北畠顕家

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笹竜胆紋
この者は栄えある村上源氏の一員である!
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北畠 顕家(きたばたけ あきいえ、1318年 - 1338年)とは、朝敵足利尊氏を討伐するため幾度も「十字軍」を敢行した、北国の蛮族である。熱心な天皇教の信者であり、後醍醐天皇による建武の新政を磐石のものにするため、歯向かう敵対勢力を潰して南船北馬したが、やがて、崇拝の対象であった後醍醐天皇が敬うに値しない「不徳の君」であることを思い知らされた。しかし気付いた時は手遅れだった。子分に伊達行朝結城宗広南部師行春日顕国などがいる。彼らもまた、顕家同様ヴァンダル族のような野蛮人であったことは言うまでもない。

出身[編集]

北畠氏は、東北に根を張っていた土着の豪族であり、鎌倉幕府滅亡の混乱に乗じて、北畠親房と顕家の親子が勢力を伸ばして、他の豪族達を糾合した。不毛で冷涼な東北に割拠する豪族達の多くは、ヨーロッパにおけるヴァンダル族のような野蛮人であり、顕家は彼らの頭目のような地位にあった。何より、北畠=北の野原を荒らしまわるという苗字が、彼らの立場、出自を端的に表現している。ところが、現在一般に流通している歴史の書籍などでは、北畠氏は京都の公家であったと伝えられている。何故、このような虚偽が「史実」として定着したのかと言うと、顕家の南朝に対する尽力と、親父の親房の根回し工作のお陰で朝廷に系譜を捏造してもらったからである。

関東や奥羽出身の人物は、坂上田村麻呂による蝦夷討伐や、前九年・後三年合戦などの経緯もあって、京都の人々から、「俘囚」「東夷」と呼んで蔑まれた。どれほど器量が卓越していようと、東国出身でからというそれだけの理由で侮蔑の目で見られたのである。そういう出自の差にコンプレックスを抱き、また宮廷の文化に強い憧憬を抱いていた親房は、弁舌と貢物をもってして帝のお墨付きを取得し、自分達が京都の公家の家系の生まれであると粉飾することに成功したのである。

人物[編集]

我々がイメージする蛮族

一般的に蛮族といえば、無骨で隆々たる筋肉を持ち、獣の毛皮を着て、戦斧を片手に携え、モヒカン頭で「汚物は消毒だ~」などといいながら火炎放射器をぶっ放し、脳味噌は矮小で振る舞いは粗暴、そのようなイメージが浸透している。

事実、奥州に割拠する豪族の多くは、そんな粗暴な連中だった。しかし、顕家はイケメンで貴族の御曹司が如き気品を漂わせており、所作も流麗で、およそ北国の蛮族とは似つかわしくない風貌であった。清涼感のある容貌は、彼が貴族の生まれだと勘違いされる要因の一つである。知略にも長じ、数々の合戦で優れた戦術を発揮し、源義経の生まれ変わりと礼賛されるほどであったという(ただしソースは親父の親房の日記)。 また、肌がとても白く、まるで女性のような見た目から「真白」という仮名もあったとされている。

顕家の人格陶冶には、親父の親房の教育が強く影響している。顕家の親父の親房は、北国の豪族であったが、政治に興味を持ち中央の情勢を収集し、また敬虔な天皇教徒であり、朝廷の行事や典礼、皇室の歴史に精通していた。彼は、都人から蛮族と侮られないように、常に高貴な所作、挙動をするよう専念しており、顕家に対しても、貴族式の教育を施していた。その甲斐もあって、北国の蛮族の出自でありながら、朝廷内でそれなりに高い地位を獲得することに成功した。

親房は、息子の顕家も宮廷社会で上手く出世できるよう、弁舌を用いて後醍醐天皇に上手く取り入り、また敵対勢力討伐などで功績を挙げ、北畠家の地位を高めることで息子の顕家に対しても出世コースを用意してやった。そのため顕家は飛ぶ鳥を落とす勢いで出世した。

しかし、いくら粉飾しようとも、北国の蛮族出自であるという点から、北畠親子は他の廷臣から偏見を抱かれていた。顕家は功績を顕彰され、東北を統治する鎮守府将軍に任命されたが、要するにこの任命は、蛮族出身の北畠が殿中で栄達しようなどおこがましい、自分の国に帰って地方の統治に勤しんでろという、お上の意思表示に他ならない。なお、今日における歴史認識では、鎮守府将軍に任命され、京都から陸奥に「下向」したということになっている。親房は納得がいかなかったが、熱心な天皇教信者であった顕家は「天皇が自分の功績を認めて抜擢してくれた」と喜んでいた。

鎮守府将軍に就任した顕家は、北方の武士を糾合し、鎌倉にいる足利尊氏足利直義兄弟を牽制した。そして、尊氏が反後醍醐天皇の旗幟を鮮明にすると、奥州の軍勢を率い、新田義貞と呼応して数回にわたって大規模な軍勢を率いて上洛し、鎌倉や東海道で足利軍をコテンパンに叩きのめした。奥州から遙々京都まで軍勢を率いて上洛するには、兵糧を大量に補充する事が必要不可欠である。顕家が兵糧を調達するために行った手法は、現地調達であった。

ようするに、西洋の十字軍同様、顕家と愉快な仲間たちは上洛の行軍の途中の村落で片っ端から略奪行為に勤しんだのだ。このため、顕家の軍勢が通った場所はぺんぺん草一つ生えてこない、処女は一人も残っていないと恐れられた。いくら高等教育を受けていようがイケメンだろうが、所詮は蛮族であった。

しかし、あちこちで略奪を行ったため民草の反感を買いすぎてしまい、高師直との合戦に破れ退却途中に和泉国の某集落を通りかかった際、暴徒と化した村人達に襲われ、呆気なく首を取られてしまった。

後年、ルイス・フロイスが、北畠顕家の、複数回にわたる奥州から京都への大規模な進軍を、その中途での略奪行為や、最終的に頓挫した事も考慮して、「日本における十字軍」と表現した。フロイスによるこの指摘は正鵠を射ていると認識されて全国に普及し、顕家の奥州からの上洛を「日本の十字軍」と呼称することが通念化した。

上奏文[編集]

顕家は死の数日前、上洛途中の旅路から、後醍醐天皇に向けて上奏文を執筆している。その上奏文の中で顕家は後醍醐天皇の器量のなさを徹底して弾劾しており、内容は殆ど罵詈雑言も同然となっている。以下の7か条はその内容。

  1. 日本全国に兵を寄越しやがれ。反乱や尊氏対策に必要なんだよ!
  2. 税金を3年間無料にしやがれ。こんな時に内裏なんか造って浪費してんじゃねえ!
  3. 下人には土地を与えやがれ。不釣合いな官職を与えるな!
  4. 恩賞は公明正大にやりやがれ。坊主が地頭だとか訳わかんないことしてんじゃねえ!
  5. 行幸や宴会をやめやがれ。だから浪費すんなっつってんだろ!
  6. 法律をしっかりと守りやがれ。自己矛盾した綸旨出して混乱させるんじゃねえ!
  7. 私利私欲にまみれた有害無益な政治家やら女官やら坊主どもは追放しやがれ。

顕家は天皇教の教義を遵守し、後醍醐天皇を神と最初は崇拝していたのだが、実際あってみるとおかしな破戒僧ビッチな側室の巧言令色に惑わされ、恣意的で先を見据えないその場凌ぎの指示ばかり出し、挙句の果ては前線で戦っている連中に責任を擦り付けて雲隠れするなどあまりに無責任な行動が多く、絶望した顕家は怒りに身を任せてこの檄文を執筆し、上奏した。書かれていることは正論だったが、あまりにも身も蓋もない文面だったので、後醍醐天皇は赤面した。そればかりか、どういう経路があったのかは知らないがこの上奏文が何者かにコピーされて京都の市井に流出してしまい、天皇の杜撰な政務、采配が浮き彫りになってしまった。そのおかげで親父の親房は大層立場が悪くなり、常盤に左遷されたまま冴えない晩年を過ごしたという。

人気[編集]

現存する史料によれば北畠顕家は相応の美男子であったようで、当時から女性人気が高かった。顕家が戦死した際は全国のご婦人達がその死を悼み、戦死に追いやった高師直を不倶戴天の敵として嫌忌するようになった。後に足利直義が師直を成敗した際、直義は顕家を崇拝する女性達に「顕家公の仇を取りたいので加勢して欲しい」と呼びかけ、応じた彼女達によって師直一味はなぶり殺しにされたというからキレた女は恐ろしい。

幕末から勤皇の風潮が高まると、美男子の顕家は女性達を勤皇の道へ引きずり込む餌として尊王の志士によって利用された。皇国史観の下では腐女子の間で真田幸村など比較にもならないほど高い人気を博していて、コミケでは顕家の薄い本がコーナーの7割を席巻していたという。

ところが戦後になると、南北朝時代に言及すること自体がタブーとされるような風潮が起こり、これほどまでに女性ホイホイ属性を具備していながらも、顕家は忘れられた武将になってしまった。さらにその後は大河ドラマで女性が演じたりするなど戦前からは想像もつかない色物キャラへの転進が進みつつある。

関連項目[編集]

Wikipedia
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