北条宣時

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Stop crap.png クソ記事に注意!!
この記事はクソです。筆者自身がそれを認めます。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「北条宣時」の項目を執筆しています。

北条 宣時(ほうじょう のぶとき、暦仁元年(1238年)- 元亨3年6月30日(1323年8月2日))は鎌倉時代の武士。大仏流北条氏の一族。北条朝直の子。うんこが好物のスカトロジストして有名。

大仏流北条氏[編集]

大仏流北条氏は、北条氏の中でも傍流の傍流である。そのルーツを辿れば、得宗こと北条義時の弟である北条時房に辿り付く。時房は長年兄義時を支え、六波羅探題を勤めるなどして北条氏政権の安定化に寄与した。時房の後は長男北条時盛が継承し、同じく六波羅探題を務めていたのだが、時房の四男である朝直が、時盛が六波羅にいる間に得宗被官など、鎌倉幕府の有力者達に便宜を図って、さらに時房次男時村、三男資時に執拗な嫌がらせ、調伏を仕掛けて出家させ、時房の嫡男の座を兄貴達から強奪した。かくして、時盛の家系、佐介流北条氏は没落し、朝直の家系である大仏流北条氏が台頭することとなった。なお、大仏の由来は、朝直が温厚そうな顔つきで大仏を彷彿とさせるかららしい。しかし彼が時房流嫡流を強奪した経緯を見れば、狡猾な人物であることは明白である。見た目に騙されてはいけない。

宣時の人物像[編集]

宣時は、その朝直の子として生まれた。表面的には、和歌に造詣の深い沈毅で温厚な文化人で通っていたが、その実父の朝直に輪をかけた狡猾さを持った人物であった。

宣時が台頭してくるのは北条時宗の治世の末期である。それまでは雌伏の日々を過ごしながら、京都の公家に渡りをつけたりなど怪しい行動を水面下で行っていた。極楽寺流の北条義政が突如出家したことにも、宣時が一枚噛んでいた模様である。

北条時宗の死後、安達泰盛平頼綱の対立が激化すると、宣時は頼綱と手を組んで泰盛を滅ぼす側へ与する。金沢流北条氏の北条顕時(北条実時の息子)が泰盛と手を組んでいたので、それを潰す為に頼綱に接近したらしい。しかし宣時は慈悲深かったので、顕時を失脚させるだけで命までは奪わなかった。その慈悲深さが好印象を得たのか、平禅門の乱で頼綱が滅ぼされた時宣時は粛清されずに済んでいる。

9代執権北条貞時の代になると俄然宣時は力を伸張させ、連署に就任する。その才幹を遺憾なく発揮し、足掛け十五年にわたり連署を務め、幕政に重きをなした。連署を辞して出家した後も20年以上も生き、享年86という、当時にしては異例の長寿を誇った。宣時は政争の要諦を熟知していたので、政権の中枢から一歩離れ、慎重に行動し、裏から政治を壟断した。政争により心労が嵩むことなく、恨みを買って刺客を差向けられたり、毒を盛られることもなかったゆえ、長生きした。だがそれを考慮に入れずとも尋常ではない長生きっぷりであり、荒木飛呂彦先生のように吸血鬼だったのではないか、早死にした貞時や師時などは、彼に生命力を吸われたのではないかと冗談半分に言われる事もある。

近年の研究により、どうやら宣時は他の北条一族と比べてとても頑健な身体の持ち主であったことが示された。そしてそれが、長生きの秘訣の理由であったようだ(後述の人物像を参照)。尚、子息の一人北条宗宣は連署を務めた後、11代執権に就任している。

人物像[編集]

日本三代随筆の一つとして名高い徒然草215段に、老後の宣時自らが吉田兼好に言って聞かせたとされる宣時のエピソードが見られる。それによると、まだ宣時が若かった頃、西明寺入道(北条時頼)に招かれ二人だけで酒宴を催した。何か、酒の肴にうまいものはないか、と時頼から言われた宣時は、持参した手作りの味噌を差し出し、これほど美味いものは今まで食した事がない、と絶賛された、という。

ここで注目して欲しいのは宣時が持参したという「手作りの味噌」である。慧眼なアンサイクロペディアンの皆様方には、「味噌」がうんこの隠語であることくらい百も承知であろう。[1]しかもご丁寧に「手作りの」と書かれていることからも、この味噌が宣時のうんこであることは疑いようもない。つまり、時頼と宣時はスカトロプレイをしていたのである。時頼が宣時を招いて「二人だけの酒宴」を催したのは皆が寝静まった深夜だというが、隠れてスカトロプレイをやっていたのだとすれば、何故深夜にこそこそと二人だけで酒宴を催していたのかという疑問も解消される。

さらに近年になって発見された徒然草931段には、宣時が厠で脱糞した糞を、「これは実に美味いぞ」と言って兼好の目の前で美味そうに食って見せたという、衝撃的な記述がある。のみならず宣時は「うんこを食うことこそ長寿の秘訣、君もうんこを食いなさい(意訳)」と、兼好にもスカトロプレイを推奨していたとされる。兼好は同931段で宣時に対し、よく腹を下さないものだ、とても身体の丈夫な人なのであろうと、その頑健ぶりを半ば呆れながらも讃えている。

なお、徒然草の成立した時期は鎌倉幕府滅亡の前後とされており、時期的に、この宣時のスカトロ話は北条家を貶めるために曲筆されたエピソードではないかと言われているが、珠玉の随筆家である兼好が嘘なんか書くわけないので、全面的に信用に値する話と言ってよい。ただし、兼好に昔の武勇伝を語った宣時の方は70を越えていたとされ、ボケが回っていた可能性があり、単に口から出任せの妄想をほざいていたということも有り得る。結局、宣時が語って聞かせたというこの話の真贋については判然としない。[2]

寿命について[編集]

北条一族は短命が多いのだが、そんな中宣時は80歳以上の長寿を保っている。これは明らかに異様であり、前述の通り宣時が他の北条一族のを吸って生命力を得ていた吸血鬼である可能性が浮上している。それを裏付けるように、「五代帝王物語」には、宣時が女官の血を吸っているところを御内人(鎌倉幕府執権直属の部下)が覗き見してしまったという記述があるほか、とはずがたりにも、大仏宣時は人の血を吸って生きる魑魅魍魎ともっぱらの評判と言う言及がある。

しかし、二次元の世界を見ていただければ分かるが、吸血鬼というものは、「俺は人間をやめるぞー!」などと豪語したり、精神年齢が餓鬼の癖に君主気取りだったり、センス悪いのに俳句に夢中になったり「旦那」とか呼ばれて慕われてるけどただのキチガイだったり自分を誇示する為に全身からオーラを噴出させ、明らかにサイズの合わない服を着てムキムキの筋肉を強調させたりするなど、見栄っ張り、喧嘩好きが多く、結果として、ヴァンパイアハンターに始末されたりして、意外と長生きできない人物が多い。そんな中宣時は、80歳以上の長寿を保ったのだから、処世術を相応に弁えていたのであろう。

ただ、同じ時代、ヨーロッパのヴァンパイア達はベルモンド家の面々に温厚な奴も過激な奴も殺されまくっていた、そのことを考慮すると、ベルモンド家のようなキチガイのヴァンパイアハンター達が日本にいなかったことが、彼にとって一番の幸運だったのかもしれない。

交流関係[編集]

前述の通り吉田兼好と知り合いだった。吉田兼好と言えば徒然草の作者であるために偉人として称揚されているが、ニートであり、人に金の無心ばかりしている人間の屑であった。おそらく宣時も北条一門という当時の権力者の立場ゆえに兼好に金をせびられていたものと思われる。

とすれば、徒然草にある、「兼好が宣時の家を訪れた所、俺は貧乏で酒の肴に僅かなミソしか出せない、すまんな、と詫びた」という記述は、兼好が金の無心ばかりする屑であることを察知した宣時がわざと貧乏人のふりをしたという可能性が十分考えられる。

平頼綱とも仲良しだったが、彼が殺された平禅門の乱では難を逃れて生き延びている。それどころか、息子の北条宗宣はその後11代執権に就任しており、大仏流北条氏の隆盛は頓挫していない。その為、土壇場で頼綱の梯子を外し、反頼綱派に鞍替えして北条貞時と共に頼綱を始末した可能性が指摘されており、その節操のなさを非難されている。

注釈[編集]

  1. ^ 中国の故事に、自称違いの分かる男(笑)が、味噌と間違えてうんこを食べてしまうという笑い話があり、古くから味噌はうんこの隠語としての意味を持っていた。徳川家康三方ヶ原の戦いで恐怖のあまり脱糞し、「これはうんこじゃない、焼味噌だ!」と言い訳したのは有名なエピソードだが、これはこの故事に引っ掛けた家康のジョークである。徳川軍の兵士達は、この家康の軽快なジョークに励まされ、敗戦ムードから立ち直ったという。
  2. ^ 兼好の目の前で自分のうんこを食ったのもボケの症状によるものだとも。