御門

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御門(みかど、ミカド、帝)とは、門の尊敬語であり、特に都に設置された門を指す。

概要[編集]

門は都の象徴的な建造物であり、日本では古来から都城には必ず設置されていた。門なんかよりももっと重要な建物が有るんじゃないか?と思うかもしれないが、平城京跡地で真っ先に復元されたのが朱雀門であったことからも分かる通り、門は日本人にとって最も重要な建物なのである。

そのため、いつしか門は御門という尊称で呼ばれ、都の入り口どころか、むしろ御門のために都が存在するとまで言われるようになった。御門はくぐるものであり、深々と頭を下げるのがマナーである。

御門はいつの時代も、日本人の尊敬を集め、また日本人の心の拠り所であった。

実際[編集]

わけがなかった。

日本人には本音と建前というモノが有るのをご存知だろうか?日本人は、表向き御門を敬っているが、内心は心底どうでもいいと思っているのである。

日本の御門の運命たるや、放置されたり、荒れ果てたり、放火されたり、盗賊のすみかになったり、死体が捨てられたり、また放火されたり、散々である。ある意味とっても可哀想な門であるにも関わらず、判官びいきと呼ばれる日本人でさえもこの門を憐れむことは決して無かった。ここに日本人の裏の姿が如実に現れている。「御」とは一体何なのだろうか?

御門はとりあえず置いておくものである。あとはどうなろうと知ったこっちゃない。そして、適当に敬うふりをしながら、適当に壊れるまで利用するものでもある。そして、壊れてしまったら、必要なときに新しい御門を立てるものである。

御門の一覧[編集]

日本史の中で受難してきた尊い犠牲の一覧である。

朱雀門(すざくもん)[編集]

内裏の南に位置する御門である。平城京の朱雀門は、当初、有力貴族の名前を取って大伴門と呼ばれるなど、最初から政治の道具にされていた。平安京遷都後放棄され、1000年以上忘れられていたが、平城京跡が世界遺産に認定された記念に思い出したかのように復元された。観光客の誘致のために再び利用される予定であるが、歴史は繰り返されることから、この門があと何年持つのかに注目が集まっている。そして、注目が集まらなくなった時が次の旅立ちである。

他方、平安京の朱雀門は後に荒廃し、鬼や妖怪が棲むと言われる程に落ちぶれ、人々に顧みられることはなかった。現在は、小さな石碑が残るのみである。

応天門(おうてんもん)[編集]

朱雀門の北、内裏のさらに内側に位置する御門である。平安京の応天門は、空海に筆を投げつけられたという伝説が有名だが、その後も度々災難に遭っている。9世紀後半に起こった応天門の変では、貴族たちは「神聖なる御門を燃やしたのは誰だ!」と政敵を罵るために、自ら御門を燃やした。この事件では、結局誰が燃やしたのかは分かっていないが、そんなことはどうでも良い。重要なことは、当時の貴族は口先とは裏腹に、御門が燃やされようと構わない思っていたということであり、御門は貴族たちの政争の犠牲になったということである。この事件の後、応天門は再建されたが、その後倒壊したり、燃やされたりを繰り返しているうちに段々みんな飽きてきたらしく、平安時代末期に火事で燃えてからは再建されなくなった。明治時代になり、縮小された応天門が平安神宮内に建設された。

羅城門(らじょうもん)[編集]

都の最南部に位置する御門。文字通り都の入り口であり、外界の穢れから都を守る御門である。その為、都の内部にある上記の御門よりさらに酷い扱いを受けている。平安京の羅生門は台風で損傷してもろくに修理されず、楼閣には浮浪者が住み着き、死体が放置された。やがて自然に倒壊してしまったという。後代、芥川龍之介はこの門を哀れんで「羅生門」を著したが、人々の目は御門には行かず悪役である浮浪者のほうばかりが注目される結果となった。日本人がいかに御門をどうでもいい存在と認識しているかが分かる。

蛤御門(はまぐりごもん)[編集]

京都御所に備えられた御門である。長い間戦乱と無縁であった京都の御門であるが、19世紀後半に再び災難を受けることとなった。門前に陣取る会津・桑名・薩摩連合軍と、これを討たんとする長州藩が激突し、御門には激しい銃弾の雨が浴びせられた。その跡は今でもはっきりと残っている。皮肉にもこの戦闘の2年後、薩摩と長州は互いに手を結び、共に倒幕のために立ち上がることになる。

遠の御門[編集]

畿内から離れた場所にも御門は建設され、「遠の御門(とおのみかど)」と呼ばれた。

平将門(へいしょうもん)[編集]

10世紀の関東地方に建設された新しい御門である。当時、関東には常陸、上総等の国衙があり、それぞれの役所に門が備えられていた。ところが、新しい都を造ると意気込んでいた人々により「関東に御門は一つで十分」ということにされた為、これらの門は取り壊され、その建材が平将門に流用された。しかし、あまりに立派であったため、嫉妬した都の人々によりあっという間に取り壊される羽目となった。

平禅門(へいぜんもん)[編集]

13世紀後半の鎌倉に建設された御門である。落ちぶれてきた北条家が体面を保つ為に、安達泰盛はじめ安達一族を無実の罪で陥れて殺害し、強奪した彼らの財産を使って建設した。当初は平将門を復元する予定であったが、幕府が禅宗を保護していたことから「平禅門」と改められた。しかし、維持費を自前で賄いきれなくなった北条家は、他の御家人からも費用を徴収しようとしたため、御家人の不満が爆発、さすがにヤバイと思ったのか、たまたま発生した大地震に乗じて自ら御門を取り壊した。平将門と違い、こちらは実際には御門とは呼ばれなかったようだ。

関連項目[編集]