多治見国長

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多治見 国長(たじみ くになが、正応2年(1289年) - 正中元年9月19日(1324年10月7日))は、鎌倉時代末期の武将で、正中の変が頓挫する元凶を作った人物。美濃国の豪族、美濃源氏土岐氏の一族で、あまりにも地味すぎて存在を忘れられていることを自虐して「地味すぎる→多地味→多治見」の姓を名乗った。

人物[編集]

うだつの上がらない地味な人生を送っていた国長だが、日野資朝の勧誘を受けたことで人生が一変する。資朝は、後醍醐天皇の密命を帯びて、自分達のクーデターに荷担して、鎌倉幕府打倒に協力してくれそうな武士を探し、勧誘を行っていた。鎌倉幕府は徳政令出しまくるほど財布が寂しい財政危機に陥っていたり、一方では内輪揉めを起こしたりと、幕政が安定を欠いていたが、未だ勢力は盛んで、真正面から挑んで勝てる相手ではまずない。まともな判断力を持つ武士達は、資朝の勧誘を慇懃に断っていた。

その一方で、資朝らの勧誘を承諾し、無謀な倒幕に荷担する馬鹿もいた。その筆頭が多治見国長であった。田舎武士ゆえ情勢に疎く、ついでに目立ちたがりの国長は、資朝の勧誘を受けると、何ら思案することなくホイホイ承諾してしまう。国長は調子に乗って、自分が土岐一族を説得して一族全てを後醍醐帝の味方にしてみせると啖呵を切った。虚言ではなく、国長は本気でそうできると考えていたのだ。

資朝の勧誘を承諾した国長は、早速土岐一族の説得に着手する。幕府が腐敗し倒壊寸前であること、後醍醐に協力することで得られる利益の大きさなどを説いて回り、後醍醐に荷担するよう促した。土岐一族らは、皆色よい返事をした。中でも土岐頼兼などは奮励し、積極的に倒幕に協力する姿勢を見せた。国長は手応えを感じ、欣喜雀躍した。喜びは饒舌を増長させる。国長は、土岐一族に、倒幕計画の綿密なプランの内容を告知し、吹聴した。既に国長は、倒幕は成就すると信じて疑わなかった。

いざ、倒幕計画が実施にうつされると、積極的に協力したのは土岐頼兼一人であった。それ以外の土岐一族は、皆静観した。どころか、一部の連中に至っては、国長らの画策を鎌倉の北条高時に密告した。国長は、計画の詳細を彼らに偉そうに吹聴して回った。つまり、倒幕計画の概要は幕府に筒抜けになってしまったことになる。

当然、倒幕計画は頓挫、先手を打った幕府の奇襲によって、クーデターは鎮圧される。日野資朝らは捕縛され、国長は土岐頼兼と共に京都の屋敷でクーデター成就を夢想し悦に入っていたところを、クーデターに賛同してくれる同志のはずであった土岐頼員らに強襲され、あっさりと討ち取られてしまった。

影響[編集]

倒幕計画に多くの人々が呼応せず、それどころか幕府に密告されたのはある意味当然と言える。幕府は斜陽を向えていたが未だ力は旺盛であり、その上、後醍醐天皇や日野資朝らによる倒幕計画は杜撰かつ場当たり的で、勝算は殆どなかった。建武の新政の末路が証明しているが、後醍醐一味は既得権益さえブッ倒せば世の中は良くなると思い込んでいる革命家気取りの集まりで、土岐頼員どころか、天皇の近臣である吉田定房ですら、謀議のあった旨を幕府に密告している。無謀であることを悟った上で、後醍醐への被害を極力防ぐ為の密告であった。後醍醐や日野の計画は、性急かつ、早計であった。そんな早計な計画に乗ってしまった多治見国長は、歴史学者達から「早漏武将」の烙印を押され嘲笑される羽目になっている。

一方で、国長がベラベラとクーデターの詳細を吹聴しなければ、あるいは倒幕は成功していたかもしれない。楠木正成赤松円心など、倒幕の志を燃やす武将達が、着々と台頭しており、蜂起自体が成功し、少しでも長く持ちこたえられれば、あるいはそういった勢力を呼応させることに成功したかもしれない。

しかし、事前に幕府に露見し、迅速に鎮圧されてしまったことで、正中の変は周囲に飛び火すらせず、ボヤ騒ぎで終わってしまった。国長の間抜けが招いたことである。その間抜けっぷりによって、倒幕は10年近く遅れてしまうことになる。

評価[編集]

そんな国長だが、皇国史観下では、帝への忠節に励み、衆寡敵せずとも果敢に幕府に立ち向かって散華した忠臣として人物像を歪曲され、礼賛された。当然、忠臣フィルターがかかり、敵に情報筒抜けにさせてあっけなく討ち取られた馬鹿なのに、さも名将であるかのように扱われた。国学者本居宣長も、自分の宣長の「長」の字は名和長年の「長」であり、また多治見国長の「長」である。帝に忠節を尽くした名将と同じ名を名乗れるのは光栄の極みであると語っている。

後世への影響[編集]

しかし多治見国長も武士の端くれ、ただ犬死はしなかった。

多治見市熊谷市などと並んで、夏が滅茶苦茶暑い、日本の中でも暑さで五指に入る自治体である。なぜこんなに暑いのか?理由は明白である。多治見国長の怨霊の所為である。

志半ばにして果てた多治見国長は、当然満足に成仏できるはずもない、彼岸の季節になると定期的に怨霊として現世に現れ、怒り狂ってその辺のドラム缶とかに八つ当たりしてゆく。この国長の収まらぬ憤怒が具現化し、高い気温、猛暑となって現実世界に反映されている。ゆえに、多治見市は暑いのである。

多治見市民は、気温が高まってくると、国長の亡霊を鎮撫するために、国長の墓前に御饅頭などを備える。しかし、時は流れ、そもそも多治見国長の墓所さえ知らない近頃の若い者が増えているので、最近では閑古鳥が鳴いている。結果、国長の憤怒は収まるところを知らず、2013年には夏に40度を超える記録を叩き出してしまった。

関連項目[編集]