仙石秀久

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仙石 秀久(センゴク・ゴンベ 1552年 - 1614年)は織田信長豊臣秀吉徳川家康というビッグネームに仕えたダメなサムライであり、全ての長宗我部ファン・島津ファン、おまけで十河ファンの敵である。戦国時代から江戸時代にかけて活躍した戦国史上最も失敗し、汚名挽回した男張飛に匹敵する怪力バカ

略歴[編集]

天文21年にイノシシ同然の頭脳のゴンベは、仙石家の四男として生まれた。当然こんな頭の悪い子は跡継ぎにするわけにもいかず他家に養子に出したが、兄たちが急死したため、仕方がなく仙石家に呼び戻し仙石家の跡取りとなった。バカは体だけは丈夫なのである。その後ゴンベは美濃斉藤家に仕えたが、斉藤家が第六天魔王様に滅ぼされると、今度は織田家に突っ込んでいく事になった。

バカなんて合戦以外じゃ役にたたねえ

豊臣家臣時代[編集]

最初はやってきたゴンベの勇壮さに褒美まで与えた織田信長だが、次第にゴンベのあまりの頭の悪さに辟易する事になる。織田信長は色々と考えた挙句、羽柴秀吉に厄介払いすることになる。秀吉は頭の悪い部下は嫌いだったが、出自のためかまともな武力バカを家来に抱えていなかったため、仕方なくゴンベを家臣とした。秀吉はこの時はここまでバカだとは思っていなかったのかもしれないが、バカバカなりに使い道があると考えたのかもしれない。そして金ヶ崎から撤退したりドサ周りをしているうちに浅井長政との決戦である姉川の戦いが始まる。この時ゴンベは、バカなので突っ込んで行き、見事に山崎新平というゴンベの子孫が編集した自画自賛史料以外では聞いたこともない敵将を討ち取っている。バカ大活躍であり、まさかの近江野洲郡1000石を与えられる。仙石と1000石をかけた秀吉のギャグだったが、仙石はバカなので最後まで気がつかなかった。

秀吉が中国攻めに向かう1581年には謀将として名高い黒田官兵衛とともに淡路島に渡り平定した。このあたりで秀吉も「バカは賢いのと一緒に行動させないと。」とやっとバカの使い方がわかってきたようである。やがて秀吉が信長死後の天下人として頭角を現す中で、ゴンベは淡路島へ再度派遣された。ゴンベは淡路島を拠点に四国の讃岐へ上陸したが、突撃しか知らないバカなので四国の覇者・長宗我部元親にボコボコにやられて、淡路島へとんぼ返りする。このバカが大敗したせいで、秀吉に従属していた讃岐の十河存保は領地を長宗我部軍に占領され、大坂へ逃走する始末で、結果として四国から秀吉の勢力がほぼ一掃されてしまった。秀吉のこの用兵は「仙石が信頼できるバカ家臣として派遣された説」以外に、「近くにおいておくとバカが蔓延するから」という説まである。やがて秀吉が弟の秀長や甥の秀次に大軍を授けて四国を平定すると、ゴンベは讃岐高松10万石を拝領した。バカに大禄を与えるとろくな事にならないという事を、後に秀吉は身をもって知ることになる。


ごめんねごめんねおバカで許してね。

改易[編集]

徳川家康をなんとか押さえつけた豊臣秀吉は、明太子の独占を狙い九州平定を決意するが、秀吉が九州へ出陣している間に留守を家康に狙われることを恐れて、九州平定をゴンベに命じ、四国の大名である長宗我部元親十河存保、秀吉に従属していた北九州の大名・大友宗麟をゴンベの指揮下に編入させた。 しかしながらゴンベみたいな頭の悪い武将は上官の命令もすぐに忘れてしまうようで、秀吉から「持久戦に徹せよ、短期決戦の戦端を開くな」と厳しくいわれていたにも関わらず、九州を席巻していた敵の島津家久の陽動作戦に釣られ、バカなので功に目がくらみ、自ら先陣となって突撃した。世に名高い「戸次川の戦い」の始まりである。長宗我部元親は百戦錬磨の武将だけあって、島津軍の伏兵に気付いて突撃を諫めたものの、ゴンベは「自分が一番偉いんだ!」とバカなので威張り散らし、かつて自分をボコった元親の提案を意固地になって全く聞かなかった。

だってバカだもん。ジャイアンよりたちが悪い。

結果として指揮能力ゼロのゴンベの突撃一辺倒の作戦指揮は、当然ながら戦の上手の島津にかなうはずもなく、あっという間に伏兵によって壊滅してしまう。

島津家久(良い方)「殺し間にようこそ。」

そしてこの未曾有の大ピンチの中、味方の長宗我部軍が壊滅的状況ながらも逃げ出さず勇猛果敢に奮戦しているのを横目に、総大将のゴンベが島津軍が追尾不可能なほどの神速で…真っ先に戦場から逃走し、九州を突っ走り、小倉から讃岐へ渡って逃げ帰った。

島津軍いわく「三国一の臆病者」 ルイス・フロイスいわく「最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない」「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない畜生であり、できる限り略奪すること以外目がなかった」

と400年以上たってなお語り継がれるほどの大将軍である。

ちなみに、この島津との戦いで長宗我部は元親の長男はじめ「未来の長宗我部を背負って立つ」人材を全員失っている。 さすが大将軍ゴンベさま。豊臣に逆らった長宗我部を滅ぼすための「戦略的全滅」だったわけですね。なお前述の四国での戦いでゴンベのせいで一時領地を失った十河存保は、この戸次川の戦いではゴンベのせいで、今度は戦死してしまった。ゴンベのせいで大友宗麟は本拠地を島津軍に奪われ、北九州の大半を島津軍が制圧する結果となった。


仙石権兵衛秀久

俺を高野山に追放する前に言っておくッ!
俺は島津の恐ろしさをほんのちょっぴりだが体験した。
い…いや…体験したというよりは全く理解を超えていたのだが…あ…ありのまま 今起こった事を話すぜ!
『おれは戸次川で島津と戦っていたと思ったらいつのまにか讃岐に逃げ帰っていた』
な…何を言っているのかわからねーと思うが俺も何をされたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…捨てかまりだとか釣り野伏せだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ…
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

こうしてゴンベは無事に讃岐へ生還したものの、秀吉からは領地を全て没収のうえ、高野山に追放された。ゴンベの頭の悪さを物語るエピソードだが、もとはといえばこんな頭の悪い武将に島津攻めを命じる猿が悪いと言えなくもない。結局、ゴンベのケツ拭きを秀吉自身が務める羽目になり、家康を臣従させることに成功した秀吉が直接九州へ出陣して平定した。

狸の手下に[編集]

しかしこの時、バカとハサミは使いようとでも思ったか、このバカは狸こと徳川家康になぜか気に入られ、小田原攻めで家康の軍に加わることを許された。基本的に小田原城を包囲する持久戦であったが、ゴンベは鈴を自分の鎧中にくっつけて騒音をまき散らしながらバカバカしい派手な格好で小田原城に攻め入って功を立てるというパフォーマンスを見せ、秀吉に気に入られ、再度大名として復活し、信州小諸に5万石の領土をもらった。地元の人はゴンベのあまりのバカっぷりに感動し、仙石の暴れた箱根の平原を仙石バカにちなんで仙石原と名づけたという。

やがて秀吉が死ぬと、天下の主導権を巡って勃発した関ヶ原の戦いでは、何の考えもなくあっさりと、家康に味方した。一方、自らの後継者で、トンビがタカを生んだと評判の次男は、義理を知っている上に狸の思惑にもちゃんと気付いていたので、豊臣への恩義を顧みて石田三成ら西軍についた。結果、その西軍が敗れるとゴンベは次男へ、「西軍についたバカ息子や~い、バ~カバ~カバ~カ!」と思いっきり小バカにした上で、廃嫡どころか勘当までしてしまい、大坂の陣で豊臣方に追い遣ってしまうという鬼畜ぶりであった。しかし、それも何の気なしにやった行為である、なんせ、バカだから。

関ヶ原の戦いでは家康に味方したゴンベだが、戦後の恩賞は何もなかった。ただゴンベが江戸へ赴くと、わざわざ家康の使者が出迎えてもてなすという待遇だけは名門の大大名並みにしたら、ゴンベは大喜びして加増がない不満を何も持たずに、秀吉への長年の恩はどこへやら家康に熱心に尻尾を振って仕えた。

なお領主としてのゴンベの手腕は、そのバカっぷりを遺憾なく発揮し活躍した。なにしろバカであるから、農民たちが人間で、働かせすぎると疲れるということを知りもせず、バカバカ働かせすぎて領地から逃げ出す者を続出させてしまったのである。家康が関ヶ原の戦いでゴンベの加増をしなかった一番の理由は、バカにこれ以上の領土を与えたら、まともに統治できるはずもなく、とんでもないトラブルが起きると思ったからで、家康の見立ては正しいことが証明された。徳川氏の改易ラッシュ(後に転封はされたが)にも巻き込まれず以後も生き残れたのは、あまりにバカだったから改易するのがバカバカしいと思われたからだと考えられている。

子孫[編集]

仙石秀久もバカなりには子孫を残した。しかし、この子孫バカだった。そして、バカとして江戸時代にその名を全国に轟かしてさえいる。 すなわち仙石騒動である。 コレにより、5万石あまりの所領は3万石程度まで減らされてしまったのである。

名乗り[編集]

名前は秀久であるが、一時秀康と名乗り、その後盛長と変え、なぜかまた秀久に名前を戻している。自分の名前も覚えられないバカだったせいかもしれない。

関連事項[編集]