小栗上野介

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「やってくれる男。それが小栗旬だ。」
小栗旬 について、大野智
「オイィィィィィィ!!書き込むところ間違ってるよアンタ!!」
大野智の台詞 について、志村新八

小栗 上野介(おぐり こうずけのすけ)は、坂本龍馬西郷隆盛勝海舟ほどの認知と名声を得る事は叶わなかったが、狷介な一部の歴史オタクを中心に熱烈な支持を受け礼賛されている幕末の英雄の一人。とにかく不幸な人。怜悧だが傲岸な面もあり、勝海舟のような八方美人でもなかったため、周りにあまり味方はいなかったようだ。俳優の小栗旬は、大河ドラマで小栗とキャラがかぶる(利発だが傲然、友達少ない、嫌われ者)石田三成を二回も演じたことから、おそらく子孫であろうと推測されている。司馬遼太郎からは海軍の父なんて洒落た二つ名を貰っているが、軍艦、戦艦の艦長を務めた経歴はない。海軍の雛形が出来るより前に死んだんだから当たり前の話だが。

なお、福地桜痴が維新後発行したゴシップ紙によれば、とある軍馬獣姦に及んだ事があるらしく、仔馬まで設けてしまったらしい。その仔馬は人と馬のハイブリッドとして生まれたゆえか驚嘆すべき生命力を誇って100年以上も生き続け、小栗の死から1世紀以上経過した20世紀末、競走馬として競馬界で華々しい活躍を遂げることとなる。そう、皆さんご存知オグリキャップである。造船所の建設とか幕府の補佐などにばかり言及されているが、卓越した競走馬を産んだ事も、彼の功績の一つである。

正式な名(諱)は忠順(ただまさ)だが、小栗上野介という「通称」の方が浸透している[要出典]ので、記事の表記はこちらを使用する。「ウィキペディア準拠」などという右に倣えの判断で一般人の認知を得難い正式名称に移動しないように。

人物[編集]

旗本小栗忠高の子に生まれ、日米修好通商条約批准の為に遣米された使節団に目付として随行、アメリカの各地を巡り見聞を広め、帰国後は勘定奉行陸軍奉行軍艦奉行と各奉行を歴任し、大車輪の活躍を見せて斜陽の幕府を支え、幕末の難局に対処した。その経歴は勝海舟と似ているが、勝が光の射す中輝かしい境遇を過ごし後世に英雄として名を残したのとは対照的に、小栗は日の目の当たることのない影の射した境涯に置かれていた。維新後は農村に逼塞して静謐の中余生を過ごそうとしていたが、謀反の罪をでっち上げて処刑された。維新後法螺を吹聴しまくったり清国の重役と親睦を深めたりした挙句「コレデオシマイ」というふざけた辞世の句を残して彼岸に旅立った勝とは雲泥の差である。

稀有な幕臣[編集]

勝や一部の口先が達者な連中のおかげで、薩長との全面戦争は回避され、江戸城無血開城が行われ、流血なくして幕府から新政府への政権の委譲が行われた。薩長に断固として恭順せず日本最北の星型要塞に篭って徹底抗戦をした榎本武揚ら一部の頑固者達も結局は許され、榎本などに至っては後に新政府でそれなりの地位に昇進している。そんな中、処刑されてしまった小栗はある意味稀有な存在である。明治政府は、小栗を処刑するための口実を必死になって詮索したらしい。

処断の真相[編集]

何故明治政府はそこまでして小栗の処断に躍起になったのか。その理由を巡って、様々な憶測が虚実を交えて飛び交った。その中にはおおよそ信憑性に足らぬ荒唐無稽なものもあり、中でも噴飯モノなのが、小栗は所謂徳川埋蔵金を隠して温存しており、隠しどころを詰問してきた新政府に対して口を割らなかったから処刑された、というものである。それだけの資金があったら幕府は負けていないし赤字にはならない。他にも、対立することが多かった勝海舟に讒訴された、敵である西郷や大久保利通と内通…いや親睦を深めていた勝のような柔軟性がなく、薩長に対して徹底抗戦を主張していたタカ派の首魁であったため、新政府から危険視され、怨嗟も抱かれていた、とか言われたりしているが、流言蜚語に惑わされて新政府が勇み足踏んで小栗をひっ捕らえて首撥ね飛ばしちゃったというのが一番信憑性、妥当性に富んだ説だろう。

悪人面の小栗[編集]

洞察力に優れ、鋭敏な思考を持った英邁な人物だったが、勝のように変わり身が早い愛嬌を振りまく事は苦手だったため、敬遠されこそすれ、好まれる事は無かった。単刀直入に言えば、友達がいなかった。また外見も、額が広く色黒で、猛禽のように鋭い目つきをしており、徳川慶喜に「こりゃ見るからに悪人面だわ」と言わしめるほどの形相で、近所の子供が顔を見るだけで泣き出してしまったなんて話も残っている。見るからに悪人に相違ないと言われる顔つきが他人に色眼鏡をかけてしまい、処刑される遠因を作ったとも考えられる。また官名が47人の卑怯な赤穂浪士達に徒党を組まれて夜討をかけられた挙句嬲り殺しにされたにも拘らず多くの人々に大悪党として認知されてしまった吉良家の御爺さんと同じであったため、この点でも連想的に悪人であるという認識を抱かれていた模様。

業績[編集]

最も特筆すべきものとして、フランスの技術者レオンス・ヴェルニーを招聘して横須賀造船所を開設した事が挙げられる。横須賀造船所は後に日本海軍の拠点となり、戦後は在日米軍が駐屯し基地として利用している事から、小栗は一部のリベラリストから「日本の右傾化を推進し、戦後のアメ公の日本への干渉の素地を形成した極悪人」と的外れな批判されている。むしろこの批判は小栗を葬り去りつつおいしいところは取っていった明治新政府とその後継者たち(彼らが勝ち目の薄い戦争をしたことがそもそもの原因であり、小栗はそんなものの為に造船所を作ったわけではない)に向けられるべきであろう。

ヴェルニーとの交流からかフランス式の軍隊に魅了されていたようで、フランス式の軍備の導入を積極的に推進していた。小栗のフランスへの傾倒は、ナポレオン・ボナパルトに惚れていたことが原因ではないかと指摘されている。

勝海舟との関係[編集]

小栗と勝は幕府の舵取りを巡りしばし激越に対立した。小栗は薩長より先に欧米列強と結託し、包囲網を敷いて薩長を殲滅するという青写真を描いていたようだが、その小栗の構想を勝は「そんなことできるわけねーだろw」と鼻で笑った。小栗が露と消えて反論できなくなった後に。

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