徳川頼宣

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徳川頼宣(とくがわ よりのぶ、慶長7年3月7日(1602年4月28日)~寛文11年1月1日(1671年2月19日))とは、徳川家康の10男にして江戸幕府における初代紀伊藩主である。

生涯[編集]

幼年期[編集]

慶長7(1602)年に伏見城にて生まれる(幼名は「長福丸(ちょうふくまる)」)が、石田三成をはじめとする政敵をことごとく滅ぼし、自称「天下の後見人」として豊臣氏を牛耳り、権勢の絶頂にあった徳川家康の身辺には天下四海の美女を手当たり次第に漁って侍らせた156人の美女たちがたむろしており、当然その全員を家康のしなびたXXXXXで満足させられる筈もなかったため、欲求不満の美女軍団と彼女らを警護する家臣たちとの間でアーン♥♥うふふ頻繁にが行われていであろうことは想像に難くない。よって、実際のところ長福丸が誰の子供であるかはハッキリとしないが、さしあたって家康の子供という事にされた。そんな噂がまことしやかに囁かれたものだが、父親ゆずりの図々しさを受け継いだ頼宣にとって、そんなことを気にする様子は微塵もなかった

青年期[編集]

そんな図太さもあって長福丸は、他の自称「家康の子どもたち」がバタバタと亡くなってその存在がなかったこととされる中でもすくすくと成長、慶長8(1603)年には徳川家康が征夷大将軍となっためでたさついでに、常陸国水戸藩20万石を下賜されたが、やはりそんな事よりも乳母のおっぱいの方が恋しいあたり、図々しさと言っても年相応な可愛いものであった。この頃までは。その後慶長11(1606)年には家康に連れられて上洛、元服して名を頼将(よりまさ)と改め、駿河国駿府藩50万石に転封され、家康の手元で猫っ可愛がりで育てられたため、次第に家康ゆずりの図々しさがエスカレート、元和3年1月22日(1617年2月27日)に加藤清正の五女・八十姫(瑤林院)を娶った頃にはどうしようもない「亭主関白」を気取っていたが、虎退治の要領で八十姫に叩きのめされてからは、すっかりおとなしくなってしまったのであった。反省の証として名を頼信(よりのぶ)と改め、その後バレてしまった浮気の反省の意を込めて再び改名、現在よく知られている頼宣(よりのぶ)で落ち着いたのであった。

壮年期[編集]

その後、心を入れ替えた頼宣は紀伊国紀州藩55万5千石に転封となり、御三家の一つ(紀伊徳川家)の藩祖として幕政をサポートする一方、前政権・浅野家に対する不平不満を解消する政治をマニフェストとする事で人気取りに成功、公共事業(城下町の区画整備、和歌山城の改築など)による浪人の登用や反乱分子の懐柔(地士制度)の導入などによって、その藩政はそれなりに成功を収めたと言われているが、そんないわゆる美談などは面白くないため、どうでもいい事とされている。

武勇[編集]

もはや戦乱の世も過ぎ去ろうとし、まさに天下泰平が訪れようとする江戸時代初期において多くみられた風潮にもれず、頼宣もまた平和を持て余す血気盛んな若武者の一人であった。慶長19(1614)年の大坂冬の陣初陣を飾ったものの目立った武功はなく、翌年の大坂夏の陣においては天王寺・岡山の戦いに参戦するも後詰として待機を命じられ、一人で自慢の槍をいじり回している内に終わってしまった。以降、鎧兜に身を包む機会もなく、駿馬を駆って戦場を駆け巡る夢も失われてしまい、発散されぬままにムラムラし続けるあれを妻・八十姫にぶっかけようと試みるたびにコテンパンにのされてしまう体たらくであった。

そんな頼宣が荒事に顔を出したのは慶安4(1651)年のいわゆる由井正雪の乱(いわゆる慶安の変)において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造して書き上げた「天下大改革の檄文」をばら撒いたために江戸幕府から謀反の嫌疑をかけられたためにその後10年間にわたって紀州藩に帰る事を許されなかったが、無実とはいえ実際のところまんざらでもない様子で、あわよくば隙を窺って本当に謀反を起こそうかどうしようか、大いに迷ったとか。また、この時期に台湾王朝に対して反乱を起こしたの遺臣・鄭成功(いわゆる国姓爺)が日本に援軍を要請したが、もしその時に自分が紀州にいたなら、私兵を率いてぜひとも参戦したかった、と本人が懐述している[要出典]ように、一説には頼宣が紀州藩内の浪士に密命を下し、156人の侍を台湾に派遣したというまことしやかな伝承も残っている。

そしてネ申になる[編集]

そんな頼宣であったが、寛文7(1667)年に嫡男である徳川光貞(とくがわ みつさだ)に家督を譲って隠居したものの、体が動かなくなると口うるさくなるという法則通りの老害ぶりをいかんなく発揮、いい加減死ねばいいのにと思われながら4年後に薨去した。光貞に対する遺言は「いいか息子よ。この紀州はわしが育てたのだから、紀州に生きるすべての家臣・領民はことごとくわしを崇め奉るよう徹底しなければならん。いいか。わしの外に神はなく、代々の紀伊藩主はその威光を述べ伝える使命を帯びた使徒である」というものであった。その戒名も「南龍院殿従二位前亜相顗永天晃大居士南龍院殿二品前亜相永天晃大居士(なんりゅういんでんじゅにいさきのあしょうがいえいてんこうだいこじなんりゅういんでんにほんさきのあしょうえいてんこうだいこじ)」という自己顕示欲に満ち満ちたものであり、仏となったばかりでは飽き足らず、夜な夜な息子の枕元に立っては神号を要求した挙げ句に菩提寺である長保寺の住職までも巻き込んで南龍神社を建立させ、自らを「南龍大明神(なんりゅうだいみょうじん)」と呼ばせたところでようやく満足したのか、めでたく成仏していった……と思いきや時折下界の視察に来るのか、自分が粗末にされていると感じるや否や天罰てきめん、天変地異を乱発させるために今でも和歌山県民は彼をおろそかにすることが出来ず、怯えながら暮らしている[要出典]のであった。

大正2(1915)年には彼の怨霊を鎮めるため、大正天皇によって正二位に叙勲されている。

関連項目[編集]