造されている。
日本の不沈空母各艦[編集]
- ついき
- 実は1942年に建造され、第二次世界大戦をも生き延びた日本で一番古い不沈空母。実験的に滑走路のみが空母化されている。配属が決まったパイロットにかけられる言葉は決まって「よかったな、着艦手当が出るぞ」である。いうまでもなく着艦手当を信じる奴は馬鹿である。
- ながさき
- 自然の離島を船体構造に利用した実験艦。1975年完成。
- かんさい
- 1987年建造開始。1994年完成。日本初の実用不沈空母。建造後、不沈空母なのに少しずつ沈んでいるという欠陥が明らかとなり改修工事が行われている。また、フライトデッキは完成時1面だったが航空機運用能力の不足により2面への改装が行われ、その工事が2007年8月に完成し現在に至る。
- せんとれあ
- 2000年建造開始。2005年完成。横風を受けやすい欠点がある。
- こうべ
- 1999年建造開始。2006年完成。本来は「かんさい」として建造される計画だったが、計画段階で仕様と建造地が二転三転している間に現在の「かんさい」が完成してしまった。そのため「かんさい」の艦名を譲り、さらに「かんさい」よりも小型の艦として建造することとなった。
- きたきゅうしゅう
- 1977年には建造準備は始められていたが、その後ほぼ手つかずの状態になっていた。1994年に本格的に建造が再開された。2006年完成。
世界の不沈空母各艦[編集]
- ほんこん
- 1998年完成。ながさき同様、船体構造に自然島を利用。建造したのはほぼイギリスだが、中国により運用されている。
- いんちょん
- 1992年建造開始。2001年完成。韓国が建造した不沈空母。当艦から飛立った航空機は日本へも多数飛来している。
関連項目[編集]
- 中曽根康弘
- B-52 (爆撃機) 現在のところ不沈空母での運用実績は無いが多分運用可能じゃないかな?
- 軍艦島
- 山下達郎 これを皮肉った歌を歌っている。