厳島の戦い

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厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、平安時代末期の源義経らによる平家追討戦のひとつとされる架空の戦い。現在の広島県にある厳島神社で起こったと伝わる。

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伝説の概要[編集]

厳島の戦いまでの源義経と範頼の動き

1184年2月、屋島の戦いに敗れた平家は、100艘の船で3月16日に厳島に至る。平家は屋島の戦いで瀬戸内海の制海権をほぼ失ったが、安芸国(現在の広島県西部)以西の権益を確保し軍資金を賄おうとした。そこで平家代々が崇敬し、結びつきも強かった厳島神社に留まった。翌日には長門国(現在の山口県西部)に留まっていた平知盛も合流した。これを知った源範頼もそのとき長門国にいたが、山陽道を東進して安芸国に入った。

平家は知盛を大将として軍備を整え、源義経の襲撃に備えた。平家は海に向かって陣を敷いて二度も陸から奇襲に遭っているため(一の谷の戦い、屋島の戦い)、海からの攻撃に備えるとともに安芸国府(現在の府中町)周辺にも砦を築いて陸からの攻撃に備えていた。

3月19日昼、源範頼が厳島神社を陸から急襲した。海陸どちらの攻撃にも備えていた平家だが、あくまで源義経の攻撃に対して備えていたのみで、西方からの攻撃に対しては無防備であった。この攻撃に平家は浮き足立ったが、知将としても知られた平知盛が急いで手勢をまとめてこれを正面から迎え討ち、優劣不明の激戦となった。

しかし夕方、源義経が船で現れ平家を攻め立てた。もともと海からの攻撃に備えていた平家の兵はほとんどが源範頼との戦いに割かれていたために持ちこたえることができず、義経と範頼の挟み撃ちに遭った。平家の軍勢は壊滅し、知盛ら少数が戦場を脱し西方に落ち延びた。

伝説誕生の理由[編集]

この戦いは当然のことながら正史に残っておらず、『平家物語』や『源平盛衰記』にも記されていない。しかし室町時代にはすでにこの戦いが知られていた。

鎌倉時代に平家物語に節をつけて聞かせる琵琶法師の脚色とする説が有力である。平家物語では頼朝、義経、義仲の活躍が目立つ一方で、彼らに劣らず奮闘した範頼がほとんど登場しない。そこで架空の戦いを作り、範頼が活躍する場面を描き出した。同時に、庶民に人気のあった義経の奮闘ぶりも書かれている。さらに平家の実質上の棟梁であった知盛の奮闘の様子も挿入することで、物語の山場を増やしたものと思われる。

北条早雲斎藤道三もこの話を好んで日記にしたためており、戦国時代にはかなり広く知れ渡っていたと考えられる。同時に、知識階級にもこの戦いも実際にあったと誤解する者が多く、江戸時代には新井白石頼山陽までもがこの戦いを事実とみなしていたらしいことが分かっている。

架空との認識[編集]

幕末から明治時代初期にかけて『平家物語』や『源平盛衰記』に加えて『吾妻鏡』、『義経記』などの研究も進み、架空の戦いであった可能性が指摘された。さらに当時の航海技術の検証などからも話の設定や経過に無理があることが明らかとなり、最終的にこの戦いは存在しなかったと結論付けられた。しかし明治時代なかばまでは、小学歴史読本などにもしばしば記述が見られた。

大正時代にはこの戦いは完全に否定され、庶民の知識からも消えていった。現在ではアンサイクロペディアンのように高尚なユーモアを楽しむ人々のネタにされる程度である。

ちなみに[編集]

陶晴賢毛利元就も同じ場所で会戦したような気がするが、これもおそらくは架空の物語であろう。うん。

関連項目[編集]