大江広元

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大江 広元(おおえ の ひろもと)とは、源頼朝による武家政権の樹立に大きく貢献した、京都の下っ端官僚である。毛利元就の御先祖様としても有名で、子孫である元就同様、権謀術数が大好きな人。その狡猾さで粛清が横行する鎌倉時代初期を生き延び、幕府の元勲として名を時代に刻んだ。

人物像[編集]

彼がいかに凄い人物であるかは『吾妻鏡』を読めば分かる。守護地頭の設置を始め、鎌倉幕府の主要なシステムの構築は、広元が発想し頼朝に進言したことで実現したものだと書かれている。しかし吾妻鏡は編纂に広元の子孫が干渉しており、広元を礼賛するために誇張が書かれた可能性が濃厚であることを考慮しなければならない。早乙女貢や中村彰彦の小説が露骨に会津贔屓であるように、吾妻鏡の広元も過剰に礼賛されていると考えた方が妥当である。

広元にまつわる有名なエピソードとして、生まれてこのかた涙を流した事が無いという発言が有名。これは広元が文字通り血も涙も無い冷血漢であった証左として言及されることの多いエピソードだが、広元は身体的な障害によって涙を流すことが出来ない身体であったという解釈も成り立つ。よって広元を冷血漢というマイナスのイメージで評価する際にこのエピソードを援用すると、障害者に対する差別であると糾弾される可能性があるので気を付けた方がいい。

来歴[編集]

歴史の教科書にも出てくるほどの有名人である広元だが、生い立ちについては錯雑としている。まず、親父が明確ではない。大江匡房の子惟光だという説もあれば、藤原光能を親父だと主張する学者もいる。これは広元の親があまり偉い地位についていなかったこと、そして広元自身若い頃はうだつの上がらない人物であったことを端的に表している。

母親が再婚した関係で最初は中原の姓を名乗っていたらしい。大江の姓で呼ばれるようになったのは死後で、広元は生涯中原の姓を名乗っていたと主張し、「中原広元」と呼称する史料や学者もいるが、今日では「大江広元」という呼び名の方が浸透しているので大河ドラマなんかでもこっちの表記が採用されることが多い。中原が正しい姓だと主張する学者さん達は自分達の説が定説として受容されなかったこと、何より後世の連中は正しい姓はどっちかなんてどうでもいいと考えていることを認識すべきである。

中原氏は代々法学を家学とする家柄で、広元も幼少の頃から法律の勉強に打ち込み、ザル法を悪用して相手を陥れたり「不正行為を合法的に行う」術を学んでいった。そういうことばかり学習するものだから自然と狡猾な人間になってしまったのは言うまでもない

1180年代に、源頼朝にヘッドハンティングされ、大都会京都から当時は閑散としていたド田舎の鎌倉に下る。同僚達はついに気が狂ったと評したらしい。智謀で知られる広元だが、諸葛孔明よろしく仕官に際して頼朝が三顧の礼を以ってして要請したなんて話は一切ない。どういう経緯で頼朝に仕えたのか、今ひとつ判然としない。

広元はあくまで官僚なので、頼朝が平家とドンパチやっていた源平合戦の頃はあまり顕著な活躍は見られないが、DQNの弟君はじめ脳筋野郎どもが前線が暴れ回っている間にも、裏方で大車輪の活躍を見せていた。

本格的に躍動するようになるのは戦乱が収束し、武家政権が樹立されて以降である。多くの政策の策定、実施に関与し、京都出身という立場から朝廷との折衝も任され、幕府中枢で大きく活躍した。これだけ活躍すれば嫉妬や憎悪をそれなりに買っていてもおかしくない。しかも広元は多くの幕府主要メンバーが武士であるのと異なり京都出身の吏僚で、仲間はずれである。排斥運動の一つや二つ起こっていても不思議では無いが広元が排斥されようとした形跡はほとんど見られない。処世術が上手だったことが容易に推測される。梶原景時をスケープゴートにして自分への憎悪、嫉妬を叛けていたといも言われている。

ヘタレぶりを露呈する広元[編集]

頼朝の死後も重用され、中枢で活躍する広元だが、ある事件で能吏らしいヘタレぶりを露呈してしまう。嫌われ者であった梶原景時が、彼を可愛がっていた主君頼朝の死で後ろ盾を失ったため、これを好機と踏んだ他の御家人達が一気呵成に排斥運動に着手した。この時広元は積極的に景時排斥に荷担したくなかったのだが、和田義盛に脅されて景時への弾劾状を頼家に奏上する役目を任ぜられる。広元は唯々諾々と従わざるを得なかった。この醜態を見た市井の人々は、やはり広元も畢竟は能吏、ヘタレぶりを露呈してしまったかと嘲笑した。だが広元はこの一件で自分を脅した和田義盛に怨恨を抱いたようで、後に義盛が粛清されることとなる和田合戦では北条義時に協力して和田一族滅亡に荷担した。

嗅覚の鋭い広元は頼朝の死後北条氏が勢力を拡張することを鋭敏に嗅ぎ付け、時政、政子、義時らに追従して忠実な下僕となる。

能吏らしからぬアグレッシブな面を見せる[編集]

1222年、承久の乱が勃発。ここで広元は能吏らしからぬアグレッシブな一面を見せる。幕府の首脳陣は、後鳥羽上皇に朝敵の烙印を押されてしまったこともあって萎縮しており、進撃してくる官軍を箱根の関で迎撃する慎重論が主流となっていた所に、出家して覚阿と号していた広元が一喝を入れ、逆にこちらから京都まで攻め上ることが上策であると進言した。

京都へ攻め上る提案をした背景には、迎撃ではジリ貧になり、裏切りが頻出して敗北することが明白であるという広元の見通しがあった。が、何より彼が京都進撃を進言した動機には、京都の連中に対する怨嗟があった。

広元は、それなりの家に生まれたが、所詮京都ではうだつの上がらない下っ端の官僚であった。名のある貴族からは上から目線で馬鹿にされ、歯軋りする日々を過ごしていた。鎌倉へ下ったのも、下っ端と馬鹿にされながらうだつの上がらない仕事を続けることに辟易したからだという見解が有力視されている。拡張した武家政権の勢いを持ってして、京都に攻め上り、自分を馬鹿にした連中を蹂躙してやるという熱い思いが、広元の胸中で滾っていたのである。

承久の乱でかなりヒートアップして積極論を展開した広元だが、相当な高齢にもかかわらずヒートアップしすぎてすっかり燃え尽きてしまい、4年後に78歳で病没した。なお長男の大江親広はどういうわけか承久の乱で後鳥羽上皇サイドについて放逐され、四男毛利季光は宝治合戦で義侠を尊重して妻の実家である三浦泰村の側に与して見事なSEPPUKUを遂げている。親父と違って息子達は狡猾さや時勢を見通す慧眼を持っていなかったようだ。こういう親子の性格、資質の相違は子孫である毛利元就にも該当することである。