崇峻天皇

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崇峻天皇(すしゅんてんのう。在位587年?〜592年?)は飛鳥時代の大王である。蘇我馬子により暗殺されたといわれているが、なぜ殺されたのかはよくわかっていない。大王暗殺という未曾有の大事件を起こした蘇我馬子は、その後、推古天皇聖徳太子とともに、何事も無かったかのように政治を続けている。まことに不可解な事件であるにも関わらず、現在に至るまで、それを深く研究しようという動きも少ない。我が国の歴史上最大の暗殺事件であるが、隠蔽されているのである。

即位までの経緯[編集]

泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)は、子だくさんの欽明天皇(在位539年〜571年)の目立たない王子として生まれる。まさか、将来大王位に就くとは誰も思っていなかった。

敏達天皇(在位572年〜585年)の崩御前後から、蘇我馬子物部守屋痴話喧嘩が始まったことはよく知られている。敏達天皇の殯(もがり。要するに、ちゃんと埋葬するまでのお祭り)の際には、刀を腰に差していた蘇我馬子に対して、物部守屋が「矢の突き刺さった雀みたいだなwwww」と言ったという。逆に、重要な場面でガクガクブルブルしていた物部守屋に対して、蘇我馬子は「鈴をつけたら良い音がしそうだなwwww」と言ったという。これをきっかけに、大混乱の時代が始まる。

敏達天皇の後は、その第一皇子とされた押坂彦人大兄皇子が後を継ぐはずだったのだが、大人の事情により、敏達の兄弟である用明天皇が即位する。これに対して泊瀬部皇子の同母兄であり有力な大王位継承候補であった穴○○皇子はぶち切れ、敏達の美人妻(炊屋姫。後の推古天皇)の穴に自らのイチモツを挿入しようとする。ところがこれに失敗。逆上した穴○○皇子はクーデタに踏み切る。泊瀬部皇子も兄に協力し、有力豪族物部守屋も味方についた。一方、炊屋姫は蘇我馬子を味方につけ、さらに、馬子のイチモツの方は受け入れた。ここでの内戦勃発はどうに防ぐことができたが、用明天皇は心労のあまり病に倒れる。

即位2年目にしてそろそろ用明天皇が危ない、ということで、有力な王族たちや、それを支援する豪族たちは、用明の病床で早速王位継承のための戦いを始める。『日本書紀』には別人が「太子」と書かれており、どうやら後を継ぎそうだったらしい。しかし、物部守屋が推す穴○○皇子も有力であり、蘇我馬子は新恋人炊屋姫にしか興味がなく、混乱はさらに深まることとなる。

587年4月、用明天皇が崩御すると、早速翌月には物部守屋が穴○○皇子を擁立すべく動き出す。それに対し、翌月、蘇我馬子は炊屋姫とともにいきなり穴○○皇子を殺す。泊瀬部皇子は、これはかなわないとみて、物部守屋のもとを離れ、蘇我馬子のもとへ行く。そして、反物部守屋連合軍の先頭に立って戦い、見事勝利。反物部守屋派の皇子の中で最年長であったこともあり、即位することとなった。

即位から暗殺まで[編集]

大人の事情によりなぜか検閲により削除を差し置いて即位した崇峻天皇だが、蘇我馬子らとの対立はすぐに顕在化したようである。592年の10月、猪を贈られた崇峻天皇は、「いつか、この猪の首を切るように、朕が嫌いな奴の首を切りたいものだ」と言い、武装し始める。これをみた妃の小手子は、最近愛されていないことから、夫をいぢめてやろうと思いつき、馬子にちくってみた。すると馬子は、自分が殺されるのではないかと思ったらしい。そこで、翌月、東国からの献上物が来るからと嘘をついて群臣を呼び集めて、その目の前で子分に崇峻天皇を暗殺させた。さらに、馬子の愛娘を寝取ったことを理由に、その子分も殺してしまう。

さらに馬子は、恋人の炊屋姫を即位させ(推古天皇)、太子の厩戸皇子とともにトロイカ体制を築く。ここでようやく、敏達天皇崩御に際しての痴話喧嘩以来の内紛は終結し、安定政権が誕生することとなった。暗殺について蘇我馬子が罰されている形跡はないことから、推古天皇や厩戸皇子などもグルであったとみられる。

暗殺の真相[編集]

暗殺事件については『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』の2つの史料が触れているが、後者は「殺された」と記すのみで役に立たない。『日本書紀』には東国からの献上物の話が載っているが、この「東国」を「三韓」(朝鮮半島諸国)に置き換えると、あ〜ら不思議、中大兄皇子によるイルカ暗殺の場面と同じになってしまう。要は、パクリなのである。どっちがどっちのパクリなのかって?イルカ暗殺の方は、『日本書紀』にも『藤氏家伝』にも詳しい描写が載っているので、どうやら、崇峻暗殺の記事の方がパクリのようである。『日本書紀』に書かれている内容は、信用できないのである。

また、『日本書紀』には、崇峻天皇の在位期間は6年間(用明2年(587)〜崇峻5年(592))であるように書かれているが、『古事記』及び『上宮聖徳法王帝説』には4年間と書かれている。『日本書紀』に書かれている年代は、信用できないのである。

そもそも、馬子らと対立した原因についても、イマイチよくわからないというのが現実である。蘇我馬子の専横に崇峻天皇が反発した、という説もあるが、蘇我馬子が専横をしたなどとはどこの史料にも書かれておらず、デタラメである。朝鮮半島に兵を進めたい崇峻天皇と、仏教政策を優先したい馬子・炊屋姫らでは、意見が合わなかった、という説が有力ではあるが、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。『日本書紀』は、何も語っていないのである。

何もかも信用できないため、諸説が飛び交っているのが現状である。591年暗殺説、崇峻非即位説、炊屋姫黒幕説、崇峻無能説(無能な崇峻をお払い箱にするべく豪族たちがオリエント急行方式で殺した)などがそれである。

いずれにしろ、我が国の歴史上の最大の暗殺事件であるにも関わらず、真相がわからないだけではなく、あまり関心も持たれていないことに注意すべきである。なぜであろうか。答えは簡単である。この真相が明らかになると困る人々がいるからである。もったいぶらずに言うが、史実は

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関連項目[編集]

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