叡山電鉄デナ21系電車

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叡山電鉄デナ21系電車(えいざんでんてつでな21けいでんしゃ)はかつてえいでんに存在した伝説の通勤型電車である。ただし裏の顔として観光列車とも言えなくも無かった。

概要[編集]

京都電燈叡山平坦線という路線が開通してから3年後の1928年には現在の鞍馬線に当たる鞍馬電気鉄道という(当時は)れっきとした別の鉄道会社が開業→開通した。そう、当初からえいでんは愛称こそえいでんで間違いなかったものの、現在の正式名称の叡山電鉄ではなく京都電燈と鞍馬電気鉄道と言っていたわけ。しかも京都電燈があぼーんしたのは1942年の戦争の真っ只中のどさくさに紛れこんであぼーんしてしまっており、一方叡山電鉄となったのは、つい最近の1986年のことでありその間は京福電気鉄道叡山線という風に言われていた。即ち全国どこ探しても会社名が3回も変わっているというユニークな会社、それこそ叡山電鉄だがデナ21(21・22・23・24・121・122・123・124・125・126)は京都電燈Or鞍馬電気鉄道の時代から現在の社名、叡山電鉄になってからも走り続けた栄誉のある電車である。これに関しては阪急6300系と似たような存在感を放っていたとされる。まさに叡電のアニキである。まぁ叡電の歴史を支えてきた叡電を代表する電車という感じである。1994年の引退の時は叡電史上初の全国の鉄子の旅の横見浩彦を代表とする全国の鉄ヲタたちが叡電に大量に詰め寄ってきたらしく、しかもその日は皮肉にも11月27日と叡電が最も観光客などで忙しいとされる時期だったというのも積み重なり、出町柳・貴船口・鞍馬の各駅ではグモりかけ、第二の上尾事件が発生しそうな勢いだったとも伝説として現代に伝え続けられている。引退後はグモりかけた鞍馬駅構内に生首状態で21号車の運転席部分と車輪が放置プレイされている。叡電の栄誉ある電車を放置にするとは…、しかもそれを検閲により削除で保存するくらいなら最初から1両丸々にしてほしかった…といってもいまさら後の祭り。叡電は現在となっては京都市営地下鉄烏丸線の国際会館延伸に伴う乗客減少を察知したためきららが2編成デビューしており最近ではあれとコラボっておりますます黒字になっている。そんな叡電を天国から見守ってくれる存在の電車、それこそデナ21である。 最近、京都市内の線路もないところを走っていたという報告がある。また一部では猛烈な鉄道教徒の狸が化けたものだという説もある。

事故[編集]

京福電気鉄道全体としてはあの事故が起こっているため、あまり知られていないが実は東京オリンピックと東海道新幹線が開通した年の新年早々の1月5日に121と123が二ノ瀬~貴船口間で事故って燃えて一足、いや二足速く逝ってしまった。

車両[編集]

車体[編集]

説明する前に説明文を交えてあった前日の朝日新聞にこんな記事があった。

叡山電鉄のデナ21型 親しまれ65年 あす引退 ぬくもり惜しむファン

温かみのある木造の内装と、独特の丸みを帯びたマスク。昭和初期から市民に親しまれてきた叡山電鉄の電車「デナ21型」が27日、引退する。紅葉に彩られた谷間を走る「花電車」をひと目見ようと、鉄道ファンや観光客が押しかけ、連日超満員。5000枚刷った記念切符はほぼ売り切れた。スクラップにするのは忍びなく、同電鉄はいま、引退後の受け入れ先を探している。

 「デナ21型」は1929年(昭和4年)にデビューし、左京区の出町柳―鞍馬間(12.6㌔)を約30分間かけて結んできた。長さ14.5㍍、幅2.6㍍の車両は、外装は鋼鉄、内装は木造。真ちゅう製の網棚には、手づくりならではの凝った飾り付けもある。

 照明は白熱灯で、急な登り坂でモーターをフル回転させると暗くなり、スイッチを切るとパアッと明るくなる。78年に暖房装置をつけてからは、木造独特のホカホカしたぬくもりで、冬場は特に運転手の人気が高かったという。

 デビュー当時、あまりに新しくて立派な車両に、沿線のお年寄りが裸足になって乗ったというエピソードもあるほどだ。

 しかし、寄る年波には勝てない。冷房設備は無く、加速性能は低い。最盛期には10両あった同型の電車も、89年からは年々新型に切り替えられ、今年3月からは1編成2両だけになっていた。

 かつての運転手は「窓のすき間から雪が舞い込んだりするけど、こいつのがっちりした体に比べたらアルミ製の今の車両なんて貧弱なものです。思い出深い電車をどこかで残してくれればよいのですが」と話す。

 27日午後2時からは出町柳駅で、「鉄道友の会」の会員が運転手に花束を贈る。最終は出町柳発午後7時12分の修学院行き。(朝日新聞 1994年11月26日付け 朝刊)

昭和時代の同線はこいつを含めて言うまでも無くDQNじゃない野上電気鉄道だった。車両は勿論古く、叡電の場合は(嵐電も同じだけど)乗務員、駅員の服装まで戦前までよく見られた学ランモドキだったので時代は高度経済成長期、しかし電車は戦前の電車といった感じだった。この頃の叡電は今とは別の意味で鉄道教徒の聖地となっていた。また今ではきららが観光客のお目当てだがこの当時は観光客こそ少なかったものの鞍馬に行く観光客はこいつ目当てでやって来ていたともいわれる。そんな観光客にとって出町柳駅3番線で電車を待っててやってきた電車が前面を丸帯びた可愛いデナ21だったらホーム上でも興奮して失禁してしまうほど人気だった。

車内[編集]

木製で今のN電(デナ21の師匠)と同じく飴色の壁で天井は白く白熱灯が付いており鉄道教徒が乗ると確実に興奮していた。車掌がパチンとパンチを鳴らすと興奮しすぎて叡電を満喫したあと、帰宅して彼女とアーン♥♥な事になる鉄道教徒も後を絶たなかったらしい。

当時[編集]

当時の京福叡山線は上にも書いたが古い電車ばかりで1位からこんな感じで有名だった。

第1位 言うまでも無くデナ21
長所
鉄道教徒の興奮の原因。
20番台と120番台があるが最終的には共通運用が組みやすかったということ。
短所
事故により廃車になった121と123が抜けており車籍管理上、問題があった。
第2位 阪神のお古、野上電気鉄道の親戚のデナ500
長所
近郊区間でよく遭遇する叡電の第二の顔的存在。
連結運転でもポール1本で済む。
貫通幌のおかげで車掌1人で済む。
短所
電気ブレーキが無く二軒茶屋以降運行できないうえに当時は二軒茶屋行きなんて無くって代わりに岩倉行きなるものが走っていたため実質岩倉までしか入線できなかった。

関連項目[編集]