北条時行

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北条 時行(ほうじょう ときゆき、? - 1353年)とは、南北朝時代に活躍した手品師。脱出マジックの天才。鎌倉幕府14代執権北条高時の遺子で、鎌倉幕府残党を糾合して捲土重来を期して中先代の乱を引き起こし、一時期関東一円を席巻した。足利尊氏後醍醐天皇、弟足利直義の関係に軋轢を生じさせる原因を作り、尊氏の人生は彼の為に大きく狂わされることとなった。

その最大の功績は、朝敵の汚名は意外にも簡単に払拭できるということを世間に周知させたことである。

挙兵に至るまで[編集]

幼名を亀寿丸という。母は安達時顕の娘・二位局で、彼女は手品師として名を馳せた人物であった。1333年、新田義貞による鎌倉攻めが行われ、執権北条高時を始め北条一族は皆自害し、鎌倉幕府は滅亡したが、時行はこの手品師の母の脱出マジックによって鎌倉から抜け出し、難を逃れて逼塞していた。兄に北条邦時がおり、同じく鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣の裏切りによって朝廷方に捕らえられ処刑されている。1335年、北条一族である北条泰家や鎌倉幕府の関係者達が北条氏の復興を図り、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立つ。泰家は鎌倉幕府の御家人である諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた。盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ処刑された兄邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅して二位局らを困惑させている隙に時行を強奪して連れ去ったと「太平記」には記載されている。高名な手品師であった二位局も、話術には弱かったようだ。その後二位局は悲観して入水自殺したという。拉致された時行は諏訪氏の本領である信濃に連れてゆかれ、ここで諏訪家当主である諏訪頼重に庇護され、その元で育てられた。成長するにつれ時行は母譲りの手品師として才覚を発揮し、諏訪から度々脱走することもあった。

逆襲[編集]

成長した時行は、後醍醐天皇による親政に反対する勢力や北条の残党を糾合し、諏訪氏らの後ろ盾を得て狼煙を上げた。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった。時行は天皇方の軍勢を次々と蹴散らし破竹の勢いで関東へ進軍、ついには鎌倉府に攻め入って足利直義をも撃破、敗走させ、一時的に鎌倉を奪還するに至った。時行の采配は優れ、兵士達の士気も高く、蜂起した軍勢は頗る付きに精強だった。

足利軍との連戦[編集]

鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、誰を派遣すべきか議論が起こった。候補として数名上がったが、その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、新田義貞足利尊氏のどちらかを派遣すべきだという意見が強かった。この評定の場で尊氏と義貞は揉め事を起こす。北条残党討伐の任務は明らかに貧乏くじを引かされるようなもので、尊氏は「鎌倉に攻め込んだ折高時の遺子を逃した義貞に責任がある」、義貞は「弟足利直義の大敗の責任を兄が取るべき」と主張して互いに押し付け合いをした。最終的には義貞が朝廷の公家数名を買収したことで尊氏が赴任することとなった。元々新田と足利はライバル関係にあったがこの一件でさらに仲が悪化することとなった。

渋々京都を発った尊氏は途中で撤退してきた直義と合流する。ここで尊氏は後醍醐天皇の息子であり、父と対立して鎌倉に幽閉されていた護良親王を、人質に取られては困るからと言う独断で直義が殺害したことを知り、直義と口論になる。これが原因で両者の関係がやや疎遠になり、後に足利兄弟は絶交して観応の擾乱を引き起こす事となる。要するに、足利兄弟が決別する原因を作ったのは時行ということになる。後に足利と敵対した朝廷からすれば、敵の仲間割れを惹起してくれた時行は功労者といっても差し支えない。北条氏から朝敵の汚名が払拭された背景には、時行による間接的な足利兄弟の離間工作もあっただろう。

直義と合流した尊氏は西進してくる北条軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に北条軍の旗色が悪くなっていった。局地的な合戦が幾度か起こったが、北条軍はそのたび破れ退却を余儀なくされた。ついには鎌倉にまで追い詰められ、諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子は勝長寿院で自害して果てた。自害した者達は皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不可能だったが、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと思われた。時行が一時的に鎌倉を奪還したこの期間の騒乱は先代(鎌倉時代)と後代(室町時代)の間に起きた騒乱として中先代の乱と呼ぶ。

事後[編集]

この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与えるなどした為後醍醐天皇の勘気を被り、両者の亀裂は次第に深みを増してゆき、ついに尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり、南北朝時代の幕開けとなった。

時行復活・朝廷への帰参[編集]

時行の挙兵は尊氏にとっては帝の疑心を招き、新田義貞や弟との関係を悪化させるなど踏んだり蹴ったりの出来事であった。が、さらに追い討ちをかけるかのごとく尊氏を仰天させる出来事が起こる。勝長寿院で死んだと思われていた時行が実は生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を免除され、南朝と結託したという。

時行は朝廷の許しを得るためにどれほどの尽力をしたのかは良く分かっていないが、彼の工作が奏功し、南朝への帰属お容認されたばかりか、朝廷から朝敵の烙印を押されたまま滅んだ父北条高時から朝敵の烙印を剥がす言質を天皇から取った。時行による親父高時の朝敵撤回はこの上ない親孝行であると子孫を自称した横井小楠からも礼賛されている。この高時の朝敵撤回の最大の意義は、「一度朝敵認定されたものは未来永劫朝敵として糾弾される」というそれまでの価値観を覆したことにあり、「綸言汗の如し」と言われるほどの重みを持つ帝の言葉や判断が、時と場合に応じて平気で覆せる薄っぺらいものであることを関節的に暴露したことになる。その為、天皇の権威を地に落とした「英雄」として、天皇制廃止論者や左翼活動家から時行は称賛されることが多い。

妄想癖が強く躁鬱病の気がある尊氏は、先の北条時行の挙兵は自分を体よく始末するための布石で、帝、時行、新田義貞らは最初からグルだったという壮大な陰謀論を脳内に描いた。尊氏はしてやれらたと憤慨し、弟直義になんでそんな事も見抜けなかったと八つ当たりしたため、兄弟仲は益々悪化し、家臣達は尊氏の想像力に辟易した。

時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を世紀の大魔術師、脱出マジックの天才と称揚した(梅松論)。時行はその後南朝方の武将として各地を転戦する。南朝へ帰順した時行は北畠顕家にの軍勢に加わり、美濃青野原などで足利軍を蹴散らす。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた新田義貞と上手く連携が取れず、足利軍との連戦で疲弊した末に戦死、北畠軍は瓦解してしまう。

顕家が義貞と合流し、連携を取ることができなかったことについて、時行が鎌倉を滅ぼした張本人である新田義貞と肩を並べるのを嫌がりダダをこねたという説が流布している。しかし、時行はその後義貞の子である新田義興に随従して足利軍と戦っており、一族の仇である新田と肩を並べるどころかその傘下に収まっている。新田と共闘するのを嫌がりダダをこねたというのは虚構に過ぎない。仮に時行がダダをこねたとしても、一介の客将に過ぎず、その上元逆賊である時行に顕家の針路に干渉出来るほどの発言力があるはずもない。おそらくこの説は、顕家の拙い戦略と無様な戦死の責任を他者になすりつけたい連中が提唱したのだろう。

顕家が戦死し、北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れし、今度は義貞の子新田義興の軍勢に加わり、足利軍に執拗に粘着した。敗北すると再び姿を晦まし、水面下で尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていた。

そんな不撓不屈の精神で蠢動し続けた時行も年貢の納め時が訪れたらしい、鶴岡社務録などの史料によれば、正平8年(1353年)に遂に足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。だが、洞院公賢の日記園太暦今川了俊難太平記などによるとここでも時行は脱走し行方を晦ましたとある。おそらく尊氏とその郎党は時行のようなものを斬って浮かれていたのだろう。そして足利氏としては、未だ蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実を作りたかったに違いない。

そういうわけで、1353年に一応処刑されたことになっているものの、時行の末路については杳として知れず、不明瞭な所が多い。

人物[編集]

  • 時行を庇護した諏訪氏は代々諏訪大社の神官長を務めてきた家柄で、諏訪家は宗教色が強い、つまり洗脳が得意であった。諏訪一族は時行にも洗脳教育を施し、時行の精神に北条氏復興への熱望と、ついでに諏訪大明神に対する信仰心を植えつけた。
  • ただ洗脳するのみならず、頼重は時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていた。
  • 鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだと、頭の固い学者達は強弁しているが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であった。
  • 時行は、たとえ自分が非命に倒れても、北条の血が後世に残るようにと、育った諏訪の地で大勢の巫女さんに手を付け、また各地を転戦する中でも地元の豪族の娘などを寝取ったりして多くの胤子を残した。このため時行の落胤、末裔を称する家は多く、例えば賤ヶ岳の七本槍の一人である平野長泰や、幕末の思想家横井小楠もその一人である。

凄まじい執念[編集]

「命を惜しむな名を惜しめ」という格言に発露されているように、恥を晒すくらいなら死んだ方がマシという考えの多い日本人の中でも、武士はその傾向が顕著に強い。しかし時行は北条家の再興と足利への報復を成就させるという目的を果たす為なら、恥も外聞もかなぐり捨てて我武者羅に行動した。その結果、朝敵の汚名払拭という前代未聞の業績を成し遂げた。時行と敵対した足利尊氏、直義兄弟だが、時行のこの不屈の意思と執念は見本としたようで、追い詰められた尊氏が諦観して自害しようとした時、直義が「諦めたらそこで試合終了でござる兄上、時行めの執念を見習って、九州へ落ち延び捲土重来を図るべきです」と進言して尊氏の自害を止めさせた話は有名である。