北条政村

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北条 政村(ほうじょう まさむら、元久2年6月22日(1205年7月10日) - 文永10年5月27日(1273年6月13日))は鎌倉幕府の7代執権。副業として俳優コメディアン刀鍛冶、料理人など。北条義時の四男で、相模国伊東荘を拝領したため、伊東四朗と呼ばれることもある。

概説[編集]

認知度こそ高くないが、鎌倉幕府の体制を磐石なものに仕上げた功労者として知られるいぶし銀である。文芸にも堪能で、漢詩、和歌、管弦のほか、料理、大道芸など、守備範囲は多彩であった。武士を東夷を蔑む京都の公家からも敬意を表され、都人を唸らせるほど高尚な人物であったか、或いは公家を垂らし込むのが上手い古狸であったことを伺わせる。そんな政村の唯一つの欠点といえば、地味であるという一点につきる。あまりに地味なので、中学や高校の歴史の授業でもその存在を完全にスルーされてしまい、一般人の認知度は悲しいほどに低い。功績を喧伝するため、田口卯吉渡辺晴美らが分析と調査を行い、政村の偉大さを周知させようとしたが、彼らが尽力しても、政村は地味なままだった。

目立たない便利屋[編集]

北条氏嫡流の得宗家から便利屋として扱われる傾向があり、二回も執権の尻拭いをする連署に任命された上、念願の執権になった時期は蒙古からの使節が来る寸前、幕府内部でも名越家との闘争が水面下に迫っていた激動期、多忙に追われながらも執権として辣腕を発揮したが、おいしいところは若造の時宗に全て持ってかれてしまった。

生涯[編集]

政村の人となりについて『大日本史』は「沈黙温雅」と伝えている。常に冷静で思慮深く、柔軟な姿勢が取れる人物であった、と評しているのだ。勤皇思想に凝り固まり、承久の乱で三上皇を配流するという前代未聞の不敬罪をやってのけた北条氏を、勤皇史観的観点から唾棄し、偏見交じりの評価を下している水戸藩が刊行した歴史書ですらこの評価なのだから、政村が人格、才智ともに卓越していた事は自明である。地味な人物という印象を抱かれやすい政村だが、そこは得宗を支え出しゃばることなく影で光る燻し銀だったと好意的に解釈しておこう。

そんな政村だが、その人生は決して順風満帆ではなかった。彼の出世街道は、謀反人として嫌疑を抱かれるという蹉跌からいきなり始まった。

政村の母は伊賀氏の出自で、通称を伊賀局といい、晩年の義時の寵愛を受け、近侍していた。伊賀局の実家の伊賀光宗も、その縁故から隆盛した。ところが、義時が亡くなり、伊賀局が後ろ盾を失うと、光宗が義時嫡男北条泰時を追い落とし、一条実雅を将軍に推戴し、政村を執権に挿げ替えて幕政を掌握しようと画策しているという疑義が示され、その結果光宗は追放され、政村もクーデターの旗頭に担がれたとして謀反人の槍玉に挙げられてしまう。

この事件は、結局でっち上げであった。伊賀局に嫌悪を抱く北条政子が、伊賀局一派を排斥するために策動したとか、泰時の被官達が伊賀局の寵愛から、泰時ではなく政村が執権に就任するのではないかという風聞に惑わされ、自分達の立場が危うくなる事を危惧し政村を陥れようとしたとか色々言われているが、とにかく政村自身は潔白だった。

この一連の事件を伊賀氏の変といい、疑獄であったため処罰はそれほど厳然ではなかったが、伊賀光宗は鎌倉を追われて信濃の山奥でホームレス同然の生活を強いられ、政村を後援する者の大半が幕政から排斥され、母伊賀局とも離別を味わわねばならなかった。何より、結果が潔白であったとしても謀反人の烙印を押されてしまったことに変わりは無く、政村はその烙印を払拭するのに難渋し、自らの行動で示すべく率先して兄泰時へ、幕府への忠勤に励むようになった。

政村が咎めを全く受けなかったのは、三浦義村が、政村へ及ぶ害が最小限に収まるよう便宜を図ってくれたという。政村にとって義村は大恩ある人ということになるが、後年、その義村の子である三浦泰村北条時頼安達景盛に嵌められて亡んだ(宝治合戦)際、政村は泰村はじめ三浦一族を見捨てて時頼方に荷担し、三浦氏への処罰が軽くなるよう便宜を図ることも特に無かった。そのため薄情ではないかと指摘されているが、いくら恩義を重んじても三浦氏と共倒れになってしまっては本末転倒である。

その忠勤が認められたのか、次第に幕政で重用されるようになり、執権と側近数名のみが集まり談合する「神秘の沙汰」にも参加し、執権が側近数名と乱交アナルセックスを行う「狂気の沙汰」にも参加を許された。

政村には、娘が多数いた。彼はこれらの娘を兄北条重時の子など、他の北条一族に嫁がせることで結びつきを深め、幕府内における影響力を伸張させようとした。北条氏は若死にが多かったが、その原因はインセストタブーにあると指摘されており、その下地を作ったのが、娘達を他の北条一族に嫁がせた政村であることは疑いようも無い。北条氏の隆盛に貢献する一方、北条氏の滅亡にも荷担してしまったのだ。しかしながら、近親相姦は中世では当たり前のように行われていたため、政村を非難するのはお門違いである。

1256年には、執権に継ぐナンバー2の地位である連署に就任。有能だが地味という、補佐役におあつらえ向きな政村にとっては、適任なポジションであった。もし、時頼や6代執権長時早世することがなかったら、そのまま補佐役の連署として一生を終えていたかもしれない。しかし、両名の相次ぐ病死が、政村を執権の玉座に誘導する。

1264年、政村は執権に就任する。執権を継承すべき得宗家の時宗が、まだ14という若年で、官位や実績の関係などから執権に据えるには時期尚早だったからである。政村はこの時60歳で、歴代執権の内、執権就任時の年齢が一番高い。60歳といえば、中世の感覚で言えば既に棺桶に片脚を突っ込んでいる年齢である。そんな老人が、実質的な武家の棟梁に就任してしまうと、懸念の声や『新しい時代を作るのは老人ではない』などと外野から批判が飛んでくるもの。実際その手の批判や懸念は寄せられただろうが、幕府首脳陣はじめ、多くの人々は政村の深淵は判断と豊富な経験を高く買い、執権就任を歓迎した。時宗が成長する1268年まで4年間、政村は執権の座にあり、時宗が成長すると、執権の座を譲渡し、再び連署に戻り補佐役に徹した。本人はもう引退したかったのだが、北条実時が若い連中がヘタレばかりで心配なので教導してやって欲しいと致仕を諫止したという。1273年、数え年69で死去した。蒙古との折衝が難航し、すわ合戦かと風雲急を告げる展開になっていた最中であり、その生涯と死期は後世明治の元老として畏敬された西園寺公望を髣髴とさせる。まさしく波乱万丈の生涯であった。

信条[編集]

一番よりはナンバー2をモットーとしているホル・ホースのような人物であり(単にトップの座に収まる器量が無かっただけとの手厳しい批評もある)、「俺は脇で支えるのが割に合っている。それに引き際も知っている。派手な仕事は怖いもの知らずの若い連中にやらせておけばいい」と自虐的とも皮肉とも取れる発言をしている。

文化人の側面[編集]

政村には文化人としても縦横の活躍を見せ、功績を残した。和歌に精通し、勅撰和歌集には政村の歌が37も収録されており、北条氏の中では一番多くの歌を入首させている。藤原定家にも匹敵する、といえば大言壮語だろうが、卓越したセンスを持っていたことは疑いようも無い。武士を東夷と軽蔑し、故実・典礼・儀式に色々と煩い京都の公家衆ですら、政村の歌には一目置いていた。また、とある公家は政村を「東方の遺老」の称号で呼んでおり、これは政村が鮮やかな弾幕を展開する美術の才能にも長じていた事を示唆している。

刀工としても有名であり、村正の名を用いていくつもの名刀を仕上げた。1333年、鎌倉幕府が滅亡した際、政村が錬磨した名刀村正には北条一族の怨念が宿り、鎌倉を強襲して北条一族を滅ぼした新田義貞、並びに新田の一族に祟りをなし、新田氏を没落させた。かの徳川家康はそんなことも知らず家名に箔を付けたいがために新田氏の末裔を自称してしまい、それゆえ村正の呪詛がかかり、この刀がために何度も死地に追い込まれたり、嫡男を死に追いやらねばならなくなってしまった。


評価[編集]

政村は歴史研究家や歴史小説家からあまり興味を向けられる事も無く、それゆえその功績や人物像が掘り下げられず「埋もれた存在」となっていた。そんな政村に着眼し、彼を顕彰しようとしたのが田口卯吉である。それまで、蒙古撃退の功績は北条時宗のものとされてきたが、田口は時宗は蒙古と書状のやり取りをしていた頃にはまだ若造であり、実質的には老練な政村が予め定めた方針を踏襲していたに過ぎないと指摘、これにより政村の評価は飛躍的に高まる…と思われたがそうはならなかった。やはり深く定着した評価を覆すのはなかなか難儀なようで、相変わらず人々は時宗を英雄と礼賛し、政村には目もくれなかった。さらに、田口の説に対して、三浦周行があまりにも早計過ぎると反駁し、田口の説は学会から疎外されてしまった。ちなみにこの三浦周行と言う男、名前から分かるとおり三浦義村の末裔である。政村は三浦義村に後援されて幕府内で栄達したが、宝治合戦ではその恩恵を忘れて三浦を滅ぼす側に荷担したので、その末裔たる三浦周行としては、そんな不倶戴天の敵が救国の英雄と礼賛されるのは、許しがたかったのだろう。

今日、尊王攘夷、軍国主義下の日本で救国の英雄として礼賛されていた時宗は、進歩的知識人(笑)によって、他国との融和を拒絶し、戦争を推進した蛮族呼ばわりされている。一方で、政村は相変わらず地味で、多くの人々に顧みられる事こそ無いが、顧みてくれるごく一部の人々は、その業績、人となりを高く評価している。顕彰されなかった事は、むしろ幸運だったかもしれない。

関連項目[編集]

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