呂蒙

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呂 蒙(りょ もう、178年 - 219年)は、字を子明。三国時代のの名将。また、暴走族から予備校の講師になったという異色の経歴を持つ。

今、まさに関羽との戦いに赴こうとする呂蒙。溢れ出る知略を感じる。

暴走族から大学生へ[編集]

汝南郡の人。姉の夫が総長であった縁故で、若くして汝南郡を代表する暴走族「汝南卑穢呂(ピエロ)」の二代目総長となる。近隣の暴走族をつぶしに呉まで遠征に出たところ、当時真面目一辺倒の厨房で、かつ仲謀でもあった孫権と出会い、その才を見出された。 というよりは、お節介にも「少しは勉強くらいした方がいいんじゃないの?」くらいのことを言われて小馬鹿にされた。呂蒙は孫権の言葉を特に気に留めようともせず、生意気な仲謀とばかりにかつ上げをし、挙句す巻きにして長江に投げ込んだ。

なお、このす巻きにされた孫権を助けたのが、当時江賊であった周泰であった。この出会いによって周泰は孫権の兄孫策によって登用され、後には孫権の危難を度々救ったのであり、間接的に呂蒙が孫権の命を救ったとも言えよう。

その後、呂蒙は孫権から残業課題を「読書感想文」にされ、付き合っていた女性に「大学くらいは出てもらいたい」という旨の言葉を吐かれた挙句、大学卒の官僚へと浮気されたことで屈辱感から奮い立ち、わずか半年にも満たない間の猛勉強で、ものの見事某大学に合格してみせた。後に、呂蒙はこの大学受験への経緯を、「汝非阿斗(多分お前は馬鹿じゃない)」という題名で書にまとめ出版し、同書は当代のベストセラーとなった。倭訳した本が小学館から出てるよ。

また、この時後に上司となる地元の名士魯粛にその努力を認められ、「呉下の阿蒙にあらず(呉まで遠征に出かけたときの蒙ちゃんとは違うよね)」と評されたこと、そしてその魯粛の言葉に「士別れて三日刮目して相待すべし(受験生なんていうものは三日もたてば、偏差値は1~2くらいは上がっている)」と呂蒙が豪語してみせたという逸話は有名である。

予備校講師から武将へ[編集]

大学卒業後、呂蒙は有名予備校呉ゼミで教鞭を振るい、古文の人気講師として何億という金を稼ぎ出した。その後は講師業を辞し、悠々自適な日々を送っていたところ、その著書をブログ記事に盗作されたことをきっかけとして孫権に仕え、武将として頭角を表した。武将としての呂蒙は、208年赤壁の戦いやその直後の江陵の戦いで功績を挙げ、偏将軍・尋陽県令に任命された。

魯粛の没後、呂蒙はその後任として呉の軍事の全権を委ねられ、都督に任ぜられる。呂蒙は、直接大国のを攻撃しても効果が薄いと考え、が締結を無視して占拠していた荊州南部の全域を奪い返し、そこを足がかりとすべきだと主張した。

関羽を殴って逮捕されかける[編集]

219年当時、荊州に居座る蜀の名将関羽は、己の低学歴を恥じて今更ながらも大学受験を志していた。これに対し、昔取った杵柄よろしく、呂蒙は関羽の大学受験のための特別講義を開いてやるとして呉ゼミ・麦城校舎へとおびき寄せたのである。

だが、呂蒙は講義のさなか腹が痛くなったと偽り、後任の講師として無名の青びょうたん陸遜を指名して教室を退出、関羽を油断させた。 当然関羽は陸遜をなめまくり、講義中にもかかわらず机に頬杖を付き、ガムを噛みだし、さらにはモンハンをやり始め、挙句麦城校舎から逃亡しようとした。 だが、これは当然呂蒙と陸遜の策である。麦城校舎からバックれた関羽をとっ捕まえて、呂蒙はこう言った。

「おい、そこのお前。いいか。そこのひげの長いやつ。そう、お前だよ。お前なに勝手に退出してるんだ、この野郎。お前、俺が必死で授業やってたんじゃないかよ、この野郎。お前、ガム食ってただろう?ゲームやってただろう?俺をなめんなよ。いいか?二度とここにツラ見せるなよ。いいか二度とだぞ?どうせお前みたいな根性じゃ大学なんざ受からねぇよ。」

そして関羽を殴り倒し、全治二週間の怪我を負わせ、蜀へと追い返したのである。なお、授業を進めていたのは呂蒙ではなく陸遜だなどと言ってはいけません。とばっちりで貴方がぶん殴られます。

当然、この呂蒙の仕打ちに腹を立てた馬鹿な保護者(劉備)は真っ赤になって呉へと怒鳴り込んできた(夷陵の戦い)。 呂蒙は警察署へと連行されたが、反戦派の諸葛孔明に示談金を渡すことで体よく和解することに成功したのであった。 一方、これを不服とした馬鹿な保護者は、怒りから体調をくずし病死してしまった。いるんだよね、こういうやたらと子供を甘やかす馬鹿親。

その最期[編集]

『正史』では「荊州を落とした後に病死した」と言う穏やかな最期であった。しかし死んだ時期が悪かったせいか羅漢中に目を付けられ、『演義』では関羽の霊に憑り付かれて孫権を罵倒した挙句、「体中の穴と言う穴から血を噴出して死ぬ」、と言うバイオレンスな描写に満ちた最期を迎えてしまった。

逸話[編集]

暴走族という出身ゆえか、その荒っぽさを示すようなエピソードが意外に多い。

  • 江賊出身で、ガチヤクザの甘寧を生意気だといって因縁をつける。
  • 荊州で民から笠をカリパクした同郷の兵士を成敗だと称してぶん殴り、全治一週間の怪我を負わせて賠償金を払う羽目となる。

語録[編集]

  • いいかあ~?しっかりやれよお前。お前は馬鹿じゃないんだ。誰だってやれば都督くらいにはなれます。
  • 赤壁の曹操の船をな、四角でくくったら線でつないでおこーう。いいかあ?これを「連環の計」って言うんだ。これは試験に出ます。

関連項目[編集]