文永・弘安の役

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文永・弘安の役(ぶんえい・こうあんのえき)とは、13世紀後半に、当時アジアを席巻していたモンゴル帝国が日本の武士にボコボコにされた戦いである。蒙古襲来とも呼ぶ。

前章[編集]

13世紀のアジアは、チンギス・ハーンが発足したモンゴル帝国が破竹の勢いで勢力を拡張させ、西はヨーロッパに至るまであらゆる国々が制圧されていった。このチンギス・ハーンは実は源義経であり、蝦夷から朝鮮半島、更にモンゴルに逃れ、そこで遊牧民達を糾合し、卓越した武勇と統率力を発揮してモンゴル帝国を立ち上げ、隆盛させたのである。

義経は、平家討伐に抜群の功績を挙げたにも拘わらず、兄源頼朝に疎まれ征伐された過去を持っていた。それゆえ、頼朝と、彼が支配する日本への憎悪は深く、日本への「復讐」を常に検討していた。義経ことチンギス・ハーンは残念ながら死ぬまで復讐を果たすことは叶わなかったが、末期の臨床において、息子達に「何代かかってもいいから、日本に兵を派遣して蹂躙し、俺を追い出した鎌倉の兄貴と日本人共に復讐しろ」と口伝を遺し、この口伝は代々、息子達に伝えられた。

だが息子達には、親父の遺言は私怨にしか聞こえず、日本のような矮小な島国に兵力を注ぐことに何のメリットも見出せないと判断していた。 親父の死の床では殊勝に遺言を聞いていた息子達だが、親父が死ぬとそんな遺言聞いてませんでしたとばかりに進路を西へと変更したのである。 ところが、チンギスの死後50年以上経過して、彼の遺言を遵守する皇帝が現れた。 文永・弘安の役を敢行した、5代皇帝、フビライ・ハーンである。

フビライの日本侵略の動機の引き金となったのは、ある人物であった。その人物とは、東方見聞録というデタラメだらけの紀行文を書いた事で有名な、法螺吹きの天才マルコ・ポーロである。得意の弁舌を以ってフビライに接近したマルコは、行ってもいない日本の風土について、雄弁に語り始めた。マルコは、日本には掘っても掘っても沸いて出てくる無尽蔵の金脈があり、その為日本は大いに繁栄し、寺院から屋敷から皆金で塗装されていると吹聴した。

また、当時モンゴル帝国は、中国の王朝である南宋と戦っていた。南宋は劣勢に立たされ虫の息の状態であったが、なかなかしぶとく、殲滅できずにいた。マルコはこれについて、無尽蔵の財源を誇る日本が南宋と手を結んで貿易を行っており、金銭や武器などをを提供しているため、南宋は持ちこたえていると指摘した。日本と南宋が貿易をやっていたことは事実だが、それ以外は誇張である。

だがこのマルコの法螺をフビライは妄信して日本侵略を決意し、ついに自身が死ぬ間際まで日本征服の成就を願うほどのライフワークになってしまったのである。

高麗制圧[編集]

日本侵略の為、フビライは軍勢を東へと進めた。その途中には朝鮮半島があり、当時は高麗王朝によって統治されていた。朱子学に凝り固まった高麗は、南宋を正当な王朝とみなし、モンゴル帝国を蛮族とみなして抵抗していた。フビライはここを手始めに制圧し、日本征服への橋頭堡にしようとしたのである。

当時の高麗王朝は、日本の平氏政権のように武官の崔氏一族が三別抄という私兵をバックに国の実権を握っており、国王をないがしろにしていた。これを武臣政権と呼ぶが、彼らはモンゴル帝国に対し頑強に抵抗していた。高麗征服が長引くと見たモンゴル帝国は攻め方を変え、「俺たちが武臣政権を倒してあんたを真の王様にしてやるよ」と、お飾り状態の国王に持ちかけた。これを聞いた国王は「本当かい?」とあっさりとこれを受諾。国を思う烈士たちは国に裏切られて流浪することとなったが、その後も各地でモンゴル帝国への抵抗勢力として立ち塞がり続ける。

高麗王朝はモンゴル帝国の属国の常として、王子を人質として差し出したが、これがのちの忠烈王である。そのモットーは「サァ皆んなでそろって楽しく元気にゴマをすりましょう!あ、スレスレ」「口から出まかせ出放題手間もかからず元手もいらず」「偉い奴ァおだてろ、ゴマァすって乗せろィ!」「人生で大事なことはタイミングとC調と無責任」「コツコツやるやつぁご苦労さん!」「そのうち何とかなるだろう」というものであった。抵抗が長すぎて一番最後に属国になったため、席次は末席、食事は犬の餌同然と、当初はモンゴル帝国からあからさまな冷遇を受けた彼であったが、持ち前の明るさと、人の懐にスッと入り込み、ゴマをすって持ち上げるヨイショ術で、モンゴル帝国の要人たちに気に入られ、最終的には皇帝フビライの娘を嫁にするまでになった。忠烈王は最終的にモンゴル帝国皇帝をも虜にしていたのである。

その後父親の国王が三別抄残党のクーデターで追放されると、モンゴル軍とともに帰国。三別抄残党を討伐して父親を王位に復帰させ、その死後国王に即位した。

忠烈王が義父であるモンゴル皇帝に熱心に勧めたのが日本侵略であった。日本が新たに属国になれば高麗が最後の属国でなくなると待遇改善を期待していたとも、モンゴル帝国の都でその国際的で高度かつ強烈な文明に触れたことで「未開」とみなした日本を文明化する使命に燃えていたとも、遠征に伴う物資の生産を請け負うことで産業を興し荒廃した祖国を復興させることを考えていたとも、そもそも何も考えていなかったともいわれている。

交渉[編集]

三別抄の抵抗はありながらも、高麗の足場固めを行ったフビライは、いよいよ日本侵略に着手した。高麗があっさり降伏したことを鑑みたフビライは、日本もちょっと脅せばすぐ降伏するだろうと楽観し、最初は和平を名目に使者を送り込むことにした。ただ高麗の下級役人としては、高麗国王の忠烈王とは違って、日本遠征ともなれば自分たちが命がけで、見知らぬ日本へ出征して戦わなければならない捨て駒にさせられることがわかっているので、日本へ渡る予定のモンゴル帝国の使節に日本海の荒れ模様を見せて航海が危険だからといって、渡航を断念させたりした。しかしフビライは激怒し、「絶対日本に行って、国書を渡せ」と厳命し、使者が再度日本へ派遣されることとなった。この使者は、日本の国土、地理や、日本の支配者の軍隊がどのような戦い方をするのかを偵察、把握し、フビライに伝える「下見役」の役割も持っていた。

ところが日本は意外に強かであり、勧告を拒絶した上、使者が「下見役」であることも看破し、九州にとどめて追い返し、京都や鎌倉へは行かせなかった。その後も手を変え品を変えて、日本へ使者が派遣されたが、いずれも結果は同じであった。[日本侮りがたしと悟ったフビライは、武力を以って全力で日本を征圧することを検討するようになる。

着工[編集]

本格的に日本征圧に着手したフビライだが、日本は海を隔てており、海を渡る船が必要であった。遠征の為の、兵士、武器、兵糧を積載するだけの規模の船団を作るのは、かなりの人力と費用を必要とする。征圧した国に軍事費を捻出させるのは覇道の要諦ではあるが、フビライの胸中には、日本は所詮矮小な島国という侮りがあったのだろう。

フビライは、高麗王朝に、造船費用の捻出と、造船の為の労働力を要求した。 造船は、驚くべき迅速さで行われた。流石にあまりに早すぎる工事に対してフビライも手抜きを疑うと思いきや、彼は高麗人の「造船技術の高さ、仕事の迅速さ」を称賛した。

そう、当時の朝鮮は今の手抜き工事民族とは違い世界有数の造船技術を持っていたのだ!

そして悪夢の遠征へ[編集]

高麗人達が作った船は、見た目だけは荘厳であった。その見た目だけは荘厳な高麗製の船にモンゴル兵達は乗り込み、日本へ向けて遠征していったのである。乗船し、船の内部を見た一部の聡明なモンゴル兵達が、船の造りの杜撰さに察知しかけたが、同乗していた高麗兵が誤魔化した。

1274年、ついにモンゴル帝国の日本遠征軍が出動した。モンゴル帝国としても日本との初戦であったため、お手並み拝見という意味合いでモンゴル軍の兵力は3万ほどであったが、それでも対馬、壱岐を攻め落とし、博多に迫り、迎撃する日本の武士達にボコボコにされたが圧倒的な物量で押し切る。中国の物量好きはこの頃からなのだ。 ちなみに当時の朝鮮兵は今と違い世界有数の実力を持っていた。今の朝鮮人は祖先を見習え!

その後上陸したが圧倒的な武士を前にボコボコにされ圧倒的物量差にかかわらず1日で撤退。ちなみに撤退中台風に見舞わられ大損害を出した。 これが所謂「文永の役」である。

懲りずに二度目の遠征[編集]

マルコ・ポーロに聞かされた無尽蔵の金脈の掌握を諦めきれないフビライは、二度目の侵略に着手した。フビライは、高麗人達が手抜き工事で造船をやっているとは微塵も思わず、再び高麗人に造船を命じた。その一方で、日本はモンゴル帝国の武威に恐れをなしたであろうと、モンゴル人の杜世忠を使者として日本へ派遣したが、杜世忠はモンゴル帝国の使者として初めて鎌倉へ赴いたものの、鎌倉で処刑された。世界最大の帝国の公式使節が処刑されるとは露ほども思わず、いつまでも帰国しないことに業を煮やしたフビライは再度、使節を派遣したが、今度は博多で処刑された。命からがら逃げ出した水夫が帰国して、使節処刑を初めて知ったフビライは激怒して武力行使を決意し、日本行省という役所を設置し、今度は14万という大軍を動員した。

そして二度目の遠征が1281年に行われた。案の定、結果は文永の役と全く同じ、というか、文永よりも惨澹たる有様であった。 迎撃する日本の武士達は、一度目の戦いの経験から、相手の戦法を分析し、効率よく迎撃できる戦法を考案していた。 そして、武士達は敵の船団の弱い部分(船なのでそういう部分があるのは仕方ない)な部分を狙い撃ちにして攻撃、瞬く間に次々と船は沈んで行き、モンゴル軍は惨敗を喫したのである。

その後[編集]

二度の遠征の失敗を経て、フビライは手抜き工事を疑うようになり、高麗の連中を詰問した。 返答に窮した高麗だが、救いの手を差し伸べてくれたものがいた。皮肉な事に、それは「敵国」である日本であった。

弘安の二度目の遠征の際は、暴風雨で海上が荒れ狂っている日が多かった。天候の乱れは、船が次々に沈没した理由の一つでもあった。 幕府は御家人に渡す土地が無かったので神風扱いにし土地を渡すのをためらった。 しかしこれは、台風一家によるものだったry

この話が、高麗人達の耳にも入った。高麗人達は、「使える」と思った。神風伝説を、弁明に利用しようとしたのである。 頑丈な船を作る為に銭と労力を厭わなかった。しかし日本は「神風」に護られており、神の力の前では、いくら最高の船でも抗う術がなかった。 高麗の役人達は、そう弁明した。 フビライは、この高麗人達の弁明を信じたようである。ところが、じゃあ神風が吹かない時期を見計らって再度遠征しようと、何と三度目の遠征を計画するようになった。

これには高麗人のみならず、モンゴルの人々からも反撥され、さらにフビライの後継ぎを巡り騒動が勃発し、モンゴルの王族の反乱が各地で勃発したため延期となる。10年過ぎて反乱がひと段落すると、フビライは改めて三度目の日本遠征を決め、高麗に造船を命じる。しかし木材不足で高麗が造船に難渋する中でモンゴル国内の反乱がまだまだくすぶっているうちに、フビライが1294年に79歳で病死した。ついに三度目の日本遠征が実施されることはなかった。

関連項目[編集]