北条義宗

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北条 義宗(ほうじょう よしむね、建長5年(1253年)- 建治3年8月17日(1277年9月16日))は、鎌倉時代中期の武将。北条氏一門No.2、赤橋家の第2代当主[1]

生涯[編集]

鎌倉幕府第6代執権北条長時の嫡男として生まれる。父の長時は、5代執権の北条時頼が引退した後から息子の北条時宗が成長するまでの間の中継ぎとして執権となっていたが、時宗は早く自分が執権になりたいが為に長時を度々脅迫して強引に執権職を譲るようにせがんだ。長時は35歳の若さで病没するが、早く自分が執権になりたい時宗が裏から手を回して葬ったとも言われている。1264年のことである。

長時の逝去に際し、将軍の宗尊親王は「名前は長時なのに、長生き出来なくてどーすんの」と哀悼のコメントを述べるとともに、長時の息子がまだ小学生ぐらいの年齢(当時11)であることを不憫に思い、せめて自分ができることということで「宗」の字を与えることにした[2]。本来ならば北条氏のきまり(名前に「時」をつけること!)により「宗時」(むねとき)と名乗る予定であったが、時宗が「自分と同じような名前を名乗ることは許さん」としたため、仕方なく曽祖父の1字を取って「義宗」を名乗った。元々北条時政の長男である北条宗時にあやかって同名を名乗れると期待していた義宗はこれを恨んで遂には「北条」を名乗るのをやめ、赤橋義宗に改名している。以後、義宗の子孫は赤橋家と呼ばれる。

叔父の北条時茂の没後、その後任として六波羅探題北方となった。京都でゆっくりできると思っていた矢先、着任早々の文永9年(1272年)に執権・時宗から、六波羅探題南方である時宗の兄、北条時輔の追討を命じられた。その後、俗に言う「二月騒動」が起こるが、元々時宗を恨んでいて「時宗は兄を平気で殺せるとんでもない奴だ」と思っていたこと、時輔のバックには恩人である宗尊親王がいたことから、すぐさま時輔の所に行っては「時宗があなたを殺そうとしている、どっか目立たない所に逃げるんだ」と行ってこれを逃がした[3]。機転を利かせた義宗は、偽の首を時宗に進呈して「時輔は死んだ」ということにした[4]。これにより時宗から信頼を置かれ、建治2年(1276年)に評定衆というすごいらしい職務に就任したがまもなく死んでしまった(享年25)。病死とされるが、実際は先の二月騒動において時輔の命を助けた事を、幕府のお偉いさんである平頼綱に知られてしまったので、時宗にバレる前に自殺したらしい。一般に「病死」とされているのはこの後頼綱が時宗にそう伝えたからである。このため、幸い、息子の久時に影響は及ばなかった。尚、鎌倉幕府第16代執権の北条守時は久時の息子、すなわち義宗の孫にあたる。

備考[編集]

大河ドラマ「北条時宗」では父・長時は暗殺死、義宗は切腹しており、視聴者から「史実と違うじゃねーか!」と非難されたが、あながち嘘ともいえない。この作品ではキチガイ上司の平頼綱と体育会系上司の安達泰盛の板挟みになり精神を病んで自殺するという展開だったが、頭の逝かれた暴走老人の上司共に使い潰されて死んでゆく現代の若者を思えば、何とも示唆的な描写である。

注釈[編集]

  1. ^ 父の長時を含めた場合。実際には「赤橋」を名乗った初代である。
  2. ^ このことが時宗が宗尊親王を電撃解任する一因となっている。
  3. ^ おかげさまで時輔は生き延びることができ、この後日本とモンゴルの間の平和活動を行う「みんなのヒーロー」となることができた。
  4. ^ 同じようなことは戦国時代竹中半兵衛が、黒田官兵衛の息子、松寿丸(のちの黒田長政)の処刑を命じられておりながら、この松寿丸の命を助けるために行っている。


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