広沢虎造

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広沢虎造(ひろさわ とらぞう、1899年5月18日 - 1964年12月29日)は、昭和時代の医学者バカの治療法の研究で知られる。

概要[編集]

1899年(明治32年)5月18日、東京市芝区(現:東京都港区)に出生。父もやはり医学者で虎造と呼ばれており、従って本来なら「二世」と呼ばれるべきであるが、歴史的には二代目広沢虎造という呼称で父と区別される。

東京帝国大学(現:東京大学)医学部を卒業後、イギリスに留学していたが、その際に現地の医学生から「There is no cure for an idiot.」(バカに治療法はない)と言われた[1]ことを受け、「そんな馬鹿な話はない! 西洋医学に不可能はないはずだ!」と反発した。そして、この時の経験が、その後の彼の方向性を決めたのである。

帰国後、広沢は脳外科の道に進み、バカの治療法の研究に力を注ぐこととした。しかし、あらゆる角度からの研究がなされたものの、実際にその成果が出るのは1950年代半ば、彼が50代になってのことであった。

広沢学説[編集]

広沢は1950年代半ば、「石松三十石船道中」と呼ばれる論文で、以下の学説を発表した。

馬鹿は死ななきゃ治らない。

つまり、馬鹿の唯一の治療法は、殺す事以外にないというものである[2]

この発表により、彼は一躍バカの治療法の第一人者として世界的に認知され、ノーベル医学賞の受賞候補にもなった。しかし法律の厚い壁が、実際にこの治療法を実践する事を阻んだ[3]

そんな矢先の1959年、とうとう広沢は脳溢血に倒れた。一命をとりとめたものの、広沢の脳にはは重い後遺症が残った。つまり広沢自身がバカになってしまったのだ。しかし広沢はこの自らの不幸をチャンスと考えた。広沢は自らを治療法の実験台にする事を決意し、1964年それを実行した。だが、バカ治療の第一人者たる広沢に代わって、実験の成果を確認する者が、誰一人いなかったのである。残念ながら、自らバカとなっていた広沢は、その事実を失念していた。こうして日本を代表する医学者の命が、無駄に失われたのである。

反例の報告と学説の破綻[編集]

1990年代、日本国内で臨死したバカ蘇生後もバカを治癒していないという事例が報告された[4]。これを受け、世界各国の脳医学者が、広沢学説の検証を一斉に行った。この結果、広沢学説について、大筋では認めるものの修正が必要であるという結論に達した。

馬鹿は死んでも治らない。

しかし、2000年代にはバカを治療する方法が実際に開発され、広沢学説は否定されるに至った。 結局、彼は世界で初めてバカ治療法の研究を行った者としてのみ、医学史に名前を残すこととなったのである。

近年の反論[編集]

広沢が世界ではじめてバカ治療の研究を行ったという説だが、近年の研究により異論が出ている。実は1930年代において、都井睦雄という市井の人間により、同様の研究がなされていたというのである。

これによると、都井睦雄なる人物は、本来は極めて頭が良い人間だったが、後天的要因によりバカになってしまったという。これを自覚した彼は、同じ村に住む30名を実験台として治療を行い、その成果を確かめた上で、自らにもその治療法を行ったとされる。

しかしながら戦前の、しかも医学者ではない一介の市井の人間によって行われた事であり、詳細は現在も不明である。一説によると関東軍731部隊が研究を引き継ぎ、30万人を被験体として実験を継続したが、終戦により資料が全て失われたと言われる。

脚注[編集]

  1. ^ 実は、この英国人医学生は広沢を馬鹿な奴だと思って「お前につける薬はねえな」という意味を込めてこう罵ったのであるが、当の広沢は自分が馬鹿にされていると認識できず、バカの治療法の一般論として受け止めたのである。
  2. ^ この論文には「東京都出身者には寿司を食べさせろ」という、意味不明な文章も含まれていることが知られている。
  3. ^ 日本国内の場合、刑法でこの治療法を実践することが禁止されているので、医学実験の名目でも出来ずにいるのである。ただ刑法の条文をよく読めばわかる事だが、最低2人以上にこの治療をほどこした場合、その者に対しても刑罰として同じ治療法が実行される事になっていた。つまり、そこまでの覚悟を持つ者が皆無だったのである。
  4. ^ それどころか、ますますバカになり、家族などから「もう一度死ね!」と罵られることもあったという。

関連項目[編集]

Wikipedia
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外部リンク[編集]

  • 本当のことを知らないバカのために・・・[1]