利用者:かぼ/絵画とユーモア

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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序詞・絵画とユーモア[編集]

突然だが、私は絵画鑑賞を好む。高校時代には美術部で油彩をやっていたが、描くよりも観るほうが好きだった。

好きな画家はシャガールだのエルンストだのゴーギャンだのと言っているが、面白そうな展覧会があれば観に行く(というほど観に行ってはいないが)。シャガールとエルンストはシュルレアリズムでありゴーギャンは後期印象派である。しかし古代仏教絵画、いいじゃないですか。バロック、結構。浮世絵、面白そう。ポップアート、ぜひ観たい。

こういう思想のもとで絵画を鑑賞することと、このアンサイクロペディアであらゆるユーモアを鑑賞することには共通点が多いと感じる。そこで私の好きな絵画鑑賞に関して取り留めのないことを綴ってみたい。

絵画の限界とは?[編集]

ルネサンス期の傑作「モナ・リザ」

ルネサンスという芸術革命の後、絵画は宗教的意味合いを超えて芸術として大きな発展を遂げた。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった画家の描く作品は人間を写実的に捉えることに成功し、続くルーベンス、ベラスケス、レンブラントで人物の動きや場面の描写力が高められ、アングル、ドラクロワなどのころには写実的芸術は飽和状態に達していた。

しかしモネをはじめとする印象派がまったく新しい表現技法を確立すると、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらがそれを完成させるとともに抽象芸術の先駆けともなり、表現方法の枠が飛躍的に広がった。その後フォーヴィズム、キュビズム、ダダイズム、シュルレアリスム、抽象表現主義といった派が生まれ、キャンバス上で可能なあらゆる表現技法が模索された。

ピカソの活動は実に多様で、写実からキュビズム、抽象など様々な描き方を試み、彫刻や工芸も行っている。彼を見ると、絵画は再び拡張の限界に達しているように見える。しかしそうではない。

ロートレックはポスターを芸術の域に高め、コーネルはボックスアートを確立し、キャンバスの枠を飛び越えた芸術が生まれてきた。またベン・シャーンは絵画によってサッコ・バンゼッティ事件や核実験に異を唱え、デュシャンは便器を展示室に持ち込んで美術の枠に挑戦したほか、モナ・リザの顔に髭を描き込んで社会批評を行った。ジョーンズはアメリカの地図を描いて芸術と称し、ウォーホルはマリリン・モンローやスープ缶を並べて絵にした。もはや絵筆を使ってできることはやり尽くした感があった。

ランドアートの代表作。モナ・リザから460年、芸術家は大自然に飛び出した

しかし現代ではさらに芸術の枠が広がっている。ヴィデオアートやコンピュータグラフィックスが一般化した。一方で自然や街を巧みに利用したハプニングやランドアート、それよりさらに広い意味でのパフォーマンスアート、画材を一切用いないアルテ・ポーヴェラなどなど、あらゆる芸術の試行されている。

無論これらの中には早く廃れるものから息の長いものまである。心に残らない実のない作品群は短命であるが、旧来の絵画の枠からいかに外れていようとも観る者に訴えかける絵画は評価される。思うに絵画に限界はないし、絵画の域を飛び越えた芸術も存在する。そしてルネサンス期に磨かれた写実の腕を上げることも、奇抜な表現に挑戦することも、いずれも評価されるべき芸術活動であると言えるのではなかろうか。

絵画を評価する?[編集]

高校時代の美術の授業でも油絵をやっていたが、たいていは授業時間で終わるはずもなく、居残り制作となっていた。正規の授業時間と違い、天下国家からスポーツ談義までお喋りしながら絵を描く楽しみがある。しかしこのときに限っては美術談義をしたりすることもある。

さてこのとき、兼業画家の美術教師の絵について私が良い絵だと評価したところ、「お前は教師よりも絵がうまいつもりか」と皮肉られた。だが果たしてこれは妥当な皮肉りか? 答えは否である。教師の絵の良し悪しを論じることが社会通念上どうか別問題だが、自分よりもずっとよい絵を描く教師の作品を評価すること、これは可能である。もし不可能であるとするならば、西田善夫がイチローの打撃についてあれこれ述べることも否定しなければならない。まして野球中継を見ているおじさん達がイチローのフォームについていろいろ言うのは身の程知らずも甚だしいと批判されなければならない。

人々に強く訴えかけたピカソの「ゲルニカ」

そもそも一流の芸術作品とは、多くの人を圧倒し感動させ考えさせるものである。パリ万博でスペイン館に訪れた人はみなゲルニカの前で立ち止まり、ある人は分かりやすい絵だといい、またある人は分かりにくい絵だと言った。しかし多くの人を立ち止まらせ訴えかけたゲルニカはやはりよい絵である。ここでもしあなたが観てなにも思わなかったのなら、ゲルニカはあなたにとってどうでもよい絵ということになる。そしてそれも立派な評価である。個性が尊重されるこんにち、「一般的にはよいとされる絵だが私はそうは思わない」と言うくらい普通である。

ちなみに時代背景、美術史、ピカソの生涯から、無彩色にした意味、構成、技巧、他の作品との共通点、云々と理屈をこねるのは美術評論家の仕事である。だが断っておくと、評論家にもピカソのような画力は要求されない。むしろ絵画に関する知識と洞察力という別の才能が要求されるのである。

ところで絵を観に行こうと誘うと「私は絵が分からないから」と言う人がいる。無難な断り文句だからなんとも思わないが、本当に絵が分からないから絵を観ない人がいるとすればもったいない話だ。絵は分かる分からないで判断するものではない。ゴッホを知らなくても「星月夜」の渦を巻いた空に妖しい迫力を感じたり、ダリを知らなくてもその不思議な世界に酔うことができればそれでよいのではないかと思う。もし本気で「絵が分からないから」という人は、一般の鑑賞者と美術評論家の立場を混同しているのである。

絵画の評価対象は?[編集]

上の記述とも重複するが、絵画を評価するのに小難しい理屈は不要である。無論、理屈は理屈で必要だが、それは専門家や絵を見るだけでは飽き足らなくなったコアな愛好家が必要とするものである。

クリスチャン・ラッセンの絵を鑑賞するのに理屈は必要か?

小室哲哉の曲を聴くのにいちいち変調の妥当性や和音の変化を追っていては楽しめない。クリスチャン・ラッセンの絵を見て、イルカと星屑の配置が良いとか、空の色と波の色が調和的でないといちいち論評するのは馬鹿馬鹿しい。観る者聴く者に一瞬の感動を与えるために、制作者が理屈を考えるのは正しい姿勢である。ただし受け手側はそれを見てなにを思うか、それだけで判断すればよいのである。それが芸術というものだ。そしてそれは小室でもラッセンでもモーツァルトでもセザンヌでも変わらない。

しかし、私は画家のことを知らないからという人もいる。食わず嫌いは性格かもしれないが、絵画というものは予備知識がなくても楽しめるはずであり、また楽しめなくてはならない。私は美術館に行っても画家や題が書かれた札を見ないことさえある。東山魁夷の絵だろうが、幼稚園児の絵だろうが、素晴らしい絵は素晴らしいのである。さらに言えば、余分な知識は鑑賞の足かせになる。東山魁夷と聞けば、これはきっと素晴らしい作品に違いないと思い込んでしまう。無名の高校生の作品と分かっていれば、はじめからなめてかかってしまう。たしかに魁夷の作品は概して無名の高校生の作品よりも素晴らしいが、しかしそれはあくまで結果論であるし、魁夷の大駄作や、あるいは将来の大画家たる高校生の会心作にめぐり会わないとも限らない。

あるいは画家の人生と照らし合わせて観たいという人もいる。たしかにそれも一理あるが、私の考えは違う。人生は作品に自然に現れるものであり、わざわざ長い解説文と絵を見比べて納得するようなものではない。シャガールの数々の作品に対して、彼は望郷の想いが強かったと解説している。しかし見る人もさまざまな人生を送っており、絵画という抽象的なものに対して一様な見方を強制するほうが不自然である。ある人は生きる喜びを、またある人は狂気を、さらにある人は悲しみを見出すだろう。だがそれが芸術というものである。藤原敏行の有名な「秋来ぬと…」の歌を、「先の戦争が終わったとき、やっと自然を感じる余裕が生まれた。そこではじめて秋が近づいていることを感じた」という解釈した熟年の方がいた。曲解も甚だしいが、しかし自分なりの解釈を試みた素晴らしい鑑賞姿勢であると思う。

最近は独創的な展示方法を行う美術館が増えてきた。そんな中に、画家名も題名もわからない、ただ純粋に絵だけを観ることができる美術館があってもいいと思う。

一流の画家とは?[編集]

小学6年のときの同級だったH君は、図画工作の時間が大嫌いな少年だった。そんな彼が素晴らしい絵を描いたことがある。それは教室の掲示するために描かれたもので、マジックで描かれたクジラの絵だった。夜の海でクジラが潮を吹いているもので、幾分抽象的な絵でもあった。後年私がその絵を褒めると、H君自身もその絵のことを覚えていて素直に喜んでいた。彼曰くあの絵は自信作だったようだ。

ルネ・マグリット「大家族」

話は変わるが、ルネ・マグリットという画家がいる。彼はシュルレアリズムの代表的な画家であり、日本人の間でも評価が高い。高校時代の美術部顧問の先生は、その中でも「大家族」という作品は非常によいと紹介してくださった。そうでなくても中学高校の美術の教科書には、画家たちの代表作が掲載されており、マグリットの作品もまた素晴らしいものだった。私は彼の絵に惹かれた。美術室にはマグリットの画集もあったので、ある日それを開いてみた。そこには素晴らしい作品と、そしてまったく心に響かない駄作があった。それは単に趣向の問題以前に、技巧的にもまったく未完成な作品も多いということにまた驚かされた。

美術部顧問は印象派を好んでいた。あるとき、印象派の代表的画家のひとりであるオーギュスト・ルノワールの展覧会を観てくるようにと宿題が出された。代表作も何点か展示されており、出かけた甲斐があったと私は喜んでいたが、その顧問が言うには本当に素晴らしい作品はひとつしかなかったとのことである。思い返せば名作に隠れて凡作も多かったと気づく。

一流の画家とはいえ、いつも一級の作品を生み出すとは限らない。いや、一流の芸術家をもってしても、傑作は滅多に生まれないものなのである。場合によってはとんだ駄作のこともある。日ごろから芸術作品に慣れ親しんでいる一部の欧米人はそのことをよく知っているらしい。対してバブルの頃、日本の成金は海外の芸術作品を買い漁ったが、その中には一流の芸術家による三流品も多く含まれていた。

一方で無名の芸術家でも、稀に会心の作品を生むことがある。一流の画家とは、一流の作品を生み出す確率が高い人たち、作品の平均値が高い人たち、くらいに私は考えている。

絵仏師良秀の評価は?[編集]

表現手段としてのこの写真の価値は?

宇治拾遺物語に「絵仏師良秀」という話がある。それによると、良秀の家は火事になったが家に残された妻子のことなど気にも留めず、自邸の燃え上がる様子を眺めながら「自分は今まで火炎をなんと下手に描いてきたことか」と嘆く。その後立派な不動像を描いた。この話に材を得た芥川龍之介の「地獄変」では、良秀は車に乗った娘が炎に巻かれる様子を見て地獄絵図を描き上げている。これなどは極端な例になったが、比較的新しい例としてはケビン・カーターの有名な「ハゲタカと少女」などが知られる。ナチス至上主義が反映された名作映画「オリンピア」なども含め、表現と倫理の問題がしばしば語られる。

だが、良秀の作品は神が宿ったような大変な名作であったというし、カーターの写真もピューリッツァ賞を受賞している。倫理的な問題を度外視すれば、彼らの作品は賞賛されるべきものであったのだ。芸術と倫理とでは、ときに相容れない評価を受けることがある。だが倫理的に問題があるからと言って、芸術的価値が下がるということは決してないのである。

しかし社会に生きる以上、芸術至上主義が常にまかり通るわけではない。道徳に反する芸術作品は批判され淘汰されるのも現実である。制作した者はその批判を覚悟すべきであるし、広く社会に発信する立場の者は制作者とは違った観点から倫理的問題や影響力を評価して当然である。

ちなみに、倫理的に問題があるものに挑戦したからといって芸術的価値が上がることもない。例として適切かは分からないが、映画「コンクリート」は道徳的評価を抜きにしても映画作品として中途半端であるとの評がある。こうした作品、つまり表現手段としても道徳的にも評価されないものは、残す価値がなく、当然の如く淘汰されてしまう。倫理に反した作品が後世にまで残されたとしたら、それはよほど問題になったか、さもなくば芸術的価値が相当に高い可能性があると言えるのかもしれない。

抽象画とは?[編集]

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セザンヌの「セント・ヴィクトワール山」の連作

「アヴィニョンの娘たち」や「ゲルニカ」を含むピカソの絵のうちの多くは、広い括りで言えば抽象画である。これらの絵は、見ようによっては技巧的にも表現手法としても拙く見える。ゆえに幼稚園児の絵と変わらないと評する者もあろう。ピカソの絵と幼稚園児の絵の違いはどこにあるのだろうか。

抽象とはそもそも、具象からその特徴的な要素や性質を抜き出したものである。しかるに抽象画というものも、本来的な意味からすれば、写実画からその特徴や要素を抜き出し、強調し、あるいは削ぎ落とし、再構成されたものと考えるのが自然であろう。

そのことを念頭に置くと、上の問題の答えが導かれる。ピカソはまず具体を捉え、そこから抽象化を試みた結果が「ゲルニカ」なのである。幼稚園児の天地がひっくり返ったような絵は、具体を捉えることに失敗した結果である。幼稚園児が写実的な絵の再構成というプロセスを踏んでいないことは誰しも納得されることであろう。対するピカソは、若い時代の大変に優れたデッサンや写実画が多く残されている。写実を極めたがゆえに、その写実を再構成する抽象の世界への挑戦が可能となったことを伺い知ることが出来る。

こうした話によく引き合いに出されるのがセザンヌである。セザンヌはゴッホ、ゴーギャンと並ぶ後期印象派の巨匠である。後期印象派の画家たちは、従来の印象派、すなわち光の存在をキャンバスに落とし込む画法のみでは飽き足らず、それぞれがより抽象的な表現を模索した。セザンヌは「セント・ヴィクトワール山」というかなりの数の連作を残しているが、この連作では徐々に抽象化が進んでいくことが面白い。対象と対話しながら、その特徴だけを削ぎ落とし、自らのイメージに従って徐々に再構成していく。まさに抽象画の黎明期ならではの作品群である。

こんにちでは抽象画を見ることも珍しくなくなった。日曜画家や中学高校の美術部員たちもせっせと抽象画を制作している。だが抽象画とは本来、写実・具象からの再構成というプロセスを踏む、写実画以上に時間のかかるものだと分かって制作に取り組んでいるのだろうか。無論、抽象画を描くためには必ず写実画を描くという必要はないのだが、この意識があるかないかによって作品の出来が大分変わってくるように思えてならない。

創造と鑑賞とは?[編集]

ルネ・マグリットの「聖者の世界」
ルネ・マグリットの「光の帝国」。マグリットの多くの作品に登場する青空は、彼の代名詞ともなっている

高校にもなると美術室にはそれなりに画集が置いてあったりする。これは絵を描く者にとって大きな財産だと思うのだが、私が美術部に入部したときには多くが埃を被っていた。どうしても創作意欲が湧かないとき、私が絵筆も取らずにそれを眺めて過ごしていると、幾分奇異な目で見られたものだ。

ここ何十年かの大きな流れとして、芸術は鑑賞するよりも自分でやってみるものという風潮がある。絵画に限らず、演劇、オーケストラ、陶芸、小説、…。そのお陰で芸術家の裾野が広がったのは結構なことだが、陳腐な作品が増えている。本人が独創的と思っていても、それは浅薄であったり、使い古された技法だったりするためだ。

ところで、大学で哲学をやる学生は、在学中にに1,000冊は本を読めと言われる。哲学評論家になるならいざ知らず、哲学で新たな領域を切り拓きたいと思っている若き哲学者の卵が、既に知られている過去の著名な哲学者、思想家の研究、思考をひととおり窺っておかなければならないのはなぜか。それは、ひとつは先人の思考を知ることで、同じものを創造すること(車輪の再発明に近い)を防ぐことが出来るためだ。そしてより重要なのは、体系的な理解や納得のうえに、より深みのある創造が可能になるという点だ。

たとえば絵画におけるシュルレアリスムは、従来存在しなかった革命的な作品群と捉えられることがある。しかし実際は、フロイトの精神分析と形而上絵画を核に、それまでの表現主義、象徴主義、新古典主義などが融合し発展したものに過ぎない。芸術の枠を超えたハプニングと呼ばれる一群は、やはり元をたどれば、ジョン・ケージのパフォーマンス的な音楽に着想を得つつも、ダダイズム、コラージュ、抽象主義あたりの影響を受けたものである。いずれにせよ、それらは突然降って湧いたものではなく、従来の表現や手法の延長にあると言える。他の作品群を良く理解した者だけが、次の時代の新しい作品群を創造し得たと考えるのは、あながち間違いではなかろう。

これに対する批判的な意見としては、鑑賞した作品の影響を受けすぎてしまうというものがある。たしかに私は、多くの高校生がマグリットの空に影響を受けすぎ、展覧会にマグリットの模写でも出しているのかと見紛うような作品を見てきている。だがそうなるのは鑑賞の幅が狭すぎるからであって、自分の世界を描き出したいのであれば、逆にもっと鑑賞すればよいのだ。マグリットの絵を自分のものにし、さらにダリやエルンストの絵をもよく見る。そうすれば自ずから、自身の中で再構築された新しいシュルレアリスムの世界に行き着くはずである。

創造と模倣とは?[編集]

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