向こう三県領土なり

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向こう三県領土なり(むこうさんけんりょうどなり)とは、一般的な戦国時代を舞台にしたゲームにおける重要な思想である。

概要[編集]

一般的な戦国ゲームにおけるシステム。それは、領地の豊かさと優秀な人材という2つの大きな軸が絡み合うことで、ある特定の大名が勢力を伸張、プレイヤーと競い合うことが面白さの根幹に位置している。そのため、強い勢力はひたすら強くなり、弱い勢力はサヨウナラ。そういった分りやすい環境の中で培われたのが、弱小大名とは存在自体が近隣の強豪の領土という考えである。

様々な事例[編集]

以下に、向こう三県領土なりと言い切れる代表的な大名と未来における彼らの領土を説明する。場合によると向こう三県どころではなく向こう四県、もしくは五県領土ともなりえ、その際は出遅れた強豪勢力を一瞬にして吸収する場合も多い。

島津家
向こう三県を一瞬にして領土にする勢力の代表格。
開始時期にもよるものの、戦国ゲームで一般的な1560年スタートの場合、優秀すぎる人材と破格の鉄砲生産力によって自らの領土薩摩の隣の大隅肥後、さらには日向なども一瞬にして飲み込むため、そのほかの九州の強豪である大友家や竜造寺家などは、何よりもまず島津対策を行わないといけない。そして、対応を間違えるとあっという間に向こう四県となり、即座に五県となるのが島津という生き物の特徴である。
武田家
関東甲信の雄にして、島津家に並ぶ人材の宝庫。惜しむらくは最初の領土である甲斐の生産力の低さのせいで、巨大戦力を有するには少々時間がかかるけれども、信濃上野美濃といった地域に進出できれば、あっという間の上洛すら可能である。
北条家
関東の雄。基本、人材については島津、武田両家に劣るものの、雄大な関東平野には弱小勢力しか存在しないため、最初の領土である相模から武蔵を制圧すれば、その先には上野下野上総下総安房常陸といった領土を切り取りたいだけ切り取れる利点がある。
三好家
人材不足著しい近畿における最強の勢力。基本的には弱兵に弱将しかいないものの、その強力な資金力からまたたくまに鉄砲を配備。最初の領土である阿波淡路和泉などから一気に河内山城を制圧。周辺地域である大和丹波近江などを押さえることで、弱兵でありながらも大勢力を整えることが可能である。
ただし、いかんせん、当主である三好長慶の寿命が短いため、その後の戦略などで大変苦労することでも知られている。
毛利家
中国地方の雄にして、三好家以上に当主の寿命が気になる家。
ただし、毛利元就の能力はたいていの場合ゲーム内で一番であることが多く、寿命も戦国時代にしては長命であるためゲーム上では大勢力化してから優秀な子孫への代替わりを迎えるパターンがほとんどである。
また、基本的に人材不足の中国地方の中で例外的に人材に恵まれた家であることから、最初の領土である安芸から瞬く間に山陽道を駆け抜けて周防長門備後備中備前を制圧。山陰に侵攻して石見出雲伯耆因幡但馬まで、のき並み弱小勢力しか存在しないのだから恐ろしい。ただし、これらの国は総じて国力が低く、大勢力を有しながら兵力が不足がちになることも一種の宿命である。

対抗勢力[編集]

こういった強国には、必然的にライバルというものが存在する。中部地方における織田信長や北陸の悪夢上杉謙信、さらには人材不足のくせに本人の能力と国力だけはありやがる今川義元などは、最初期に弱小勢力と対峙せずに強豪とかち合うため、簡単には勢力を伸張できない。けれど、ひとたび強豪同士の決戦を制すれば、瞬く間に強大な国力と多大な人材を有することとなるため、場合によっては目も当てられない状況になることも多い。

武田家の人材を吸収した上杉謙信なんてものは、たとえこちらの勢力が日本の半分を制圧していたとしても悪夢である。

他にも、ゲームごとに様々な勢力に変化する本願寺顕如の率いる一向宗勢力や忘れちゃいけない徳川家康、さらに、四国という立地的にみて最もいやらしい場所を制圧しやすい長曾我部元親などが、向こう三県をあっという間に制圧する連中に立ちふさがる。だからこそ、ゲームとして面白く、プレイヤーの情熱を引き出しやすいといえる。

なお[編集]

なお、現実的な話をするならば、いくら人材と国力を有していて力こそ正義のように見える戦国時代でも、基本は外交と地元の勢力の慰撫である。どんなに強大な戦力を保有しても、いくさの際には地元から離れれば離れるほど兵糧が必要となり戦力を整えるための金銭が大量にかかり、なおかつ、地元の人間と敵対したら一揆は当然で占領後も多大な労力が必要になる。そのため、弱小国を占領したとしても、まずはそこの人材を積極的に登用して人心の慰撫に当てるのが常識であり、むしろ弱小勢力はそうやって地元との結びつきを強め、近隣勢力との調整をはかることで戦国時代を生き抜いてきたのが歴史というものである。

その考えは戦国時代以降も引き継がれ、日本人は自らの家を領土とした場合、入り口から見て両脇に位置する家と正面の家、さらには斜め前にある家との付き合いを大事にすることで、強大な戦力と対峙しても、地元とのつながりで生き残る術を身に付けていくこととなる。

関連項目[編集]