帆曳船

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帆曳船(ほびきせん・ほびきぶね)とは、茨城県霞ヶ浦と北浦のみで使用されてい小型帆船である。霞ヶ浦では1966年頃、北浦では1980年頃完全に姿を消したが、1971年に霞ヶ浦での操業が観光目的に再開されている。

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第一部 -折本良平の苦心-[編集]

風を孕む。

発作[編集]

時は明治の初め、霞ヶ浦のほとりに住む一人の男がいました。名を折本良平といい、日々生活の雑貨を改良したり発明することで生計を立ていましましたが、それでも足りない収入を霞ヶ浦の地曳網や船曳網漁の引き子をすることで日々食い繋いでいる貧しい男でした。

当時の漁業は網元が主催する大徳網と呼ばれるもので、網は長くて重く、20人以上の引き手を要する非常に原始的な手法のうえに、網を引くのにちょうど邪魔な場所を陣取り、網の上にのってをパタパタするだけの網主が漁獲の大半を取ってしまい、漁夫たちの取り分は微々たるものであったのも不満の種でした。その頃東京の銀座の辺りでは文明開化だ何だと皆が浮かれ、髷を毟って肉を喰らい、妙な燕尾服を着てぎこちないオルガンにあわせぎこちなく体を揺らしていたようですが、田舎の生活は江戸時代から何も変わってはいなかったのです。

彼は日々霞ヶ浦のさざなみを眺め、「打倒網元」について考え、自分がとんでもないことをしでかして網元から漁民を救い、皆の英雄になった暁には村の若い娘を娶る……と来たところで、自分が四十を過ぎているというのに一人やもめであることに気が付き一筋の涙が頬を伝いましたが、それをごまかすように都合のいい妄想をしながらいつしか寝てしまいました。

数時間も経ったでしょうか、彼が起きると自分のふんどし風をはらんだかのように大きく膨らんでいる事に驚きました。体を起こすと、水面には立派な帆をなびかせ荷を運ぶ高瀬舟が見え、もう一度自分の高瀬舟と水面の高瀬舟を対比させてひらめきます。ひらめいたとたんに彼は「アワァアアアアア!」と喚きながらその場を離れ走り、金貸しに飛び込むと、「この村に折本某という石工がいます。私の弟だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの弟をどこの下男にでも売り飛ばして下さい。」などとのたまい、弟を担保にありったけのお金を借りました。その後五里先の船大工の元まで走り、借りたお金をすべて使って高瀬舟を買うと、一週間かかりながらも鹿島灘を漕いで利根川に入り、霞ヶ浦の岸に停泊させ陸に揚げて大工道具を持ち出すと、気分はもう漁撈空間改造の匠だったようです。

苦難[編集]

しかし思いつきから始まった改良は困難を極めます。最初安直に高瀬舟を使って漁をしましたが、一人で高瀬舟に乗っているうちになんだか遠島にされるような気分になり、一人で身の上話を語り始めてしまいそうなのでやめました。

その後方法に改良を加えても何も進歩しないことに激しく苦悩した彼は次第に農業もおぼつかなくなり、夜は鼻の脂にこよりを灯して設計図を書き、完璧に昼夜逆転の生活を送るようになった彼の目は次第に血走ってあらぬ方向を見つめるようになったのでした。村人は昼間働かず、夜になると奇妙な叫び声を発する彼を阿呆もしくは気違いと呼びましたが(その頃はまだひきこもりなどの気の利いた言葉はなかったのです)、ある日突然彼は高瀬舟を陸揚げし、突然鋸で竜骨を切断。どこから持ちだしたかいかめしい金属の部品をどんどん付け、鉄でできた楼閣のような船を作りましたが、これでは高瀬舟の要素はどうでもよくなってしまいますし、自慢の大砲で網本の漁船を一艘粉砕し、霞ヶ浦のモクズとしても気分は満たされませんでした。せっかくなので、水面を大砲で撃ってみたところ大量の魚が浮かんできましたが、やっぱりこの方法も何かおかしいと思わざるを得なかったのです。

それから普通の高瀬舟にまた戻し、研究を進めるうちに、自分の着想がどこであったかに気が付きます。ふんどしの膨らみに着想を得たのですから、横に帆を張って風が内側からぐいぐいと帆をピンとさせるような構造にすればよいのです。しかし、それには船を横に滑らせる必要があり、常識からすれば正気の沙汰とは思えませんでしたが、実際正気ではありませんでした。しかし、いざ初めてみると難しいもので帆と網のバランスがとれずにパタンと倒れ、パタンと倒れ、パタン、パタンと倒れてしまいます。そのたびに水面に投げ出され、毎日濡れてガタガタ歯を鳴らしている彼を村人は「馬鹿阿呆気違い恥ずかしい大人マー君見ちゃダメ!」などと呼び、妙な眼差しで見ていましたが、若い娘との結婚がかかっているので、諦めるつもりは毛頭ありませんでした。

そして[編集]

水面に投げ出され続けて数年の月日が経った明治十三年(1880年)、五右衛門風呂に船を浮かべて遊んでいるように見えた彼は突然風呂場を飛び出し、大声で何か叫びながら船の元へと走り、船を漕ぎ始めました。口から黄金比がなんたらとつぶやく彼を村人は冷やかな目線で見ていましたが、青い空に映える9メートル×16メートルはあろうかという白い帆は勢いよく張り、船は力強く進みます。対岸に到着し網を上げると中にはたくさんの輝く白魚やワカサギ、立派などざえもんがかかっており、彼は自分が全裸であることなどは気にせず涙を流して喜びました。村人たちは彼を見直しその手法について学ぼうと集まり、彼も来る者には惜しみなく船の扱いを教えましたが、網元の回し者はぶちのめしました。彼の漁法は隣の北浦、後に八郎潟にも伝播し、霞ヶ浦の漁法に新しい道を開いたとして、郷土の偉人と称えられています。

めでたしめでたし。

第二部 -絶滅と間違った復活-[編集]

しかし、時代は常に変わるもの、日本も第二次世界大戦や高度経済成長を経験し、めでたしで終われるはずがなかった。

枯渇と絶滅[編集]

獰猛、貪食な凶悪三人衆。

折本良平の苦心により完成され、その美しく優美な帆曳船を浮かべた霞ヶ浦だったが、戦後の「治水」名目による国の開発によって塩水が流入することをもたらし、霞ヶ浦の水を農業用水として利用していた地域の水田などに塩害が発生。そこで国は「?だったら塞げばいいのです。」と汽水域でしか生育できないヤマトシジミの漁獲が不可能になるとして反対運動を起こしていた漁民たちを無視して常陸川水門を設置。海への道を遮断された霞ヶ浦と北浦は次第に淡水化し、遡上するタイプの魚類(スズキ、ウナギ等)、汽水域のみに生息する貝類たちの漁獲量は激減。また、流れを止めてしまったことにより水は淀み、流れ込む生活排水などの影響で植物プランクトンが異常発生、結果富栄養化が進んだことによって、折本の生前は美味な水として知られていた霞ヶ浦付近の水域は飲料どころか、遊泳禁止になるほど汚染が進んだ。

帆曳船も1966年頃にトロール船が登場することによって次第に役目を失ってゆくが、根こそぎ漁獲してしまうトロール船では資源の枯渇を招き、ワカサギやシラウオの漁獲も減少していったため、帆曳船は霞ヶ浦ではついに絶滅。隣の北浦では生き残ることに成功し、昔日の面影はないもののワカサギ、白魚、川エビなどの漁で活躍し、夕暮れ時には赤く染まった北浦の湖面と白のコントラスト、その背景に悠然とそびえる豚のヒヅメこと筑波山ともあいまった美しい情景だったとされる。北浦のほとりに存在していた白鳥村[1]という名称も、白鷺のような帆曳船にはぴったりの名前であった。

しかし、1980年代に入ると徹底した護岸工事などで岸が消滅してしまい、同時に魚たちの産卵場所もほとんどなくなってしまう。また、その頃から急激に増加を見せたブラックバスブルーギルアメリカナマズなどの巨大かつ絶望的な面々からの食害もあいまって、漁業が成り立たないほどにワカサギや白魚が減少してしまったため、ついに北浦でも帆曳船は姿を消した。

間違った復活[編集]

一時期霞ヶ浦では姿を消した帆曳船だったが、1971年に重要な文化遺産であるとして帆曳船の操業が再開し、白鷺のような美しい姿を目にすることができるようになったが、かすみがうらしと、同市観光協会は調子に乗りすぎた。2008年の観光帆曳船のイベントでとんでもない愚行をしでかしたのである。

清廉な純白であるはずの帆は、なんとめまいを催すような色でベッタリと塗られていたのであった。水面に浮かぶ、ふやけたようなピンク色、チューブから絞り出したような、水まで色が移りそうな色、共産レッドの帆曳船に、村の老人たちは卒倒した。しかし観光に訪れた若者たちは携帯電話を取り出し、ピロリロリンと音を鳴らして写真を撮りながら「キャーキレイキレイ」とはしゃぎ、観光協会もダサい木綿の帆ではなく、ナウなナイロン製の帆を色とりどりのペンキに漬けて得意顔になっていたのである。

一人の老人がそれについてあまりにも下品なマネではないかと観光協会に問い合わせたところ、「今白一色の地味な船を見に客が来ますか?この観光事業によって付近の経済が活発化する効果もあるんですよ?個人の主観で物を語られては困ります。さらに今はカラフルの時代です。タコさんウィンナーやクジラベーコンだって赤く染まっていますし、たくあんは蛍光色、子供たちの大好きな炭酸飲料だってきれいな色に染まっているじゃないですか……えーっと、そう、赤色2号とかですね。ナイロン糸に切り替えたのも、ナイロンの利点について説明すればご理解いただけるでしょう、エー第一に質実剛健……

との回答であり、これからもさらにサイケデリックな柄にするため、大阪のおばちゃんの着ている洋服の柄を目指すとも答えた。実際「虹色の帆曳船」に対しては賛否両論であり、否定派の意見は「あんなのは帆曳船じゃない」、「かすみがうら市のやつらめ!色ばかり塗りおって!けしからん!」などの抽象的なものが多い。一方肯定派の意見は「キレイだからいいんじゃないんですか」、「飽きた。」などの軽い意見が多く、当分は「地元経済のため」という役所からの説明と、軽い方の意見を重視して色塗り帆曳船は運航される予定である。


  1. ^ その後大洋村と改称され、平成の大合併で鉾田市に併合されてしまった。
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本項は第11回執筆コンテストに出品されました。