お客様

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お客様(-きゃくさま)とは日本神話に登場する一柱の神の名である。「『古事記』では「大武会栄命(おおむかえのみこと)」、『日本書紀』では「御迦倶差真」と記される。様々な家を訪れて、食えるだけ飯を食いまくった挙句、居間でごろ寝する者を司る神である。あまりに局地的なものを司りすぎているため、果たしてこんな神を祀る必要があるのか、と今日まで議論の的となっている。

神話での記述[編集]

『古事記』によれば、神産みの最終段階で黄泉の国から戻ってきたイザナギを行い、その夜に宿泊した宿で放屁をした際に生まれた神とされる。それによれば、放出された屁はふわふわと宙を舞った後に人のような形をし、イザナギに供された飯を食い荒らした挙句、食後のデザートにも手を出し、さらにはお代わりまで要求するという暴挙に及んだ。

楽しみにしていた食後のプリンを奪われたイザナギは我を忘れるほど怒り狂い、その新たな神を永久にこの宿に封じ込め、客間にて客をもてなし続けることを命じ、名を単に「客」とだけ名づけて去っていった。しかし、まるで中二病を発症したかのようなエゴイストである御迦倶差真は、「自分を封じ込めるイザナギの方が悪い」と自らが招いた境遇に不満を抱き、ついぞイザナギが定めた使命に従うことはなかったと言う。

『日本書紀』ではイザナギが楽しみにしていたデザートには栗羊羹であったとされており、記紀で記述が一致していない。このため、プリン派と栗羊羹派の学者の間では長い論争が続いているが、どうも学者の好みに基づいた感情論だけで議論が続いているようである。

また御迦倶差真は、兄に当たるスサノオを後に出雲の宿で出迎えたのだが、やはりまったくもてなす気がなく、そればかりかスサノオ相手に「ねーね、何でヤマタノオロチって七つしかマタがないの?」であるとか、「っていうか、つくよみたんってかわいくね? クシナダなんておばちゃんでしょ?」などと失礼なことを平気でのたまった。しかもまたもや、スサノオが楽しみにしていたデザートのバナナを平らげてしまったのである。このためスサノオはついにマジギレし、手元にあった天叢雲剣を投げつけたが、御迦倶差真はケタケタ笑い声を上げるや否や、いずこへともなく去っていったと言う。

その後の民間信仰[編集]

こうした典型的中二病に毒された神であったがために、徐々に御迦倶差真を祭祀しようという神社はなくなっていった。しかし、明治以来の国家神道の興隆で再発見され、第二次世界大戦中には「人を困らせることを神徳とする神を祀り上げることで精神的修練に繋がり、結果的には己を鍛えることができるという意味では割と利用価値がある」といかにも後付っぽい時代の要求から、急激に日本中に広まった。

これを契機に、マイナーな旅館などの守り神というよりは、迷惑な訪問者全般を司る神としての立場を確立。嫌々ながらももてなさざるを得ないようになり、旅館経営者や従業員は「お客様は神様です」と念仏のように唱えることで淡々と自己修練をするようになったという。大正期には旅館の訪問者をまとめて『客』あるいは御迦倶差真から転じた『お客様』と呼び、人と神とを同一視するようになった。このため、一部の旅館では丁寧に訪問者をもてなすことがそのまま神を祀ることに通じると信じられ、心づくしの接客でもって商売の無事を祈る代わりとした。普段から供物を怠れば、迷惑な客が訪れると信じられ、実際にそのような客が訪れた後は盛大にを撒くなどの禊を行うこともあったという。

また神仏習合の際には、中二病を司る神としてまぜこぜになった時期があるため、御迦倶差真は後に中二病治癒の神様として、ウェブサイトの経営者から丁重に祀られるようになっていった。近年のIT業界などでは、この傾向が顕著である。また、御迦倶差真はしばしば彼氏彼女以上に長い拘束時間を要求するため、戦後アメリカから流入した恋愛依存症寛解の唯一神として一部で崇められている。

近年、アマラオ王国に食客として招かれていた松岡勝治が「お客様は神様」宣言をして神となり、内乱を鎮めて神権政治を行ったことは記憶に新しい。

関連事項[編集]

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お客様が放った発言は、後世の物好きのために、有志たちによって「Unquotable/神」へ収録されています。