天正遣欧少年使節

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日本に帰国後の天正遣欧少年使節。この純ヨーロッパ風の格好で活躍した。

天正遣欧少年使節とは、16世紀に一世を風靡した日本のヨーロッパ風ビジュアル系4人組男性アイドルグループである。8年に渡り行われた海外ライブツアーが特に有名であるが、帰国後も国内で活躍した。

概要[編集]

当時日本にいたイタリア人プロデューサーであるアレッサンドロ・ヴァリニャーノにより結成されたグループである。ヴァリニャーノはヨーロッパを拠点を置くアイドル発掘専門組織、「イエズス会」の一員で、様々なアイドルが群雄割拠する当時の日本の日本のアイドル戦国時代に一石を投じる為にイタリアよりやってきていた。彼や、彼の前に日本を訪れたフランシスコ・ザビエルのような敏腕プロデューサーにより、九州を中心に「キリシタン」と総称されるヨーロッパ風アイドルグループが一世を風靡していたが、天正遣欧少年使節はその集大成とも言えるグループである。

メンバーは、九州のローカルアイドルをキリシタンアイドルとしてプロデュースすることを決めた中堅芸能事務所の大友プロダクション、大村プロダクション、有馬プロダクションの計3プロダクションから、オーディションで選抜された4人である。4人は共にアイドル育成学校「セミナリヨ」の出身であった。

ヴァリニャーノは天正遣欧少年使節をこれからのヨーロッパ風アイドル時代を担う存在と位置付けていた。その為にはヨーロッパ風アイドルの本場での経験が必要だと考えており、結成間もない1582年にヨーロッパへ向けた海外ライブツアーを実施した。足掛け8年に渡るこの世界中でのライブ公演は好評を博した。

メンバー[編集]

全員結成当時は13〜14歳の少年あった。

伊東マンショ
大友プロダクション所属で、同プロダクション社長の大友宗麟と親戚関係にあった。天正遣欧少年使節ではセンター・メインボーカルを務めた。ダンスの腕も良く、トスカーナでのダンス部門のライブバトルでは現地で「プリンセス」と呼ばれるトップアイドルと熾烈なバトルを繰り広げた。
千々石ミゲル
大村プロダクション所属で社長の大村純忠の甥にあたる。でありながら有馬プロダクションの社長とも血縁関係があった。天正遣欧少年使節の副リーダー。リスボンでのライブではマンショとデュエットでパイプオルガンを披露した。
中浦ジュリアン
有馬プロダクション所属。メンバーの中で最年長だった。ローマでのライブで高熱を出していたにもかかわらずライブに参加した。ダンスは下手だったようで、トスカーナでのダンス部門のライブバトルではベテランアイドルにいいようにあしらわれている。
原マルティノ
元々大村プロダクションに所属していたが、天正遣欧少年使節結成時は有馬プロダクションに所属していた。最年少だが帰路のゴアにおいてメンバー唯一単独ライブを経験している。

海外ツアー[編集]

天正遣欧少年使節は1582年から1590年まで海外ツアーを行っていた。ヴァリニャーノの狙いはライブを行い経験を積ませると共に、天正遣欧少年使節を「ヨーロッパ風」アイドルではなく純ヨーロッパアイドルとすることであった。その為、ヨーロッパ内の流行の発信地となっている諸都市でライブを行なっている。

1582年に長崎を出発するとまずマカオで公演を行った。マカオでのライブは超大好評で当初は数日だけの予定だった滞在は大幅な延長を求められた。本来であれば目的地がヨーロッパであるため滞在の延長はタブーであったが、彼らは風待ちと称してマカオで数ヶ月にわたりライブを行った。その後、マラッカやコチンでのライブを経て、現地での熱狂的な歓迎により予定を遅れさせられたものの、1583年末、ゴアに到着する。

ゴアでは天正遣欧少年使節のプロデューサーであったヴァリニャーノが後進の育成のためにここで天正遣欧少年使節の担当から外れた。ゴアからはヌーノ・ロドリゲスがプロデューサーとしての任についた。

1584年、ポルトガルのリスボンに到着。これより二年間に及ぶヨーロッパライブツアーをスタートさせる。 1585年、現イタリアのトスカーナ公国で行われたライブバトルに飛び入り参加する。四人はダンス部門に参加し伊東マンショが審査員特別賞を獲得した。その後、ピサで開かれた欧州最大級のアイドルイベント「アッシュ・ウェンズデイ」に特別参加した。また、その後のローマでは「イエズス会」の名誉会長であるグレゴリウス13世と面会。会長は四人をイエズス会直属のアイドルとすることを明言した[1]

天正遣欧少年使節を紹介するドイツの新聞。彼らはドイツではライブを行わなかったにも関わらずドイツにまでその活躍が轟いていた。

その後はヨーロッパのアイドル活動の中心地であるヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどでライブを行った。好評を博すと共に、四人自身も得るものは多かったという。

1586年、ヨーロッパでのライブツアーを終えて帰国の途につく。翌年、インドのゴアで後進の育成を行なっていた先代プロデューサーであるヴァリニャーノと再会。ここで、日本帰国後の天正遣欧少年使節の売り出し路線についてヴァリニャーノを含めて大激論が交わされた。先述した原マルティノのソロライブはゴアでの迷走の象徴でもあるが、ニ年間にも及ぶ議論の末、ヨーロッパ色を前面に押し出した四人組ユニットとして売り出す、というヴァリニャーノの当初からの考えが認められた。

1590年、長崎に帰国。当時としては最大規模の海外ツアーは八年間に及んだ。

帰国後[編集]

帰国後はヨーロッパ帰りの貴公子として九州を中心に活躍をした。当時、ヨーロッパ風アイドルは多かったが、ヨーロッパ帰りのアイドルは彼らだけであり、その唯一性から注目を受けた。

1591年には「SHICHIHON槍」や「ゴタイロウ」といったアイドルをプロデュースして、アイドル界のドンとなっていた豊臣プロダクションの社長である豊臣秀吉の前でライブを披露すると、その能力を買われ傘下へ移籍することを勧められたが、四人は断った。四人はイエズス会にも正式に入会し、後進の育成にも当たった。ヨーロッパ風アイドルの日本での人気拡大を嫌って潰しにかかっていた秀吉だが、四人にはノータッチであった。

しかし秀吉が亡くなり、豊臣プロダクション没落後に「SHITEN NO U」や「ゴサン家。」で知られる徳川芸能事務所の徳川家康がアイドル界のドンとなると、四人には逆風が吹いた。純和風アイドルを多数プロデュースする徳川家康はヨーロッパ風アイドル全般を例外なく日本国内の主なライブハウスから締め出して、本気で潰しにかかったのである。既に大友プロダクションは秀吉の時代に別件で倒産していたが、大村プロダクションも有馬プロダクションも家康の圧力でヨーロッパ風アイドル事業から撤退してしまい、天正遣欧少年使節は解散せざるを得なくなった。

解散後、純和風アイドルに転向した千々石ミゲルを除く三人はソロでヨーロッパ風アイドル活動を続けた。しかし伊東マンショは1612年に長崎で病死。原マルティノは日本を追われてマカオに活動拠点を移したものの日本で再び活動することはできず1629年に亡くなった。中浦ジュリアンは地下に潜伏する地下アイドルとして密かに活動を続けたが、とうとう家康の孫の家光が社長の時に見つかってしまい、粛清されました

関連項目[編集]

Wikipedia
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脚注[編集]

  1. ^ その直後会長が急死し、実際にイエズス会直属となるのは帰国後であった。